現在の社会では、利己的で他人に無関心な人が多くなりました。
それは普通に生きていてもわかりますが、人と協力して生きていきたい人にとっては残念な環境ですね。
ジョナサン・ハイト(社会心理学者)も著書で述べていますが、ヒトが成長していくためには子供時代の遊びが必要不可欠です。
子供時代に遊びを通じて様々なスキルを身につけ、遊びを通じてコミュニケーション能力を培っていきます。
皆で一緒に冒険したり、内輪だけの冗談を言ったり、からかったり、喧嘩したり、という体験を通じて他人との距離や付き合い方を身に着けていき、その力がやがてより大きな困難に力を合わせて立ち向かうために必要になるのだ、とハイトは述べています。
僕の説明はヘタで申し訳ないのですが、コミュニケーション能力が足りない人たちは遊びができないのだと観察していて気づいたので、教室の頃から皆でやる遊びを行ってきました。
新しい発見や、今まさに行っている雑談もそうです。
大人になったらなかなか場がないので用意してきましたが、子供時代にその能力を培ってこなかった人も多く、少しずつメンバーにも慣れて少しずつ楽しんで行けるようになりましたが、普通に出会う限り「仲間と協力してより大きな困難に立ち向かえる人たち」は子供時代に既に真の友情を体験してきた人たちに限るということになってしまいます。
独りよがりな人は協力以前の問題ですから、自分の望みを叶えるために他人を使いたい人とは「共に困難を乗り越える」は無理、ということになります。
そう考えると残念ですよね。
しかし僕も実際に何度も何度も一人でも「新しい困難」に挑戦してきて、やはり無理だと思いました。
「一緒に力を合わせていこう」と言えば、そうすることにしておけば、自分が気に入られて見返りをもらえるとか、望みを叶えてもらえるとか、そんなことばかり考えていて、最初から「目的を同じくできない」のです。
最初から破綻しているのです。
意識は常に「一人の世界」にいるので、表面上合わせてはいても、現実の結果は絶対に出てこないのです。
当たり前です。本当ではないのですから。
僕は、だったら最初からはっきり力を合わせる気なんてないと言ってくれた方が遥かにマシだと思います。
自分だけの欲を捨てる、ということが、仲間の足を引っ張る結果にしかならないとしてもやめられないのです。
黙っていればバレないから平気、という考えは、現実には行動する気がない人の輪でのみ許されることです。本当に共に未来に進む人たちを相手にしたら、自分のせいで周囲の人たちを倒してしまいます。
友達は絶対に裏切れない!
この手の責任感も、まったくないのです。
それもこれも、子供時代から続いていることなのだと思うと、確かに社会は大変な事になっているし、これでは大きな力で大きなものを動かしてくれない限り、彼らが変わることはないだろうし、見えるほどの変化に至るまでには50年はかかることでしょう。
大きな力に流され続けて来た人たちは、とにかく群れて周りと同じことをして、堕落も向上も社会任せです。
彼らはとにかく「自分が傷つかないように」生きています。
それもまた、子供時代にリスクを負う遊びをしたり、スリルを求めて挑戦したり、という経験が不足しているせいかもしれません。
子供時代にしか身に着けられないものがあります。
10代までのうちは非常に重要な期間です。
その時に臆していたり受け身でいたりした積み重ねは、のちの人生に影響します。
Z世代には防衛的な人格となっている人が多い点についても、スマホ、SNS等の影響があるとハイトは指摘していますが、目の前にいても相手の表情から感覚的に気持ちも読み取れないのでは現実のコミュニケーションに困ります。
心の中で引きこもっている人達は、自分が存在しているのに起きていることを現実として認識していません。
自分がいるにも拘らず、自分が様子を見ているだけだから、まだ何も起きていない、という感覚です。
起きていることは全て現実であるという認識すらできないのです。
自分がお芝居をしてそこにいるならば、当然自分の身に起きたという当事者意識はなくなります。
心の中から「周りの様子を見ているだけ」という感覚になり、自分はそこにいないかのような気分で、軽いノリで生きてしまいます。
そのくせ、肉体は生きているものだから年は普通に取るのだからタチが悪い話です。
僕も散々協力していこうと友人にも求めてきましたが、とにかく同意してくるものの、実際には「言い出しっぺ」の僕が全部レールを敷いてくれるのを待っているだけなのです。
とにかく、他人の責任、他人の行動に依存して生きるのです。
自ら奴隷になりたがる。協力はできないのです。
友達と力を合わせていく能力が育たなかった、と言えるでしょう。
問題点は色々あれど、一体どこから始めたらいいのかといつも悩みます。
僕が想像もしないくらい、手前のことを考えなくてはならないのだと思います。
そもそも僕には「自分がない」という意味がわからないのです。
一体、家に一人でいる時に何を考えて何をしているのか。
友達や恋人と会って話していた後、何をしているのか。
その場で話したことは「嘘」で、一人になったらその続きを考えもしないのではないかと思います。
当然、本物であれば会っていた時に見せていた自分は本物なのですから、別れた後も「人前にいたときと同じ自分」がいるのです。
言っていた通りのことを本当に思っていて、その後一人になっても考え続けているのです。
偽物ならその場限りです。
別れて一人になった途端に違うことを考えます。
「会っている時にしか考えていない」のです。
それが、人に見せる自分にしか興味のない人です。
現実は本人にとって「テレビの向こうの世界」であり、どこの番組になら「いい役」で登場できるか、そんな感覚なのです。
実際の自分、つまり一人でいる時の自分には関係ないかのように思えるのです。
しかし、テレビの向こうで起きていることだと思っているならば、現実にはこれほど当てにならない人はいません。
自分が好きな番組に参加できると思っているならば、言っていたことを簡単に覆して、「番組」放棄して一人で勝手に出ていき他の人達を困らせるかもしれません。
とにかく、一時が万事嘘しか無い。
嘘以外に存在しないのです。
それで、他人と協力なんてできるわけがありません。
人に見せている部分だけで作られる「実在の人」なんているわけないです。
家に帰って一人でいるときが最も素の自分なのですから、その自分通りに見せていればいいのです。
一人になった時に考えてもいないことを、考えているかのように「見せる時だけふりをする」のならば、最初から誰とも親しくなりたくないのです。
それでも、どこからでも「本気」になれば流れも変わるでしょう。
しかし、自分の身近にいる誰か、新しく出会う誰かと協力して生きていくなんてことは、簡単にはできないのだ、と友情を知る人たちも諦めていくしかないでしょう。