無責任な人の話の聞き方は、時間と立場を無視する聞き方です。
例えば、その人が今現在四十歳の母親だったとします。
子供は思春期です。
親子の関係についての話を聞いたとします。
不特定多数に向けられたもので、自分に直接言われているものではありません。
その際に、「こんな母親は良くない」という話があったとすれば、その時は自分が子供の頃の記憶を思い出して、子供の立場で聞きます。
「そうだ、私は本当にあの時辛かった」と被害者になります。
そして、「こんな子供は本当に母親を苦しめる」という話を聞けば、今度は自分が母親の立場になって「うちの子も同じことをする、私は本当に辛かった」と被害者の立場で聞くのです。
これが無責任な人です。
今の自分と、記憶の自分を混同すれば、いつだって誰だって「常に被害者」になれます。
しかし今の自分は母親なのですから、記憶は記憶、今は今として母親の立場の自分を当事者にしなくてはなりません。
前者も後者も、母親の立場で聞かねば自分が大人になったり子供になったりしていることになってしまいます。
どちらも「自分の立場」で聞かねば、自分の反省すべき点や、今後の改善のために人の話を役立てることができません。
どれもこれも被害者の立場で聞けばいいならば、なんにもしなくても人のことを責めては嘆いているだけになります。
「自分が誰か」ではなく「どんな立場になりたいか」で聞いてしまうのです。
立場と言っても、「被害者」という状況における特定の視点での立場です。
そもそも加害者被害者という見方は、当事者を除く人の立場からの味方です。
当事者ならば、そのどちらでもありません。外から見た人からどう見えるかという問題であって、どちらにせよ当事者にはそれぞれ理由があるはずです。
例えば虐待についても、もし僕が客観的に母のしていることが虐待だと知っても、それをそのまま「それは虐待だ!」と口にして母を責め立てるのは立場がおかしい話です。
僕は僕の立場で発言しなくてはなりませんから、「これはできない」など自分の立場から相手に対する発言をしなくてはなりません。
「これは虐待なんだぞ!」と相手を責めるのは、いじめられっ子が自分ではどうにもできなくて、誰かを味方につけて逆にいじめをやり返しに行く時のやり方です。
子供の頃ならば
「お前のしてることはいじめだってみんな言ってるぞ!」
といじめに行くようなものです。
そのような「いい子のふりしたいじめっ子」は、その時は我慢して相手に合わせておきながら、本当は嫌でもなんでも関係なくいい顔をしていて、後からどこかで「被害」を訴えて援軍を呼んでいじめにいくという、卑怯なやり方をします。
結局は、「自分がいい子ヅラしていたいだけのいじめっ子」です。
微塵も良い子ではありません。
そのように、いじめをしている側なのに常に「自分は被害者」という立場をキープしていじめをする人がいます。
ただ、冷静に頭の中で構図を思い描ける人は、相手の立場がコロコロ変わっていることがわかりますから、まともにやり合おうとはしません。
普通によくいるいじめっ子です。
いじめっ子ですが、スネ夫みたいな人です。一人では弱いけれど、どこかに行って強い味方がいれば強気になるという、寄らば大樹の陰で常に何者かに守られたい腰抜けです。
ジャイアンみたいな人を見ては「いじめする人って嫌だよね」と言いながら自分は陰湿ないじめをしています。
似たり寄ったりでタイプが違うだけです。
そもそも現実にはそれぞれに理由がありますから、漫画みたいな悪者はどこにもいません。
しかし、いじめをしながらドラマチックに被害者をやり続けたい人もいて、立場をコロコロ変えながら「浸りたい気分」に合わせた聞き方をするのです。
存在しているようで、していない人です。
なんの相手にもなりません。立場がコロコロ変わるのでは、なにかしらの関係などというものは作れません。
そんなことができたら楽ですよね。
どんな立場でも乗り越えなくてはならない場面があるのに、立場を変えて話を聞いていればいいならば「今のまんま」でも生きていけます。
しかしそんなわけがないので、実際の関係はどれもこれもダメにしていくのです。
勿論本人にリスクがないわけではなく、本物の立場だけで話を聞き受け止めることをしないため、自分が何をしたいのか、何を思っているのか自分でもわからなくなる、という人生全体を左右する弊害を生んでいるのです。
本人がどう思うのかはわかりません。
その時その時「気分に浸れればなんでもいい」だけならば、実際には何も残らなくても作られなくても、そして本物はなにも体験しなくても、一瞬その気分になれただけ、の繰り返しでいいのかもしれません。
そんな夢みたいなことができたら、生きてて最高ですよね。
いつだってなりたい立場で聞いて浸っていればいいのですから。
あっちに行ってもこっちに行っても誰かに泣きついていれば、欲しいものが得られる。他人の力で生きていける。
自分は常に「悲劇の主人公」でいればいいだけの、簡単な人生です。
「簡単なんかじゃない!酷い!私がどんなに辛いか!わかってない!」
と嘆いているだけの簡単な人生です。
この生き方をしていれば、自分のことだけ考えて、他人のことは「言ったことが思ってること」だということにして生きていけるのです。
普通はできないことですから、いい思いをしてきた分リスクがあるのは当然なのです。
コロコロ立場が変えられるならば、いくつになっても若い人の立場で話を聞いて「年を取らずにいる」ことだってできるでしょう。
その時その時、様々な新しい問題に直面するから人は成長していくのです。
払った犠牲の方が、遥かに大きいことは乗り越えていかねばわからないものです。
批判的な見解だと思うでしょうけれど、結局のところ「本人が一番損をしている」という事実には変わりありません。