自分が何を信じているか、それにより未来が変わります
あり得ないことは信じているつもりでも、心から信じていません
自分に都合がいい願望は信じているのではなく、思い込もうとしているだけです
信じられないから思い込みたいだけの時は、信じられる形を外側に作らねばなりません
現実逃避をするために、他人を動かさなくてはならないのです
しかし、他人に言う事を聞かせても、誘導して望んだ形の行動をとらせても、どこまで行っても信じていないものは信じられません
「こんなに頑張っているのに!」
他人が思い通りにならないから嘆くのは、自分がどこまで何をしてもらっても今も未来も信じることができないからです
常に疑っているのです
信じていないからです
信じていれば、形の上で何が起きても信じていられます
信じるとは、わからないものをわからないままで信じることです
「絶対にこうなる!」と思い込もうとしている時は、今は疑いです
どうなるか見張っていなくてはなりません
形の上でどんなことが起きるかにより
「ダメだった!」
と嘆かなくてはなりません
疑っていれば、常にこれから何が起きるか他人を監視しなくてはなりません
信じたいけど信じられない、だから私が私の望んだことを信じられるように、他人が信じられることをしてくれ
こんな滅茶苦茶なことを望みます
信じられないのは自分のせいです
思い込もうとしていることを「信じている」と勘違いしている人がいます
信じるとは、結果によって左右されるものではありません
最初は親を信じなくてはなりません
今更言いにくい話なのですが、僕は母を裏切ってもいないし、母の敵にもなっていません
僕の母なので必ず何か理由があるはずだ、こんなことをしたくてしているわけがないのだ、と信じました
信じていたので、その通りになりました
現実を生きる道は、どうなるかわからない未来に向かって走り続ける道です
常に未来はわかりません
わからなくても、確信を持って信じればその通りになります
「毒親の子」は、親を信じられないようですが、それは「自分の思い通りに動けば愛されているのだ」と思っているからです
子供が好きでも、子供が心の中で望んだとおりのことなど親にはできません
望んだことが起きなくても、自分が理由で動いているわけではありません
親も他の人も、自分を理由に動いている他人はひとりもいません
自分が何をしても、自分を理由に動いているわけではありません
自分が動かせている他人はひとりもいません
自分が動かしているのは自分一人です
最初からです
子供はそれがわからないため、自分が他人を動かせていると勘違いしています
自分が何かすると動くから、自分が動かしているのだという感覚で生きています
勿論そんなことはありません
親は親で、他人は他人で、それぞれ自分とは関係のない過去や理由があって動いています
自分が説得したり装ったりすることで動いたと勘違いしているのは、他人の存在を認めていないからです
自分が何も思わなくても他人は存在しています
何も求めなくても、何も考えなくても、自分などいなくても、他人は存在しています
まず先に他人全てをそのまま存在させてから、何が起きているのか把握しなくてはなりません
周りを確認する前に、願望を押し付けていくのは幼児の常です
しかしそれでは他人も自分の面倒を見切れません
自分に何をしてもらったところで、相手が相手のやりたいことをやったわけではないのですから、他人を操作するために何かをしても無駄なのです
自分が他人を喜ばせることをしたら、それは自分の行動です
相手が相手自身のやりたいことをやったわけではないのです
相手が相手の意思でやりたいことをやるターンが存在していないのが、「他人がいない世界に生きている人」です
確実なことがあるので、覚えておいてください
親を恨むとバカになります
生まれて最初に「表裏を知る存在」が親ですから、自分とは関係のない理由があるのだと考え親を信じて存在を排除せずに始めなくては、「自分として生まれて来られない」のです
親を信じられない人は、人間そのものを信じられません
どんなに自分に好意的で善良な人に出会っても、必ず疑います
最初から疑っていて、信じるために相手を操作しようとします
信じられないから、「信用するために望んだことをしろ」と要求しているのです
疑っているなら最初から関わらなければいいのです
「証拠を見たら信じてやる」
こんな態度で人と接しても、相手にとっていいことは何もありません
無条件で自分を疑ってくる「赤の他人」に信じてもらうために証拠を見せる必要などありません
本人の思う「無条件ではない理由」が、「私の親や過去に理由がある」なのですから、他人にはとばっちりもいいところです
親も普通の人間です
子供の願望に合わせて作った極悪人のような親は、子供の心の中にだけいる存在です
親を手足のように動かせると思い込んでいるから、余計に憎たらしくなるのです
何よりも、親を裏切って親の子として生きていないから、絶望的に孤独になるのです
神経症とは餓鬼のことです
日本人が使っていた表現で言えば、簡単なことでした
餓鬼は親の子ではありません
子供として生きるのを「迷っていて親の子にならない鬼」です
生まれた子供の身体を勝手に使って、命を与えた存在を裏切っている親の敵です
餓鬼にならないように人の子として生きるよう教育するものなのですが、放置して餓鬼を育ててしまっている家が多いようです
家族は崩壊します
心の中で周りを伺っていて、いつまで経っても生きようとしない鬼が裏切るからです
家の中に悪人を作り、外に出て味方を集め家族を破綻に導きます
そんな真似は子供はやりません
しかしそれが餓鬼というものです
分け与えられた命を親を殺すために使う、一族を崩壊させる地獄に生きる鬼です
知恵がつき始めた頃に、なんでも知った気になって偉そうに周りを評価して神様の真似事をするようになりますから、その時に倒してしまわないと、一族の汚点となる存在に育つでしょう
親を信じて生きねば、自分を好きになることは不可能です
親は悪魔で自分は天使、自分の問題は親のせいで、親の問題は親のせい、祖父母は悪魔じゃない
このように矛盾したことを考えるのが、「自分が世界を回していると思っている人」です
自分を中心に全ての存在が成り立っていると思うから、このような理解になるのです
縦軸と横軸の理解ができていないのです
この餓鬼を叩きのめしてしまわないと、子供は人の道を進めません
ただ人の命を食い尽くして殺していくだけです
そして信じれば信じたなりに、思ってもみなかった人情ある未来が待っているでしょう
親が敵になっているならまだしも、子供が敵になっているのでは話は全く変わってきます
僕の母は敵のような真似をして僕をいびり倒していましたが、僕は母の敵にならなかったので人の道を往けました
そして最後には、母も後悔を口にしていました
当たり前のことです
人間ならば、その時どんなに鬼のような所業をしていても、我が子を虐待していて満足して生きているわけがないのです
してはならないことは、決してしてはならないのです
ならぬことは、ならぬものです
餓鬼になってはいけないのです
人の命を与えられたならば、生まれた命の持ち主として生きていけばいいのです