この人が何もしてもらってない?嘘でしょ?逆でしょ?
我儘な人に対して「してもらったことないからしてほしい」は嘘だろ!の意見も聞きます。
まあ、普通にそう思うでしょうね。
自分の気持ちが言えないうちは、つまり自我がないうちは「人を責めているのが自分の気持ち」なのです。
私が悪いっていうの?
俺がいけないっていうのか!
まあ…攻撃的なタイプは似たようなことを言いますね。長男長女に多いんですよ。親にぴったり寄り添ってきていますね。
末子が一番責められて育ちやすいですね。
下がいると八つ当たりのしどころがあるので、親が平気で子供にやると真似して子供も下の子にやりますね。
人を責めたら相手が傷つきますね。
傷ついたらどうなります?嫌な人だと思うでしょう?
でもですね。
うちの母もこのタイプなんですが、「自分が何を言っているのかわからない」んですよ。
もし僕が自分の望み通りにならない時に
「俺がいけないのか!俺はこんなに頑張ってきたのに!」
とあなたを責めたら「なんてかわいそうに、いいんだよ、なんでもしてあげるよ」という気持ちにならないでしょう?
でもそれが望みなんですよ。
理屈を説明しますね。
自分が何を言っても、自分の中にわいてくるものが相手に伝わると思っているんですよ。つまり言葉って意味ないんですよ。考えてしゃべってないですから。
このような人が、人に何か「言われて」傷つくなんて片腹痛い話で誰も同情しないですね。うちでも母は一切同情されていません。
言われて傷つく人間だったらそんなこと言わないでしょ。
と思うのが当然ですが、母はちょっとした言葉に「傷ついた」顔をする図々しい女です。どういうことでしょうね…。
母の顔と様子を見ているとわかりますよ。
きちんと喋れていないのです。
考えて言葉を話すに至れていないというか…「伝える」ために日本語を使っていませんね。
話しながら母は、自分の辛い思い出を思い出しているんですよ。
だから人を責めながら自分が辛い気持ちを思い出すので、「こんなに私が辛い思いをしている…!」と嘆いているのです。
嘆いて人を傷つけては、「この辛さが伝わったか!」と期待するのです。
あなたが嫌な人間だということが、思いやりも優しさもない人間だと言うことが、これ以上なく伝わりましたよ、といつも思います。
子供はこれでとても傷つきます。
子供に罪悪感を与える親です。一生消えない傷になりますが、母は気にしません。
むしろ「その時は」と平気で自分勝手な理由を話します。
人を傷つけることを言いまくる→相手が傷ついて反攻する→「私はこんなに辛い気持ちを伝えたのに、わかってくれるどころか批難された」→私って不幸
冷静に母を見ています
あなたは面白い人ですか
ジョークで生きているようにしか見えませんよ
これ本気だと僕が困るので、最近こと年を取ってきた母には
「はい、そういうのいいので、さすがにこの年なのだから現実に必要なことだけはきちんとしてくださいね。あとは好きにしていても構いませんから。」
と淡々と対応しています。
いちいち性格が悪いのでイラっとしますが、「この人に巻き込まれると人生が駄目になる」と平静を保ちます。
そんな時こそ瞑想ですよ。
我が子も育ってくると頼りになります。
「言ってるだけだから、言われたこと本気にして何かするとこっちが損する。」
と僕の横から進言してくるようになりました。
僕の子は鍛えてきただけあって、自覚はしていませんが分析能力が高いです。
日常的に叩き込んできた甲斐がありました…。お父さん嬉しい。
最近の母は「お母さん今までずっと頑張ってきたのに…」という不満を述べ始めました。
何を?「仕事」です。
ブラックな会社で「それでも頑張る私」をみじめったらしく続けたよ、という話です。最悪に扱いの悪い会社なので、虐げられるたびに「こんな大変なことに耐えている私」をやれて母にはぴったりなのです。
まともな人ならやめます。
でも矛盾したことが大好きな母は、「ひどい扱いなのに頑張っている」が好きなのです。
ひどい扱いだ!→ならばやめよう
ひどい扱いだ!→なのに頑張る私→私って偉い
最後が余計ですね。そしてその偉い私は遂に「なんの恩恵にもあずかっていない子供や孫」に見返りを要求してきました。
恐ろしい人です。
「何かしてもらうためには、その我慢によって相手に既に良いことが起きていて既に自発的感謝をされている必要性がある。」
とわからないのです。
見返りの強要。感謝して喜んで何かしないと「ひどい」になります。
もう好きにしていていいよ、と思っています。一生治らないというより、好きでやっているのでいいのです。
「じき癌になりますよ。」と予告した通り数年後に癌になる。
目も当てられないなと思いますが、「なるつもりはなかった!」と言っています。
長くはないです。
見ていればわかりますが、あの思考では悪化しかありません。
精神的なもので癌になる確率が高まる、と広まればいいのにと思います。
既に精神腫瘍科はありますから。
心理でも既にわかっていることなんですけどね。
母は「みんなが言うことをきいてくれれば」と思っています。
「逆ですよ」と言っても聞きはしません。僕が言うことですからどうあっても信用しません。馬鹿にしなくてはならない存在に言われたことが、正しくても聞くわけにはいきません。
自分が正しいと認めさせれば全部うまくいく!と思い込んでいます。
「あなたが本当に正しいならね。」
人生は本当に波乱と課題の連続ですね。
次々迫りくる問題に、如何に冷静に対処していくか。
今後の展開は自分の今にかかっていますから、適当なことはできません。
うちの母のように「私をわかって!」と言っている人は、わかってもらえるまで他人の話は聞かない方針です。
その間に色んな問題が起きていますが、あえて無視しているんですよ。
皆を無視して知らないところで頑張っていれば「こんなに頑張ってたんだね!」とわかってくれて、望んだことをしてくれるという夢物語を生きています。
現実はそんなに甘くないんですけどね…。
自分以外の人たちの時間が動いているとわからない人なので、今同時に存在するほかのことを計算できないんですよ。
自分が頑張ったんだから、と何かを欲しがる時、それ以前に頑張っている自分のために何かを用意されている必要性がある、という当たり前のことがわからない完全搾取型です。
自分が頑張って誰かに何かをしてあげたことが「一切ない」ことが本人の要求からよくわかります。黙って誰かの未来のために、何かを積み重ねてきたことがないのです。
どういう神経ですか。あなた人間ですか。と思うどころか言ったこともあります。
「あなた本当に人間ですか?」と。
本当に子供のようです。
周りがいくらでも犠牲を払い続けてあげないと「不幸」と言い出すのに、母の存在がそこまで他人にとって価値あるものではない。
僕があんなに頑張っても望んだ母に一切なれない母親が、寝言を抜かしているのです。
僕は母を曾祖父たちからの伝言板ととらえています。
この人を介さない限り、過去を知ることができません。
育たない、永遠の幼児という感じです。
同じ苦労を体験することで、不満は消えていくものです。
「こういうことだったんだ」と。
母は無理ですね。やる気一切なく、自分が頑張ればやってもらえると信じていますから、いつまでも文句しか言いません。
何十年もやっていてよく飽きないというか、当たり前のことに気付かないなと不思議です。
こっちで大人があれこれしていても、突然やってきます。
「こんなに上手にお絵描きしたんだよ!」と。
いいなあと思います。言い張ってるだけ。問題が大きくなったら「そんなことになると思わなかったんだもん!」です。
そして「どうするんですか!」と聞かれたら
「お母さんだってできないことがあるもん!」です。
あてにしていません。この母親の能力で、人格で、並みの大人のものを求めるなど不可能です。
親の程度を知れ。
親の至らなさを計算に入れ、何ならこの人にも可能かを計算し動くしかないのです。
ろくでもないことをやる人格も考慮して、すべて計算に入れるのです。
うちの母の愚かさたるや、本当にひどいものです。
「私が頑張ったんだから」がいつも理由です。
「だからこのくらいできないお前はおかしい!」です。
「どうやってやるんですか?」と聞くと、方法は言えません。わからないからです。
「でもそのくらいはできないのおかしいよね!」
幼稚園児です。低能な人とは話さない方がいいです。まともに会話すると、自分の程度も下がります。当たり前のことを当たり前に話す人と会話して、自分を高めた方がいいです。
成熟した大人に出会ったときはチャンスです。
普段のあらゆることにおいて、色々考えています。意見があります。
自分を高めるためにどうしても必要な相手。
それが、「コミュニケーションする相手」です。
僕の母は、まともではありません。勿論です。
しかし、それは仕方ないのです。親ですから。
これもまた運命。
この荷物は背負うしかないお荷物です。
僕も本当に稀に成熟した大人に出会います。
もっと会話したいですが、相手は忙しい人です。必ずそうです。
しかも、簡単に会いに行けない人ばかり。
プライベートで関わることが難しい人ばかりです。
またやってしまった、と後悔していることもあります。
昔の彼女同様「こんなに少ないと思わなかった」をまたやってしまいました。
そしてタイトルの議題に戻ります。
「してもらってない?嘘でしょ?」
ええ、嘘ですよ。
「私がこうなんだから…」を続けている人は、散々してもらっています。
だから母は未だに年齢相応の内容を持っていません。
昔からわがままでした。親族もよく怒っていました。
「お前だけやない!」と怒鳴りつけられていました。
そのたびに「私はー」と泣いていました。
しばらく前に母に言いました。
今更泣き言を言うからです。
病気で大変なのだから、という理由で優しくすることを要求するからです。
これまで人に優しくしてこなかった人が、優しくしてきた人と同等の扱いなど受けるわけがありません。
病気なのに優しくしないのはひどい!
馬鹿か!と思いますね。「~ならば、~すべき」。
でも自分は違うのです。「この子がこれこれなせいで」と母親らしいことはしませんでした。
「僕の知る母はこんな往生際の悪い人ではなく、じたばたせずに私はあっさりと死ぬ、と言い切っていた人でした。あなた誰ですか?」
と僕は聞きました。
「もし、自分の言ったことを覆すならば、人を謀った罪は確か、切腹でしたね。」
そう言うと怒鳴り散らして怒っていました。
やれやれと呆れています。遊んであげる暇はないのです。
「子供たちはみんな離れていく…」確か加藤諦三先生の本に書いてありました。感謝されるべきことをしてこなかった親は、子供たちをいくら責めても、みな離れていくと。
なんの仮面もかぶれなかった、誰にも自分にもなれなかった人間。
その末路かと、感情が全く動かない自分を僕は冷静に観察しています。
これまでの経験がないと、感情って起きないんですよね。
話だけ聞かされても、体験がないと感情は湧きませんから。
でも皆さんは安心してください。
普通に、ただ小さな積み重ねをして人を大事にしていれば、普通にまともな関係が築けます。
溺れるものは藁をも縋る…と言いますが、ここで突き落とすのは父性の役目です。
死ぬときは死ぬ、生きるときは生きる。
自分が人の生き死にどころか自分の心も自由に操れないのに、人の心など思い通りに動かせるわけがないのです。
母は頭が悪いのです。僕に文句を言うならば「言いたくならない自分」に変わればいいだけなのに、わからないのです。
母もですが、一度だけ父も「お前ならわかってくれるよね!」とやってきたことがあり、この手の人にはうんざりです。
「お前なら」という言葉に喜ぶほど、自尊心が低くはありません。
他人になど褒めていただかなくて結構。
そうなれていれば、おだてに乗りません。
人を大事にするとは、その人をよく見るということです。
無関心でないということは、真実のその人をよく見るということです。
良くも悪くも、その人にふさわしくない扱いは失礼なのです。
「こんな心を持つ人間になりたかった」
という自分になるため、全員が精進しているのです。
僕もです。常に心を鍛えなくてはなりません。
望ましいものも望ましくないものも、すべて自分自身として自覚して、仮面はかぶれるのですから。
自分をごまかさないのです。
自分に都合よく自分を解釈したい時点で、現実の自分を嫌っているのは他人でも親でもなく、自分自身なのですから。
自分も受け入れがたい自分を他人に好きになれなど、図々しいお願いはできないのです。
そして自分自身が、そんなこと叶うわけないと思えるのです。
今ある自分自身を受け入れ、現実の自分で生きていきましょう。
人の苦労は人のため。他人の苦労を取り除くことは、人のためにはならないのです。
人は人を救えません。
救いの道を知らせてあげるのがせいぜいなのです。
自分自身も、自分の道を歩いているのですから。
他人の道になど誰も入れないのです。