まだ見ぬ友人へ
今回は、まだ見ぬ友人へ、幸せになれない独りよがりな人の勘違いと、幸せになるということについて教えよう。
独りよがりな人は、最初からありもしないストーリーの中に生きていて、他人をその世界に引きずり込んでいこうとする。
だが実際には、他人を自分の記憶の継続の世界に連れていくなどできるわけがない。
彼らが理解できていないのは、「他人にも過去がある」ということだ。
自分が理想の人になりきろうがどうしようが、他人には過去がある。
自分と出会う前から、すべての人に過去がある。
辛いことも楽しいことも、自分が知らないことが沢山ある。
如何に自分の話を親身になって聞いてくれる相手がいても、その過去が消えることはない。
そして、「他人も常に犠牲を払って何かをする」ということだ。
恩着せがましい人は、自分の払う犠牲しか考えない。
「他人の払った犠牲は無視する」
病んでいる人はそのようなことを平気でやる。
今目の前でいいことをしたとか、傷付いたとか、怒ったとかそんなことしかわからない。
だから「見えないもの」は「ない」という扱いになる。
「見えないもの」=「自分が他人に見せていないもの」でしかない。
それがこの世に一人しかいないつもりで生きている人だ。
最近色々あって、僕もふと過去のことを思い出した。
僕はよく時間外に及んで働くが、かつて人の話を長く聞くためにそのあとに会うはずだった人との約束の時間を一時間半も遅れてしまったことがあった。
僕も生きているわけだから、誰かと出会う前からすべての時間にやることがある。
その時は、そこまで長くなるとは思わなかった。
ただ、僕はその時そうした方がいいと思っただけだった。
相手は随分待っていてくれたようだが、結局帰ってしまった。
後から埋め合わせをして理由も説明して謝った。
「雄基らしいよ」
と言われたが、その人とはそれ以降疎遠になった。
過去に恋愛関係のある女だったが、元々その人も僕が親切にしてきたという理由で自分一人の世界に引きずり込んでいこうとしていた人だった。
その人にはもうできることはしていた。同じことの繰り返しになっていた。
その人のストーリーでは、「私」は僕の人生にいきなり登場してきた特別な人のはずだった。
だが実際には、出会った時から「すごい女がいるな」と驚くほど独りよがりな人だった。
出会いの時から、完全に現実がズレている。
だからどう継続しても、僕を黙らせて続きを一人でやり続けても、本人が思い描くストーリーになる日は来ない。
そしてそんな人が沢山いると知った。
大人なのに、出会った他人の過去も考えず、更に話を聞いてくれたら「私のストーリーに出てきた人」として続きを一緒に生きる人がいると思えている。
大変なことだと思った。
僕は単純に「頭が悪い」とも思った。そんなことあるわけないのに、それがわからない人達がいたのだ。
僕はわかるから、そう思えた。そんなの当たり前だ。
黙って聞いていてくれる人がいても、他人の過去もなくならないが自分といない他の時間だってある。
自分が他人のことを考えなければ、他人の時間が消えるわけではない。単に独りよがりな世界にのめりこんでいくだけだ。
特に「時間」について、独りよがりな人は何も考えていない。
自分と一緒にいなかったら、他人は別の人と会った。他のことをやっていた。
人間は誰もに願望がある。欲もある。過去もある。やりたいことがある。
だから自分がいなければ、他人は他人で自分が欲しい物、目指す物のために時間を使う。
他人の命は他人のものなのだから、それがただ寝て過ごすだけでも本人の自由だ。
命を自分のために使っていることが、他人の存在を許さない人にはわからないのだ。
それがわからなくて、何をしてもらっても感謝なんてできないだろう。
自分の独りよがりに付き合ってもらうならば、他人は代わりに何かを諦めなくてはならない。
生きている人間を相手にする限り、他人はそうするしかない。
本物の幼児はわがままで独りよがりだが、あれは脳が発達できていないから他人のことが想像できないのでしょうがないのだ。
その代わり幼児は親の庇護のもとに生きているから、親に命令して言うことを聞かせたりはできない。だからなんとかなるのだ。
もし、親より支配力がある幼児がいたら、親の人生は地獄になるだろう。
幼児に言うことを聞かされながら、自分のことしか考えない子供のために破綻していくしかない。
親もわからない幼児は、最初の親を使い捨てにして、次の親を探しにいくだろう。
もし、中身が幼児のまま大人になり、支配力を身に着けたらそうなるだろう。
しかし彼らは幸せになることはない。
満足などするわけがない。
実際には自分自身が発達することで「他人は自分のために犠牲を払い続けていたのだ」と気付くから、自分の望みが叶わなくてもあきらめて次に行くようになるのだ。
ところが、退行に向かう人は自分が発達する方ではなく、我儘を叶えることに向かって進んでいる。
その我儘を叶えて幸せになった人はいない。
「叶うわけがないのだ」と本人が気づいて終わるのだ。
だが、今まで散々他人に付き合ってもらえた人の方が、より我儘になっていて他人のことなど考えない人間になっている。
欲を満たし過ぎたのだ。他人を犠牲にして行き過ぎた。
僕はそのような構図を知って思った。
「餓鬼になってしまったのだな」
君は幸せになる方法を知っているか。
「諦める」
これが幸せになる方法だ。
僕は早々に親を諦めた。キリがないからだ。他人を妬んでいたらきりがない。
いつまでもいつまでも過去のことで恨んでいたら、流石に親も「こんな子じゃなければよかった」と思いたくなるだろう。
僕は小学校二年生の頃に、母に一度だけ遊んでもらったことがある。
ほんの少しの、五分とか十分とか、その程度だが、「あそんで」と言うとやってきて、その時僕が遊んでいたおもちゃでちょっとだけ一緒に遊んでくれた。
それが僕が一度だけ母に遊んでもらった記憶だ。
抱っこされていた記憶や、どこかの公園で遊んでもらったような、体験はない。
だが、いつまでも甘えていてもキリがない。もうそんな年でもない。
どんどん僕自身が大人に近づいていくのだから、今こんなことをしていたら幼稚園児みたいなことを言う大人になってしまう。
だから諦めた。
何もなかったわけではない。一度はあった。
もっともっとといつまでも欲しがっていれば、強欲な餓鬼になっていく。
地獄に落ちる。
僕は「幼い頃に母に優しくしてもらいたかった」のだ。勿論、その当時も優しくはしてほしかったが、それは今の話だ。
諦めた。
諦めることで道は開ける。
全て叶うなんてことはない。夢の国ではない。母も全て叶えてもらってきたわけではない。
もう人生は始まったのだから、いつまでも駄々をこねてもしょうがない。そうなものはそうなのだから。
そうして諦めて、次に向かって行けるのだ。
叶いもしないものを諦めれば、新しい目的もできる。
当たり前のことをして生きていれば、新しい道が開ける。
諦めることでしか次にはいけない。
愛情の欲求は五割で満たされて次の成長段階に行くことができる、とマズローは言う。
しかし、どう考えてもその五割は満たされているはずなのに次に行けない人たちがいるのは、脳が発達の方に向かないからなのだろう。
欲が強くなるだけで、そこまでしてくれる人は他にいないというほどしてくれる人がいても、その人を恨む。
そんな人は、どんな親にあたろうがいつまでも駄々をこねているだろう。
完全に、自分の存在を勘違いして生きている。
恐ろしいほどに、脳が発達しなかったのだ。
こうして述べている「発達しなかった」をマイナスの意味にとらえて、ただ単語に怒り意味もわかっていないのに人に文句を言う。
そのくらい、未発達なのだ。
その姿に憐れを感じても、対等に怒りなどわかない。
自分では当たり前だと思っている、考えもせずにわかることが、これだけ生きていてわからない人がいる。そういうことなのだ。
思うより自分が恵まれていたと知るのは、「自分以下」の存在を見た時だ。
自分より強欲な存在を見た時、自分など大したことはないと知る。
自分は叶わず諦めた何かを諦められない人がいる。
「僕は諦めた」と過去の話をして教え諭しても、諦めたから誰にもどうにかしてもらえなかった僕に対して、自分は望みを叶えてもらおうとする。
何もかも、滅茶苦茶なのだ。頭の中で何も整理できない。
時間や世界を順序だてて脳内に構成できないのだ。
見た目には普通に見える。行動も調教された部分はきちんとできる。
だが、教わった行動を繰り返しているだけで「自分のことを話した誰かが夢を叶えてくれる」と思っているから、突然動物のようにヒステリーを起こす。
ヒステリーとして一般に認識されていないのは「泣く」という行為だ。
共に悲しいことがあって抱き合って泣くわけではない。
独りよがりな世界で、思い出に浸りながら周りの状況も考えずに泣く。これもヒステリーのひとつだ。
感情的になるときの表現が、攻撃的ではないだけだ。
だが、その様子を見た相手を感情で動かそうとしているので、やっていることは同じなのだ。
怒鳴り散らしてばかりの男と泣いて嘆いてばかりの女が夫婦になっていたら、大抵の人が泣いてばかりの方が被害者だと思うだろう。
しかし、その女は相手の男と離婚して別の人と一緒になっても、どこにいっても結局泣いて感情を動かそうとする幼稚な人なのだ。
表面上は正反対だが、他人を感情によって動かそうとしているところが全く同じ、似た者同士の夫婦なのだ。
だから、「泣く女」は本物の悲しみを知らない。
独りよがりで泣いて、それを見せて相手が動かされるのを期待する。
親身になった人の心を傷つけ、裏切る。
優しさを吸い上げて食っている鬼だ。
大抵の場合、特に我慢して恨みをため込む人が多い世界になると、この「子泣き爺」のタイプは可哀想な被害者として扱われる。
どちらにせよ、世は常に鬼の天下になっている。
僕はそのような世界を行かない。
同じ一度きりの人生で、命を分け合って時間を共にする。
僕はその体験に感謝できる。
僕は最初に普通になることを諦めた。
友人たちもノイローゼになり、病院に通うようになり、そして出てこなくなった。
どうしたら彼らが治るのか。いつ元気になるのか。そんなものを待っても無駄だと知った。
治す気はないから。
そこまでしなくても、社会的には問題ない。
だから僕は普通ではない方法を使うことにした。
要は、僕との接点で相手が「意欲」を出せばいいのだ。
いきなり完璧なゴールを目指す人がいるが、完璧なゴールは死しかない。
それが人の生きる道のゴールだ。
例えば、死のうとしていた人がいたら、結果何かやる気になればいい。
自分にも何かできるという気になって、行動するようになればいい。
長い流れの中の接点でしか他人とは関われない。
流れを別の方に向けられればそれでいい。
似たようなことを、テーラワーダ仏教の長老も言っている。
ヒステリーで子供をいじめている母親に対して、その場にいたらその場で笑いに変えてその場を過ごす程度のことしかできないのだと。
人間は自分の人生の時間軸にしかいられない。だから他人の人生に対しては、少し流れを変えたり、その場で起きたことを違う方に流してやる程度のことしかできない。
本人の人生は本人しか生きないから、誰にもその道をなんとかすることはできない。
君も誤解していることだろう。
諦めることは絶望だと思っているだろう。
だがそれは間違いだ。確かに、そう思えるだろう。僕もそう思っていた。
諦めたら何もかもが無くなると思っていた。
だが、希望は無くならなかった。
否、元々希望なんてなかった。
僕にあるのは欲だけだった。
僕一人の世界ならばそれは希望だが、この世界はみんなの生きる世界だ。
他人がいるならば、それは希望ではなく欲なのだ。
「自分が幸せになった時に、他人が同じように幸せになれるのか」
それを全く考えない、独りよがりな幸せを目指して「希望」を捨てなかった。
最後には希望は「いつか誰かがわかってくれて」なんてどうしようもない妄想になった。
それらの欲を諦めた。
「他人のことを考えない人間に、幸せなど来ない」
それは当たり前のことだ。
母を諦め、しがみついていた友達にしがみつくのをやめた。
卑屈になる人は、「あの人を自由にする」と言ったらただ相手から離れて見捨てるだけになる。
僕はそのように卑屈にもならなかった。
「仲良くしたいのに」と思っていたのが嘘になるからだ。
僕は本当に友達と仲良くなりたかった。支配したかったわけではない。
やろうとしていたことは確かに支配だった。だがそれは僕が今やりたいことではなく、過去に叶えたかったことだとわかった。
母を諦めたら、それは必要なくなった。
だから、今度こそ「自分からきちんと仲良くなるために声をかける」という姿勢になって、相手のことを考え、普通の友達になったのだ。
普通の友達になれば、本物の友達として少しずつ仲良くなっていける。簡単なことだった。
「普通じゃないスタート」を切って「普通じゃない関係」を目指す。
その「普通じゃない」は、自分の願望でしかない。他の人にしてみれば「普通ならやらないことをやらされる」にしかならない。
自分のトラウマ話を延々と聞いてくれる関係は、友達ではない。この世にそんな存在はいない。
病院にいる医師も、カウンセラーも、あれはただの仕事だ。金をもらうからやっているのだ。
生業なのだから、彼らは私生活では全く違う。
自分たちも嫌なことがあって人の悪口も言う。人をバカにもする。それぞれの人格もまたどんな親の子でどう育って、そして本人がどう生きたかで違う。
「性格のいい人」は、学校にいた時より減っている。増えてはいない。
大人になるほど、数は少なくなる。
機械的に仕事をしても責められることではない。社会的に。
後は、本人が何をするために生きているかだ。
僕も自分の人生において、まだ願望を持っていることを諦めた。
ないのは「時間」だった。
時間。
今使ったものを返してもらうことはできない。
今使う目的を他人の未来のために変更するのだから、その人がこれからその時間を無駄にしない人生を送ってくれるのが一番だ。
誰もやらないことをやらなくてはダメだと僕は思った。
とても苦しんで悩んでいる時期もあったが、その頃考えに考えて、僕自身の欲があるから苦しむのだと思った。
例えば、僕はまたいつか、過去に体験したように誰かと出会い愛し合うようなことがあればいいなと思っていた。
それを諦めたのは大きかった。だからかつての恋人には多大な感謝をするようになった。
彼女がいなかったら、僕は「生涯諦める」という決断はできなかった。
そもそも独りよがりな人と一緒になれる人はこの世にいない。
始まりから一人の世界なのだから、誰もついていけない。
ただ、優しい人たち、自分と仲良くなろうとした人たちや、自分の幸せを願った人たちが自分に付き合ってくれるだけだ。
幼児期に叶う時も、そうなのだから。
既に夢はかなっている。他人が親代わりになって、夢を叶えてくれていた。
その夢は、子供が成長して気づく時に消えるのだ。
「自分は十分愛されていた」と気付くのだ。
しかし欲まみれになった人は、そうはならない。他人が犠牲を払ってくれていたことより、自分は苦労をしたくない、という方が優先されている。
誰とも苦を分かち合えない。自分の苦労を人に押し付けることしか考えない。
もう、誰とも仲間になれないのだ。
「この人たちは友情すら知らないまま生きているのか」と驚いた。
僕にとってはなんでもないことだった。そんなものは当たり前だと思っていた。
ならば、僕以外の、他に仲良しグループを作っていた彼らは一体何をしていたのか。
それは僕にはわからない。
だが、彼らは確実に友情も知らなかった。
それは人間関係の始まりなのに、それを知らないまま「母親のような他人」を「作ろう」としていた。
実際にはそんな他人を「つくる」ことはできない。だから子供が一番被害に遭うのだともわかった。
僕が普通の人と同じように生きようとしたら、普通のことしかできなくなる。
だから僕は諦めた。
完璧なものが手に入るまで、いつまでも「いつかは」なんて願望を持っていたらきりがない。
だから諦めるのだ。かつて母を諦めたように。一時はその体験があったのだから。
「いつまでもずっと一緒にいて」は不可能だ。
人はいつか死ぬ。
死に際に持って行けるのは思い出くらいだ。
「愛し合った体験があった」
それだけで、元々愛されもしないのに生きてきた僕にとっては大変な幸運だ。
愛しただけでもなく、愛されただけでもなく、僕は「愛し合った」経験があるのだから。
その思い出だけで俺は死ぬまで生きていける。
そう覚悟できる思い出があったことに感謝している。
僕が欲を捨てなくては、他人を助けることはできない。
人のために何かするならば、まず自分は真っ先に欲を捨てなくてはならない。
見返り要求のある親切は、他人から奪う行為だ。
奪う行為を隠すために、最初の親切があるのだから。
奪うことばかり考えている人は、結局奪わせてくれないとなると嘆く。
憐れなことだ。
僕は自分が次々諦めることで、自分の時間をより人のために使えるようになった。
一度本当に自分に関心を持ってくれる人と愛し合えば、もう欲で釣るような人に「ときめく」なんてこともない。
本物の感覚は、表面で妄想して生まれているわけではない。
これは、体験しないとわからない。
親を諦めないうちは、本当にわからない。
「こんな感覚があったなんて!」と驚愕したのを覚えている。子供の頃の話だ。
本当の喜びを知った。楽しいという感覚、嬉しいという感覚。
心の中から強くわいてくる感情を知った。
欲を捨てて勇気を出さなくては、生涯知ることができない感覚だ。
その「気持ちよさ」を知っている人は、体感しているから本当に楽しそうなのだ。
僕も、諦めることを不幸に感じたこともある。
だが、母が死に、祖母が死に、子供の頃に恐れていた苦労だけが残った。
最初から、楽な運命など背負っていない。
最初から、愛などない家庭に生まれた。
今更、「これからは」なんて根拠もない願望を諦めてなんの不幸が起きるだろうか。
何も起きていない。
そして、僕は今はもっと幸せになった。
「こんな人たちがこの世に存在していたのか」と知って絶望したころより、もっとずっと穏やかな気持ちになった。
以前より体裁など気にせず、もっとずっと先のことを考えて人のために動くようになった。
自分自身は生きてさえいければいい、と思えるようになった。
僕は何も持っていないが、多くの人が持っていない「思い出」がある。
思い出すだけで幸福になれる、仲間たちとの思い出が。
落ち込む時は、自分で努力して自分を励ます。
寂しい時も、思い出の中から愛する人がやってくる。
本当に何もないが、外に出て、風がそよぐ中で歩いただけで、幸せを感じる。
何もなくても幸福を感じる。
その境地こそ、僕のように「何も他人と同じように手に入らない人間」がたどり着くべき幸福だ。
何もかも諦めたから、今あるものに幸せを感じるのだ。
人から奪うつもりで生きる人は、人の欲を増大させようとする。まず欲で釣らなくてはならないから。
そのような「釣り」にも釣られなくなる。
欲が強いと、目先のものに目が眩む。
そこしか見なくなる。だがそれでは、人を導く親にもなれないだろう。
見返りを求めている人間は、目が違う。
欲がある人間は相手が差し出した何かに釘付けになって、相手を見ていない。
そして騙される。
無理やりにでも望みを叶えようとする人たちに、何度も出会った。
その人たちに出会うたびに、幸せになるために僕は自分自身の望みを捨てた。
自分の願望を諦めなくては、他人のままごとにも付き合っていけない。
相手を恨むことにしかならない。
だから諦める。
最初から、何も持っていなかった。
何も持たずに生まれてきたのだから。
すると、それを「不幸だ」と信じている人が、諦めなくてもいいのだと「励まそう」としてくることがある。
それは、自分が幸せを知らないから思うのだ。
今の僕でも、死ぬときに欲まみれの人より遥かに楽だろう。
「これから」という命が消える時、「今まで」の思い出しか持ち物がないという瞬間が来る。
僕はその時に備え、その時に向かって生きているのだ。
これから何があっても、どんなに辛くても、思い出が消えることはない。
心なんて綺麗にしていても意味はない、と殆どの人が思っている。
なんの得にもならないと。
しかし、自分以外に心が綺麗な人に出会った時に、その人と心を通わせる相手になれる。
そこで、心が綺麗な人同士が出会わないと起きないことが起きる。
その時に体験する日々は、一生の財産になる。
「人に知ってもらって自慢できなかったら意味がない」
そんな感覚の人がいるが、思い出なんて自分からいくら話したところで、同じように記憶できるわけではない。
一人で喜んでいるだけで、実際には共に体験した人の中にしかない。それが思い出だ。
話だけ聞いた相手なんて、どうでもいいのだ。
そこで羨ましがられようが、賛辞されようが、他人は話を聞きながら思いついたことを言っているに過ぎない。
僕には、仲間がいる。
もしもう一度出会ったら、「あの時」を共に思い出し、感情を共有できる相手がいる。
僕が他人の思い出の中に入っていけないように、誰も僕の思い出の世界には入ってこられない。
だから、その思い出が消えることはない。
思い出が宝になっている人もいれば、恨みの種になっている人もいる。
欲を出した人は、思い出が宝になる日は来ない。
そこで下心さえなければ、良い体験が良い思い出のまま、宝になった、そんなことが沢山あっただろう。
自ら幸福を放棄しているのだ。
いつか世界を、他人を支配して一人で勝ち誇るために。
今は、いつか思い出になる。
その思い出が宝になるように生きるかどうかは、自分次第だ。
「これからいいことがあるに違いない」と他人の未来の行動に期待して、がっかりする。
そんなことばかりくり返している人は、自分はなんのために生きているのだろうな。
憐れなことだ。
本当に、憐れなことだ。
僕は今日も、今日を生きる。
君も今日、今日をいきたまえよ。
では、いつか君にも今生で出会えることを願っている。
まだ見ぬ君の友人
最上 雄基