多くの人が、ここを誤解しているからいじめられたままになっていたり、いじめているのに自覚できなかったりする
間違わないで欲しい
いじめをしている人、または心の地獄に生きている人は
被害者、正義の人
このふたつの条件を備えている
「被害に遭った人」と「被害者」は別のものだ
被害者は、特定の事柄についての立場のことであり、「被害者」というキャラクターがいるわけではない
よって、当事者以外の人たちは関係ないのだ
「私は被害者です!」とアピールしていれば、無関係な人にも味方になってもらえると思っているのがいじめをする人である
集団化して、仲間を増やして、いじめをしている人
それが「私は被害者」とアピールする人だ
自分が親しくしているわけでもない、何か感謝されるべきことをしたわけでもない人たちが、「こんなに酷い目に遭いました」と話して聞かせ、また「自分はこんなに立派な人ですよ」とアピールするだけで味方になってくれる
と期待しているのがいじめっ子である
自分自身の意思と責任を持って生きている人は、自分が当事者である問題について自分で責任を持ち、当事者以外の人たちは「関係ない」と考える
事実、無関係な人は関わりがないのだから関係ない
片方の話を聞くならば、相手側の話も聞かなくては「不公平」というものだ
まともに考えるならば、相手の話もちゃんと聞いてもらって構わないと思うだろう
それが「あの人は人を騙している」と先に思わせようとする、それがいじめをする人だ
ちなみに僕は家の中でそれをやられていたので、騙されない
やられたことがない人しか、そんな真似はしないと思う
家の中で集団化して「正義」を気取っている場合がある
しかし、「説明している内容」だけ聞く人はともかく、事実「起きていること」「体験していること」を重視する人は感覚的にわかる
怒りや憎しみを持っている人と、温かい心を持って生きている人は違う
その区別がつかない人、また怒りや憎しみを持つ人についていく「正義」の人が、元々他人を恨んで地獄を生きている人だ
「片方の話だけ聞く」という真似が不公平であることは言うまでもない
どんなに片方が相手を悪く思わせようとしても、相手側の話も聞かなくてはなんとも言えない
そして、確実に「いじめをしている人」は自分を正当化し、自分の話を聞くだけで「全てがわかる」と言わんばかりに相手を悪者にするため洗脳しようとする
その人の気持ちを理解したとしても、他人の話をそのまま鵜呑みにして「相手は悪者だ!」と思い込むならぱ自分自身も精神的に幼稚だ
人の話を聞いていて、今目の前の人を見ていない
その人が、恨んでいる、怒っている、面白くない気持ちを表現しまくっているだけだ
人の様子に関心を持てる人は、話の内容より「相手の今の様子」を見る
それが、たとえば子供に関心ある親のように、言っていることではなくそこにいる本人自身に関心を持てる人だ
人に無関心な人は違う
「あの人はこう言っていたから、そうなんだ」
「あの人が幸せだと言っていたから、そうなんだ」
この程度の無関心さである
本当に心の天国に生きているならば、何かがおかしいと感じる
いちいち他人に「幸せアピール」などしない
人に見せることを「思いつかないから」だ
「気づけば終わっていた」
現実の日々を体験するならばそんなものだ
大体、僕たちはかつてSNSなど存在しない日々を過ごしていた
その時から、日々を当たり前に生きてきたのだ
今、ネットで何かをアピールするならば、かつてやっていたことを放棄する必要がある
時間は無限にあるわけではない
まだまだ人生の先があるのだから、時間を無駄遣いしている暇はないのだ
見せなくても、人は勝手に目にしたものを見ている
自分からアピールするなど、商売でもやっている人くらいしかやる必要がない
心の地獄と天国を理解していない人が多いが、心の地獄に生きている人は「あの人のせいで不幸だ」と言う
とにもかくにも、「悪人」が必要なのだ
そして正義の人が
勿論自分が被害者であり、他人が悪人だ
決してこれが覆ることはない
だから互いに争っているのだ
そして、相手がどうだこうだと言う人がいても、実際にその相手を確認したことがないのならば、今そこにあるものだけを確認するのだ
他人の話ですぐ洗脳される人は、自分が確認したのかしていないのかの区別もついていない
自分で見たのか?
自分が体験したのか?
「あなたが責任を持ってください」
と言われたら、どうだろうか?
「いや、私は聞いただけなので…」
この程度の無責任さならば、決して口に出してはいけない
他人の話を鵜呑みにして、見てもいないことを「事実起きているかのように見せる手助け」をしてはいけない
もし、その人がいじめをしているならば、加担したあなたは同罪であり、その人が批判される時には共に批判される対象となる
決して「私は聞いただけです」と言って逃げられると思わないように
それでは無責任では済まない最低の人間だ
常に、「やられた人の気持ちを考える」
この当たり前の思いやりの心を持つことが、必要なのだ
その人の気持ちを汲み取ることがあっても、決して人間を攻撃することに安易に加担しない
人を批判する前に、自分自身はどうなのか?
自分にはまだやることがあるのではないのか?
精進すべきところがない完璧な人間だと言い切れるのか?
己の精進のみ考えた方がいい
他人を貶めることに加担している暇がある人は、もう地獄から脱せない
正義の側になっていることが「幸せな人だ」と思っている人がいるが、生涯地獄から出られないだろう
そのような人は本当に「悪人を懲らしめれば幸せになれる」と思っている
だからこそ、毒親の気持ちもわかるというものだ
「この子さえ、変わってくれれば」
「この人さえ、優しくなってくれれば」
自分は完璧なので、もう何もすることがないのだ
自分はちゃんとやったのだから、次は「みんなの番」なのだ
これが「ままごとを生きている人の発想」だ
脳の発達の問題だ
説明したところで、理解はできない
この世界が現実だとわからないのに、説明しても意味はないのだ
事実起きていたことが理解できていない、自己中、ナルシシスト、なんでもいいが、とにかくみな同じだ
仏教でいうところの「無明」から脱せない人たちだ
かつての武士は精進が当たり前だったが、今の世では如何に欲を満たし、他人から認められるかばかりになってきた
その場その場を生きるようになり、経緯や将来のことを考えない
人を罵って生きていれば、それを見た人の中でも「憎しみを持たない人」は近寄ってこない
幸せは知らぬ間に音もなく逃げていくものなのだから、天が見ていると思って神様まがいの真似をして正義と称して怒り狂った姿ばかり他人に晒さないことだ
なんとも醜い
毎日毎日、「悪い人」を叩く人が堪えないが、これはやめられないのだという
これでは日々人を憎んで怒り狂っていなくてはならないから、その人もだが周りにいる人も嫌な気分でいっぱいの日々を過ごすことになるだろう
いつも笑顔で、朗らかに
そんな日々を心がけたいものだ
愛されて育とうがいじめには遭う
ただし、「いじめられっ子」のキャラクターになりきって、卑屈になって生きる人とそうでない人がいるというだけだ
僕もバカにされたりいじめられたりということはある
だが、それはただそんなことが「起きた」というだけ
事実解決しなくてはならない問題があるならば、被害に遭った何かをどうにか立て直していけばいいだけ
いつまでもいつまでも恨みがましく口に出しているならば、甘えている証拠だ
人生は次々問題が起きるのだから、過去など振り返っている場合ではないのだ
そして、自分が出会った問題ばかりあれこれ言っている人は結局他人のことなどなんとも思っていない
自分だけが苦労しているわけではない、とわかっている人は、そんなことをいちいち口に出さない
自分より苦労している人が、傷つくだろうと配慮するものだ
頑張っている人が、嫌になる
だから自分自身の出会う問題については、自分で解決し、うまくいかなくてもいちいち他人にまで嫌な気分を広めないのだ
他の人たちも嫌なことがあるだろう
だからこそ、できるだけ他では嫌な気分にならないよう、自分は嫌な気分にさせる嫌な話ばかりしないよう、心がけて生きるのだ
それを家族全員がやっていれば、家庭の中は楽しく安心できる場所になる
とにかく「いじめをしている人は、被害者であり正しい人なのだ」と覚えておいて欲しい
本人がそう自称しているという話だ
頑張って言葉でそう思ってもらおうとしている人は、偽物だということだ
どうやら、「体験していること」がわからない人が多いらしく、言葉で何が起きているか他人に説明してもらわないと、誰がいい人で誰が騙す人なのか、自分がいじめられているのか尊敬されているのか、何もわからないらしい
「自分自身で体験しても、何が起きたかわかりません」
だから他人にどんなことがあったのか話をして、これはなんなのかと説明してもらおうとするのだ
大変なことだ
一度体験しては他人に話にいく
これでは自分の人生を自分で考えて決めるなど到底無理だ
残念ながら僕には信じられないが、一人で判断して考えて決断して進めないなど、大変なことだと思う
少しも好きにできないし、自分が体験しても「よくわからない」から、とにかく常に他人に決めてもらわなくてはならない
気分だけはわかるらしく、起きたことはよくわからないが自分自身の感情だけは動くようだ
しかしそれ以外のことは、現実なのによくわかっていない人もいるらしい
なんとも不自由なことだが、自分で決められないのだから話を聞いただけの誰かに決めてもらうしかない
親は死ぬまでついてきてくれないし、本当に大変なことだと思う
心の地獄に生きている人は被害者と被害者だ
誰もが被害者になっているから、いつまでも争っているのだ
正義と正義が戦いを始めるのだから