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いじめのコミュニケーション ~無料記事~

 いじめのコミュニケーションって、わかりますか?

 いじめがわからない人もいるので、書いておきます。

 友達なのに、気に入らないことがあると嫌味や意地悪を言ってくる。

 どう考えても相手を傷つけることを、「悪意」「敵意」を持って伝えてくる。

 望ましくはないですが、これが嫌っていて仲良くする気がないならばそのまま離れて行けばいいのです。

 いじめ続けるコミュニケーションは、気に入らない時に八つ当たりをして、それが「なかったこと」にされ続けるのです。

 普通、仲間の関係で「相手を困らせるコミュニケーション」は取らないです。

 意地悪を言うのもそうですが、むっとして黙ってしまうなどもそうです。

 自立した大人同士ではありません。

 気に入らないことがないからと考えるのは子供の感覚です。

 最近、職場に注意されただけでむっとしてしまうアルバイトの子がいるという話を聞きました。

 「ちょっと子供っぽいところがあるから」ということで、余計に注意されることが多いようです。

 まだ学生なので仕方なしと周りの大人は思うのですが、ずっとそのままなら問題です。

 成長しない人は、自制心を鍛えません。

 「これはいじめじゃなくて、責めたわけじゃなくて」

 感情をぶつけてすっきりした。そして相手が嫌な顔をした。

 結果は受け入れたくないので、結果を変えさせるために言い訳をする。

 この繰り返しで全く成長しない大人になってしまいます。

 こうした人は嫌われています。

 普通に嫌われています。部分的に人格が変わるわけではありませんから、この時だけ、この相手にだけ、自制心がきくわけではありません。

 お友達と仲良くしていくために、確実に身につけなくてはならない自制心です。

 喧嘩ができるほどの関係も、信頼関係の構築がかなり進んでいます。

 そもそも仲良くなってきたら相手に敵意や悪意などありませんから、そんなことも起きません。

 相手に対して「こうしてほしい」が多いほど、敵意を感じることが多くなります。

 依存的敵意という言葉がありますが、相手に何かしてほしいという依存心が強いほど、敵意を抱いていじめをするということがあります。

 この依存心は克服していかねばならないものです。

 他人相手に敵意などぶつけていたら、友達は勿論恋愛関係は確実に失敗します。

 ちなみに僕は、意地悪を言ってくる家族がいましたが、そうした人は嫌いなので冷静でいじめをしない人とばかり仲良くしてきました。

 兄弟でもいじめをする人としない人に分かれていることがあります。

 いじめをする子は兄弟の方が外に出てうまくやっていると思っていますが、それは当然の結果と言えます。

 いじめをしても仲が良いということはありません。

 ありませんが、家の中でいじめが起きている場合、平気でいじめをしたり、されても関係を続けたりします。

 そこではっきりと物申して事を荒立てなくてもいいのです。

 普通、嫌いになったら何も言わずに離れて行くものです。

 勇気を出して言わなくてはならないのは我慢した後ではなく、その前の方です。

 素直に自分を出す。我儘という意味ではありません。

 他人に対する要求は諦めるしかありません。

 そうではなく、断られることは覚悟してお願いをするなどの勇気です。

 相手の選択肢を失わせ自由を奪うのがいじめです。

 自由を奪うということは、支配するということです。

 念押ししておきますが、まともな関係で「自由を奪われる」ことはありません。

 また、「お前が悪いんだ」と責める。これもおかしな話です。

 一人前同士の関係では、「どっちが悪いか」で揉めません。

 お互いに自分の言動には責任を持っているので、何が起きてもどちらにも責任はあるのです。

 自分の分の責任を背負い、どんな時も自分のしたことについての責任を持つ。それが大人というものです。

 自分自身の行いがどういう結果になるかはわからなくても、出てきた結果は受け入れる。

 いじめの場合は相手に責任を押し付けて依存します。

 どっちのせいかで争うことに必死になるのは、誰かだけが悪者になって責任を負う関係を作りたいからです。

 それぞれが責任を持つのが当然で、争うことではないのです。

 支配と服従の関係にしてしまう人は、常に「誰か一人だけ」の責任にしたがります。

 普通に親しくなっていく友人関係では、そんなことはありません。

 ひとりひとりが自分の言動に責任を持っているので、誰が悪いかで揉めることもないのです。

 いじめをしながら仲良くなりたい人は、やはり似たようなシステムの中でしか関係を作れない人と関係を作ります。

 いじめの関係を作っている人たちは、選んでいるわけではなく「責任を持つ」ということがわからないのです。

 心理的に自立すると、そのような関係からは離れていけます。

 しかし自分が心理的に自立しない限り、相手が責任を持てる人でも自分の責任も相手に押し付けてしまうので、親子のような依存関係にしかならないのです。

 時に、「親子のような恋人になりたい」という人がいます。

 理由は自分は成長しておらず、安心させてくれる親のような存在が欲しいから、というのですが、それは恋人ではないのです。

 呼び名だけ同じにしても、中身が本質的に間違っていたらそれは恋人ではないのです。

 本来は友達になるべき関係性の、たとえばクラスメイトと依存関係になっても、それは友達とは呼べないのです。

 病んだ友人関係です。

 病んでいる人は幸せにはなれません。

 病んでいると一人でもイライラしたり暗くなったりするからです。

 誰と一緒にいても、自分がそれでは満足できる幸福感は得られません。

 一人でも幸せを感じられる人になる方が先なのです。

 一人でも幸せを感じられる人間に成長しないと、普段が普段なのでいじめの関係にも易々となってしまうのです。

 口喧嘩で正しいか悪いかを争うようならば、その関係は既に破綻しています。

 本当にそんなことは全く起きないのが健全な関係ですから、自分自身が成長していく方が下手な争いを続けるよりも遥かに建設的なのです。