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共同体感覚とは…

 共同体感覚ってどんなものでしょうか?

 わかっていない人は全くわかっていませんが、実際には何もできなくてもすぐに得ることができるものです。

 共同体感覚が無い人は、「まず私が誰かに認められて、私が安心できる世界になってから」という発想をしています。

 つまり、独裁的な世界を作ってから、そこからだ、という発想です。

 本人の心の世界で、自分だけが特別な人間として扱われているからです。

 心に作っている世界は必ず本人の行動に現れます。よって、表面上如何に他人の真似事をしようが、事実そう思えていないならば、誰かと共に生きる輪に入ることはできないのです。

 今まで話してきた「妄想恋愛ストーカー女子」の場合も同じでした。

 こっちは共同体の一部にして既に仲間だと思っていても、本人は「仲間だと思ってもらえてから、自分が好きなことをやらせてもらおう」とするのです。

 そして、その時点で共同体の破壊活動が始まります。

 一緒にやっていくんじゃないの?なんで約束守らないの?どうして計画をダメにするの?

 毎回同じことを聞かれます。

 そして毎度似たような言い訳をします。

 自信がないから、子供の頃にあれこれだから、など。

 そこから「私中心の世界」に変えていきたいのです。

 どこかに私中心に生きてくれる人たちはいないか、永遠に探し続けるのです。

 事実私が世界の中心ではないのだからしょうがないのに、誰も仲間に入れないのです。

 自分一人で生きていくことしか考えていません。

 「私はこんなにできてます!」

 私が、出来ているということを見せたいのです。

 共同体感覚がある人は、生きていく上で他人がいないと成り立たない生活をしています。

 完全に自分だけで生きていける人間になったら、自立しているのではなく孤立しているのです。

 仲間は仲間がどうなっても知らない、という態度で生きていません。

 仲間は仲間が困っていたら助けるし、そもそも困って助けてくださいと言われなくても、仲間のことは考えています。

 自分のことしか考えずに生きている人が全く気にしていないのが、他人の時間です。

 相手が困ったら、困らせたまま責任を取らずに逃げる。

 いつもいつも、「なにもない状況」であることを望んでいます。

 大変な時、困っている時、そんな時に仲間は協力し合うものですが、そんなことは絶対にやりたくないのです。

 責任を伴わない、なんでもない時に自分のすごいところを見せて、尊敬されて、褒められて、何かしてもらおうという魂胆です。

 遠い関係でも、人の苦労や心労を労わる人はいます。

 想像しているかどうかの違いです。

 自分は子供だから、と言って成長しないまま生きようとするのは「おかしい」とわかりますか。

 そんなことを言ったら、誰もが最初は子供です。

 「自分は子供だからできない」の言い訳を続けるならば、誰もがいつまでも子供のまま、大人はひとりもいないことになってしまいます。

 ちょっと想像してください。

 人を困らせたり騙したりして、責任を取らずに逃げたとします。

 相手が怒ったり追いかけて来なくても、自分自身はその後どう思うでしょうか。

 どこかで、自分のせいで困った人が知らないところで問題を抱えています。自分はどうなったのか知りません。

 何も助けてあげません。

 では、その人に何かしてもらえたのかと言えば、過去には他の誰もしてくれなかったようなことを沢山してもらっています。

 しかし、相手には相手自身が「他の誰にもしてもらえなかったこと」を沢山してあげたことはないのです。

 元々、困っていたのは自分。そして相手は困っていなかった。

 自分が離れる時には相手が困っていて、自分は何も変わらない。

 つまり「人に迷惑をかけただけ」なのです。

 責任は取りませんが、これは真面目な話、実はここで人そのものが生まれ変わるのです。

 それが可能なのです。

 「自分が引き起こした事態」であることが重要なのです。

 例えば親の問題などは親が起こしている事態なので、子供は何もできませんし、する必要はありません。

 しかし、自分自身が引き起こした事態は別です。

 成長しない人は、向こうで他の人に迷惑をかけられて、自分が困っているから、今度はあなたが迷惑をかけられて困って、というおかしなことをします。

 本人的には「向こうで尽くしてきたのに見返りがないから、あなたが代わりに見返りをください」という気持ちなのです。

 それを美化して「この人なら自分を救ってくれる」という妄想に変えます。

 しかし、やっていることは最初に述べた通りです。

 私と一緒に他の人も困って!私はこれからも困り続ける!

 これです。

 自分が引き起こした事態ならば、自分がなんとかしなくてはなりません。

 そこで「義務化されなくてもやるかどうか」が奴隷か人かの分かれ道です。

 強要されないとやらない人は、完全に奴隷です。自分の意思がありません。

 「やったことがないからできない、どうすればいいのかわからないからできない」

 こんなことを言い続ける人がいます。それは当り前です。

 なんとしてでもやる、と決めたかどうかです。そこから本物の自分自身の力が発揮されるのです。

 「自分がやらねば」

 この責任感によって、神経症は治るのです。

 しかし、責任を取らずに「自分は何も悪くない」「自分には何もできない」などと自分に都合のいいストーリーを作って、詰まるところ「他人は見捨てる」ことにして進んでいけば、更に共同体からは遠ざかり自分の殻に引きこもることになります。

 こちらから見るとどうなっているのかというと、妄想恋愛ストーカー女子の時は、無責任に逃げた時から完全に蚊帳の外になりました。

 僕も「そこまで卑劣な女だとは思わなかった」ので、甘く見ていました。

 こんなに汚いことができる女がいる、とさすがに思わなかったのです。

 当然こちらでは物凄く困って、他の人に頭を下げたりしていましたが、妄想恋愛ストーカー女子は更にしてほしいことがあるのです。

 「私のせいで困っていたら嫌だから、安心させてほしい」のです。

 だからくだらない話題や遊びのことで、相変わらず子供のように喜ばせて安心させてもらいたがりました。

 何もできない癖に、何か話すと指図だけして偉そうにしているので、本当に邪魔でした。ただ、邪魔なんて言えば「私は邪魔なんだよね」とまた慰めを求めるので、こっちの精神も疲弊しますから言いません。

 本当に、「なんの役にも立たないやつ」でしかありませんでした。

 嘘で作った「期待させる本人」は、もっとすごい人に思えたのですが、本人の話から想像した人が持つものなど、全くありませんでした。

 ただ、そんな時に誰か頼りにした相手がいると、その人には大変恩を感じるものです。

 無関係なのに、助けてくれるのですから。

 共同体は、お互いに何かしてあげようという気持ちがある集団です。

 困らせたくない、もありますが、困った時には助けたい、とお互いに思うのです。

 何よりも、「私中心の世界」を生きている人がどうにもならないダメなところがあります。

 「人を孤立させることを、なんとも思わないこと」

 これです。自分自身が「私は特別」と思って生きている人は、自分一人で生きているつもりでもありますが、他人を同じように孤立させてもなんとも思わないのです。

 この世界を頭の中で分けているからです。

 「あの人の世界、私の世界」

 だから、「あっちはあっちの世界」だという感覚で生きていて、「私の世界にやってきてくれる人」を求めているのです。

 この世界が、たとえば「僕の世界」であるわけがないですし、僕の生活している身近な世界も「僕の世界」ではありません。

 自分で自分を客観的に見たり、自分の存在を確認する能力がないため、「私の世界」があると今も思っているのです。

 現実的に生きる人は、もっと単純に考えます。

 「仲間が困ってる!助けなきゃ!」

 誰がいい人だとか悪い人だとか、正しいとか間違っているとか、そんなことは考えません。

 「この人は仲間だ」と思っているかどうか、それが咄嗟の判断に、反応に、現れてくるのです。

 自分が困っている時に、誰が悪いとか、何ができないとか、そんなことを言い出す人がいたらその人はあなたを微塵も仲間だと思っていません。

 仲間であると心から思えているかどうかは、窮地に無意識に反応するくらい当たり前にパッと行動するかどうかでわかるのです。

 そして「自分が困っている時には、パッと助けに来てほしい」と待ちの姿勢で生きている人が、誰かが自分のせいで困ったとしても、自分の利ばかり考えてしてほしいことは全くしないのです。

 「自分だけが助けてもらえる立場がいいです」

 こんな人を、大人になって必要とする人はいません。

 特に、嘘をつく人は現実の予定をどんどんダメにしていきます。

 すると、計画外の問題が起きることになり、準備もできていないのに窮地に陥るのです。

 これについては、普段から計画的に生きているかどうかの問題です。

 しかし、たとえ自分が計画的に生きていたとしても、無計画に生きる人が根拠のない楽園をパッと用意されようとして嘘をついて紛れ込んできたら、起きるわけがなかった問題が起きることになるのです。

 自分で予定して進んでいるから、問題も解決していけるのです。

 他人が嘘をついて起こされた問題については、計画外なのでどうしたらいいのかこっちにもわかりません。

 わからなくても、自分の身に起きた以上は考えるしかありませんが、そんな時に「逃げの一手」で生きる人は本当に、現実に当たり前の責任を取らずにパッと消えてしまうのです。

 「大変だね、頑張って」

 そんな言葉だけではどうにもならないのが現実です。

 「こんなことになってしまったけど、一体どうするんだ」と問われても、

 「なんにも考えてなかった、ただ、私は守ってもらって、慰めてもらって、過去の辛い記憶を癒したかった」

 そんな風に、現実逃避して遠くを眺めながら言うのです。

 「私のせいで!こんなに困らせてしまったなんて!」

 本当にそんなことするんですよ。ドラマのワンシーンのように、いきなり大げさに泣いたりするのです。

 そして、その時は大層なことを言い、また約束を守りません。

 「これから何かが起きる風」のことは何度も繰り返します。

 先ほども言いましたが、ここで、本当に現実にどうするか計画的に考えて少しずつ問題を乗り越えていけばいいだけなのです。

 その当たり前のことから逃げる。自分一人ならともかく、他人を巻き込んでおいて問題だけ起こして逃げる。

 ここで「責められた」と思って逃げるのです。

 責められているのではなく、当たり前のことを「話し合わねばならない」ということすら、誰にも必要とされない人はわからないのです。

 それがどんな内容でも、「今、自分が必要とされているのだ」と自覚できないのでは、ただちやほやと褒められていれば「必要とされているんだ」と勘違いするでしょう。

 以前、千葉に来る前に近くにいた友人も、どうあっても一人で生きていく気しかない人でした。

 完全に「一人で全部できます」という状態になりたいのです。

 「だったら誰も必要ないね、すごいね」

 それで終わりです。

 一人でできることを「すごい」と思っているのです。それはただ他人と協力できない人であって、すごくも偉くもありません。人間力が低いというだけです。

 彼女は、なぜかうちの近所から近所に、一度引っ越しています。

 それでも、「自分だけの生活をマシにするための引っ越し」であって、協力して生きていこうなどと言いながら、全くこっちのことは考えていないのです。

 マザコン男と同じで、実家から新しい実家に「呼んで欲しい人」なのです。

 立派にできると認められたら、新しく誰かが家庭を用意して、呼んでくれる。

 自分が心理的に大人になって、家庭を作る一人となる意識がないのです。

 友達との関係は非常に重要で、「チームになれるかどうか」が共同体として生きていけるかどうかを決めます。

 少なくとも自分一人が特別だと思っている人の思うチームは

 「自信のない私を、みんなで安心させてくれて、こんな私でもいいと言ってくれて、何も心配することなく、考えることもなく、好きにしていて平気な輪」

 これです。

 何も考えなくていい世界に行きたいのです。

 「いつか誰かが迎えに来るまで待っている人」は、確実に「自分から迎えに行かねばならない誰か」がいることでしょう。

 置き去りにした人々が過去にいる限り、自分の未来も作られていかないのです。

 この世界は、現実に存在しています。

 私の世界、あの人の世界、などと分かれていないのです。

 しかし、それがわからない人同士が、あっちの世界とこっちの世界、どっちを現実にするかで争うのです。