餓鬼のまま大人になっていく人は、餓鬼の頃に親に退治されなかったのだろう、と思いました。
餓鬼は我儘です。餓鬼ですから。
幼児の頃なら誰もが餓鬼になっていきます。
そんな時に、愛されなかった子は「悪い子」として扱われたのではないかと思いました。
親が迷惑しているような態度を取ったり、困らせている悪い子のように扱われたり。
我儘を言った時にストレートに叱られることなく、罪悪感だけを植え付けられたのではないかと僕は思うのです。
餓鬼は退治されなくてはなりません。
相手にしないとか、叱り飛ばすとか、退治するためには親が更に強い鬼となってやっつけるしかないのです。
もし、母親が自己憐憫して「苦労を誇示」したい人ならば、「子供に困らせられる母」になりたがるであろう、と思いました。
子供はどんどん餓鬼として育っていき、親の顔色を窺ってご機嫌を取るような態度になるでしょう。
どんなに欲しくても手に入らないものは手に入らない。
四歳を過ぎたら「諦める」を覚えていかねばなりません。
「我儘を言い出した時」はどんなにしつこく食い下がっても、泣いても喚いても親が屈しないのです。
餓鬼が喚くのが「鬱陶しい」などと思った時は、親が折れてしまうでしょう。
そして餓鬼は喜ぶのです。
思い通りになったら喜ぶ。
また我儘を言う、悪循環です。
どんなに恨みがましい顔をしていても、泣いても怒っても「思い通りにはならない」と示していく態度が必要です。
愛されなかった人の愛されなかった証拠は、今でも餓鬼であるということなのだなと思いました。
自分のことばかり、願望を叶えてもらうことばかり。
そんなことを考えていれば当然人には愛されません。
愛されるわけがないから餓鬼は幼いうちに退治するのですが、それが成されていないところが「愛されなかった証」なのでしょう。
餓鬼のままの人は、妬む、恨む、バカにする、等々の「愛されない行い」を繰り返します。
他人が折れて言う事を聞いてくれたならば、それは「愛されなかった証」なのに、すっかり「人としての自分」を失い欲ばかりになれば、それで喜んでしまうのです。
厳しくされて愛情を感じることもできなくなり、人としての道を進んで人としての喜びを感じることもなくなるでしょう。
愛された人は願望など叶えてもらえると思っていません。
願望は叶えてもらえば叶うことが無くなります。
心の中に大事にしまっておこうとすらできず、やがては「言う事を聞いてくれる人」無しでは生きていけない、本物の餓鬼になってしまうのです。