無料記事, 非会員向け

殺意が湧いてくる、という話~無料記事~

 親を殺したくなった、本当に強い殺意が生まれていた

 そんな自分が怖くなった

 という話を聞いて、「思った」だけならばそれは自然現象なので気にすることはないと教えました。

 人の生き血を啜るような輩はいます。

 僕は妄想恋愛ストーカー女子に出会った時、最後には殺すことを考えていました。

 向こうは頭の中に1人で思い描いている妄想のゴールがあるのですが、頭の中の世界に行ける他人は存在しません。

 現実にやっていることはなんの意味もなく、相手が現実を体験しながら妄想に近づいていると錯覚し続けたいだけなのです。

 そのために、これから先、生きていけないというくらい迷惑を被りました。

 嘘ばかりつくからです。

 普通に考えて、自分の頭の中に描いている「妄想」のゴールが現実にやってくるなんてことはあるわけがありません。

 こっちは出会う前から先のことを考えて生きているのですから、言っていることが嘘であればいきなり未来が無くなります。

 約束をしても破る。何度でも嘘をつく。

 その度に真実かのようなふりをする。

 本当であればこっちはそれでいいのですが、最初から嘘。

 嘘をついて話を合わせて、これから未来に進むかのように僕に思い込ませたら、自分の頭の中のゴールに近づいていく、というわけのわからないことを考えている人でした。

 脅して付き合っている時点で「おかしい」とわからないのです。

 「彼氏」という役職のようなものがあると思っている人でした。

 何をしても「理想のゴールにつかない」とわかったら、そのうちもういいやと投げ出していくのです。

 何をしても自分の頭の中の理想になどならないのは、当たり前です。

 理想のゴールに行くならば、最初から自分が何もしなくても、自然に何もかもが理想のゴールに向かう流れに決まっています。

 自分が脅して誘導しているのに、頭の中の世界に着くわけがないのです。

 そんなふざけた遊びに付き合っていて、出会う前から考えていた未来の計画が何もかもダメになりました。

 一緒に決めていたことをいきなり投げ出して逃げるのです。

 当時は本当に悩んでいたし、困っていたし、ノイローゼになっていました。

 最後には覚悟を決めて、どうしようもなかったらもうあの女は殺すしかない、と思っていました。

 このままじわじわと殺されていくならば、正面切って勝負するしかないと思っていました。

 「最も強い武士は、死ぬまで刀を抜かない武士」

 これはうちの一族の教えですが、

 「もし刀を抜く時は、死を覚悟すること」

 という続きがあります。

 人の命を殺める覚悟をするならば、自分も死ぬ覚悟をしなくてはならない。

 そのため、僕は怒りをぶつけることなく、最後まで話し合って解決していく道を選んでいました。

 しかし、相手は「この人は何しても怒らない」と思っているのです。

 そんな人間がいると思っている奴がいることを知りませんでした。

 何しても怒らない人を求める人の方がおかしいです。

 争いは良くないです。仲間と争うものではありません。

 自分の利己的な欲を捨て、仲間と共に生きるならば共に分かち合っていける道を模索する努力をするのは当り前です。

 しかし、こっちが憤っていても冷静に対処していれば相手は図に乗ります。

 どこまで行っても図に乗るだけで、こんなどうしようもない女がこの世に存在したのかと思ったくらいです。

 僕も人間ですから、普通に傷ついたり憤ったりはします。

 しかし、相手も人間ですから、わざとではないと信じるしかありません。

 それが仲間というものです。

 なんでも気づくわけでもないし、何でもできるわけではありません。

 しかし全く相手の身にならない人間もいます。

 僕にとって戦いは「殺す」しかありません。

 それ以外に戦う道はないと思っています。

 だから戦いたいとは思いません。僕も死にたくありませんから。

 自分が死ぬ覚悟をしなくてはならないのですから、慎重になります。

 全力を尽くしてどうにもならなかったら、殺すしかない、と思って「死ぬ気で」なんとかしました。

 相手は軽いノリで生きていますから、自分を殺す覚悟をするほど僕が怒りを感じていたと思っていないのです。

 怒鳴りつけて暴力を振るわないと、「怒っている」とはわからないのです。

 怒る=怒鳴る、暴力を振るう

 幼稚園児のように怒らないと、怒っているとは思わないのです。

 それは知性のない生き物がすることです。

 僕が一番悩む時なのです。

 もう殺すしかないのだろうかと思う時です。

 最後まで話し合いをして、相手の身になって考える。それは当り前として力は尽くします。

 共により良い解決の道を模索していくのは当然だと思っています。

 しかし彼女は本当に異常でした。

 彼氏、という立場になったら、彼女が好きなもの、という「義務化」をしていました。

 脅して付き合っても、付き合ったからには「彼女を好きでなくちゃダメ」なのです。

 そして彼氏は彼女が好きなものだから、「普通は彼氏がこうする」と彼女が思う夢を叶えてくれるものだと思っているのです。

 僕はその女に出会い、オタク女子が嫌いになりました。

 大嫌いにはなりません。なぜなら、僕が好きだった恋人もオタク女子だったからです。

 それまでいいイメージを持っていました。妄想恋愛ストーカー女子に出会って、悪いイメージになりました。

 「人によるのだ」ということがわかりました。

 それでも良いイメージには変わりませんでした。

 それまではオタク男子にも女子にも、いい友人たちがいたお陰で悪いイメージは一切持っていませんでした。

 実際の体験が、それまでの体験で作られた偏見を壊すことになりました。

 本当に恐ろしい体験をしました。

 脳内で一人で思い描いている妄想を「実際の体験の中で楽しむ」ために、人が生きていけないほどの迷惑をかけても、自分は忘れたかのように平気で生きているのです。

 現実に力を合わせて生きていけば、普通にまともな道をいけたのです。

 しかし、彼女の中では「私が主人公で、夢みたいなことが本当に起きる体験」でなくては駄目なのです。

 人の未来を壊していく恐ろしい女です。

 理想の恋愛に出てくる主人公の女は、こんなに性格が悪いやつなのかと驚くばかりです。

 理想の漫画のストーリーに出てくるヒロインが、こんなに性格が悪いことはないでしょう。

 はじめから、脅して付き合うなんて展開のどこが理想的なのか。

 本当に生きていると恐ろしいことが起きます。

 恐ろしい人間がいます。

 自分のために世界があると思っていて、遊び気分で「この人が運命の人かも!」なんてふざけた妄想を楽しんで現実を蔑ろにしているのです。

 それも、「何度でも諦めずに妄想を現実にしようとする」のです。

 話になりません。

 自分がそんな遊びをしていても、現実に接していた他人にはこれからの未来があるのです。

 生きた他人の人生を壊すような真似をしても、平気で今も生きているのです。

 地獄に落ち続けることになるでしょう。

 僕は偏見は良くないと思っているので、出会った時にもう驚きはしましたが、傷つくようなことは言いませんでした。

 好みの問題で言うならば、絶対に御免だとは思いました。

 しかし、相手も人間です。女性です。もっと大事にすべきと思っていました。

 どこかの誰かにとっては彼女もお姫様です。両親にとっては大事な娘です。

 全ての人が尊重されなくてはなりません。

 しかし、彼女は全ての人を尊重して扱うほど、人を大事にする人ではありませんでした。

 人の身になったことが一度もない人でした。

 本当に恐ろしい体験でした。

 そのような体験があれば、殺す覚悟もします。

 その後も思ったことはありました。

 子供の頃は、もっと猟奇的な想像をしていましたし、我慢していれば誰でも殺意くらいは生まれてきます。

 という話を、ある生徒にもしていたところです。

 何かを「思い浮かべる」のは、不可抗力です。

 それは無意識に自分が思っていることに気づくために必要なものなので、それがどんな内容であっても恐れるものではありません。

 心の中から生まれるものがどんなに恐ろしいイメージであっても、自分の心の訴えなのですから聞いてあげなくてはなりません。

 今回は物騒な話になりましたが、殺意も早く自覚していれば制することはできます。

 「殺したいほど憎くなっている」と自覚すれば、死ぬ気で脱することもできるでしょう。

 僕も今は怒りもありません。

 怒りや憎しみを持つ土俵にいた時は、まだ今より未熟でした。

 相手を心から憐れに思える程度には僕も成長しました。

 彼女に出会うまでは僕も女子に対して期待する気持ちがありました。

 現実を知って一切願望を持たなくなったので、それはそれで幸いでした。

 これ以上ないほど酷い人に出会えば、「期待していい存在ではないのだ」とわかるようになります。

 一切期待しなければ、より現実を直視し本物の相手を見て接することができます。

 「諦める」しかない相手に出会うことは、時に必要なのです。

 信じられないほど不誠実で冷酷な人間に出会えば、誠実さや思いやりが如何に大切で価値のあるものか知ることができます。

 当たり前だと思っていたことに、如何に大きな価値があったか。

 僕はいつもいつも、辛い時は過去の仲間たちに心の中で助けてもらっていますから、本当に感謝しています。

 「殺す」なんて聞くと物騒に思えますが、じわじわと殺されることもあります。

 そのまま我慢して死んでいくのを待つだけの人生ならば、そのくらいの覚悟をするのも不思議なことではありません。

 人生には、時に死ぬ気で戦い、死ぬ気で努力して這い上がらねばならない時があります。

 「いると思わなかった人間」がこの世にはいますから、痛い目に遭う度により成長して強くなるしかないのです。