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親を恨まない人の場合 ~無料記事~

 親を恨まない人の場合

 親に不満なことがあっても、親が悪者だとは思っていない

 みんな不満はある

 しかし、親のことは好きだし、敵だとは思っていない

 思い通りにならない=悪者、敵

 このようには思わない

 自分と同じように親も人間で、子供が何をしようが望み通りになどしてくれないのが当たり前だと思っている

 親を自分の手足のようには思っていない

 そして、人間も仲間だと思っている

 自分が人間だと知っている

 気づいている

 だから他の人間も同じなのだと思っている

 自分が嫌だと思うことをされても、相手には相手の理由があるとわかっている

 それだけで敵だとは思わない

 自分が何をしても、他人は思い通りのことなどしてくれない、ということは既に家の中でわかっている

 自分が泣いても喚いてもどんなにおりこうさんにしても、親は言う事など聞いてくれないとわかっている

 わかっているから、他人も自分が何をしても望んだことはしてくれないと思っている

 そして他人に何をしてもらっても、自分は望んだとおりのことなどできないとわかっている

 できないことはできない

 やりたくないことは無理にやらない

 やりたくないことを無理やりやらせようとする人は仲間ではないとわかっている

 人間だから、仲間であっても怒ったり嫌な態度を取ったりしてしまうことがあるとわかっている

 それでも、自分とは関係ない何かの理由でそのようなことがあった時は、相手が苦しんでいるのだとわかっているから寛容に待つことができる

 仲間でも相手を傷つけてしまうことはある

 傷つけようとしているわけではないが、してしまうこともある

 しかし、「傷つけてしまった」と気付いたら仲間を守るために同じことはしないとわかっている

 気づけばやめてくれる

 わざとではないから

 仲間だから当然だ

 だから許せる

 神経症者と呼ばれる人は、意味不明だ

 仲間のように見せかけてくるのに、嫌がることを何度でもやる

 気づけばやめてくれると思っても、同じことを何度でもやる

 わかってもやる

 何度嫌だと言ってもやり続ける

 仲間だ、と言いながら、仲間のふりをして傷つけることをやり続ける

 それでもまだ「仲間かのようにしている」から意味不明なのだ

 いつまでも「仲間のような顔」をしながら、相手が嫌がることはやめない

 妄想恋愛ストーカーの女子は何度も嫌がることをし続けるが、何度言ってもやめてくれないことを批難するとこう言った

 「こんなに嫌だと言う事をやり続けているのに、どうしてそれでも私に優しいの?」

 この時はじめて、こんな異常な人間は初めて見たと思った

 これが本当に異常な人だ

 「だから、嫌だと言っている」と言っても

 「じゃあどうしてそれでも私に優しくしてくれるの?」と僕にその答えを求めてくる

 仲間だと思っているからだ

 「どうして私に」ではなく、それが「仲間の役目」だからだ

 僕は相手の仲間として接しているから、どんなに嫌なことをされてもそうするしかない

 陰口を叩いたり意地悪をしたり、嫌がることや傷つけることをしたいほど一緒にいるのが嫌ならもう仲間ではない

 そうなったら離れる

 一緒にいるうちは「仲間」だから許しているが、許しているうちに仲間はやめてくれる

 嫌なことをやられ続けていれば、当然嫌いになる

 だが、まともに考えてそんなことはしない

 「わざとじゃない」という証明は、「気づいたらやめる」からできるものだ

 それで「そんなこともある」と本当に心から許して忘れられる

 だが、「嫌なことをやり続けているのに、どうしてそれでも私に優しいの?」と言う

 自分が仲間だ、仲良くしたいと言い続けているからだ

 そして実際仲間かのようなこともしてくる

 これが「矛盾した人」だ

 答えを言うならば、「まだ仲間だと信じているから、それとも、本当は仲間ではないのか?」

 これが、「味方のふりをしたスパイ」だ

 相手は関係ないことでイライラしたり悩んでいて、つい八つ当たりしたり暗くなっていたり、そんなことは誰でもある

 「一体どうしたのかな」

 そんな風に心配はするが、かと言って仲間を悪者だとか意地悪をしただとか、そんな悪意のある観方はしない

 ただし、「決して悪いやつだとは思わない」のは当然だとしても、自分のしていることに気づいたら「もうやらない」のもまた当たり前だ

 この当たり前がないのが、異常な関係を作ろうとする人だ

 仲間ではない

 敵なのかと言ったらハッキリ敵にもならない

 いつまでも「いつかはきっと変わってくれる」を期待して、「今の私が嫌でもいつか変わる私に期待し続けて付き合いを続けて欲しい」という付き合いを続ける

 よって、いつまで経っても親しくならない

 「いつか本当の仲間になれる日まで待っていて」なのだ

 今は仲間ではない

 我慢してもらいながら付き合いを続けるのだ

 この異常な付き合いを続ける人は、親子の関係から同じことをしている

 「いつかはきっと変わってくれる」「いつかはきっとわかってくれる」

 この期待をしながら、話もまともにきかない親にいつまでも期待している

 「理想の親」を諦められないから、親とは正反対の「話をきちんときいて受け入れてくれる誰か」が現れたら、親子の関係を維持するためにもいじめ続けなくてはならない

 親離れしていないのだ

 ある時、他人の中に自分が現れる

 親に対して必死になっていた自分が、他人の姿を借りてやってくる

 その時に「あの時の自分」を受け入れていければ、親を諦めて外の世界に出ていける

 だが、親離れできない、親に執着し過ぎている人はどうにもならない

 「親から離れるのが怖い」のだ

 何をしたら、何をしてくれる

 このように連動して生きている誰かが欲しい

 自分の意思とは関係なく勝手に動く生き物が怖いのだ

 独立した意思で生きる人は怖い

 自分に合わせて動いてくれないと、何をするかわからないから怖い

 僕は、相手の普段の行動から「この子はそんなに怖い子ではない」と判断することができた

 しかし、大抵の人はそこまでの観察力もなく、深く考えもせず、ただ感情のみで生きるらしい

 僕は親を恨んではいない

 何もかも表裏一体

 僕自身が何も悪いことを考えておらず、親の敵ではないと自分のことだからこそわかる

 危険でもない子供に対して非道な態度を取り続けるのは、何かがあったからだ

 僕は関係ない

 僕は普通に考えても問題ない子供だった

 それは自分のことだからこそ、確信を持ってそうわかる

 「何かがあったのだ」とわかるから、望んだものがなくても「終わったこと」として諦めていけた

 親には既に最も大事なものを与えられている

 命を与えられた

 命は生きる上で最も大事なもの

 既に貰ったのだから、恨みに思うほどの知恵がついているならば自分で考えて進むしかない

 親を恨む人は、自分に合わせて動かない親がどうしても許せないらしい

 自分が言う事を聞くからそうなるのだろう

 「してあげたんだから、してちょうだい」という発想だ

 人はそれぞれ独立した意思を持つ

 自分が何をしても何か見返りがあるわけではない

 親を自分に連動して動く手足のように思っている

 それは最初の頃に誰もが体験する

 意識の上で「もうバラバラになっているのだ」と自覚できて、はじめて独立したひとりの人間となるのだ

 それが心理的自立というものだ

 物理的にはいくらでもバラバラになれるのに、心理的には離れることができず、そのため他人との関係も「連動式」にしかならないのが「自立できない人」だ

 自分は自分の分だけ、で終わりにできないのだ

 迎合し、同意を求め、何かしたら何かしてもらえるという完全に決められたルールの中にいて安心できる

 自由な意思を持つことはなく、他人の意思を尊重もできない

 「尊重」の意味がわからないから、尊重して離れる、という真似をする

 結局は「同じでなくては仲間になれない」のだ

 外ではいくらでも親の悪口を言うのは子供の常だと思うが、まさか誰にも知られないところで迄、本当に敵のように思ってどうにもならない事態になっているのではあるまいな

 最近はそんな心配をしている

 「口だけ、言うだけ」

 それが子供というものだ

 それでも、人間は親のことが無条件で好きなものだから、なんだかんだ言っても親の敵になることはない

 というのは、僕自身がそうだから思うことだが、どちらにせよ親子のことなど他人が確認することはできない

 他人は他人の立場で「言ってるだけ」の話を聞くだけだ

 それぞれが当事者だけしか知らない大事な場を持っている

 そこでどうするのか、どうなっているのか、そんなことは他人が関与することでもなければ、他人の家に立ち入るものでもない

 ただ、外に出て愚癡が多い人もいる、というだけなのだ

 結局は目の前のことしかわからない

 確認できるのはそれだけだ

 親にしても、他人にしても、それ以外のところは「信じるしかない」のだ

 ただ、目の前にいて起きていることは「事実」なのだから、見えない他の部分は信じるにしても、どうしても「目の前にいる場での問題」が続くようならばただ離れるしかないのだ

 「信じたまま離れる」しかないのだ

 最後まで信じて仲間であれたか

 それが自分自身の精進すべき部分であり、他の部分については相手のすべきことなのだから、余計な手出しは無用なのだ

 みな自分の分があるのだから、他人が人の人生、人の行動を奪うような真似はしてはならないのだ