僕は、本来ならば神経症者になっていたはずの人間だ。
地に落ちた自尊心、自分を嫌い、他人を嫌い、人を疑い信用しない。
表面上の自分と内面にいる自分が乖離していて、存在しない自分のつもりで生きているナルシシスト。
そんな風になっているはずの境遇で育ち、なぜかそうならなかった、並みより心理的に早く成長していく「新しい人格」とフロイト派精神分析学では言われている。
「これまでのフロイト派精神分析学には存在するはずがなかった人格」
ということだ。
なぜ、今のようになっているのか、人間を信じ、自分を信じ生きているのか、その原因がわかれば神経症治療の発展に役立つだろうと期待されている。
ここ半世紀はなんの発見もないほど神経症については研究されつくした精神分析学において久々の発見であり、日本には全く入ってきていないがアメリカでは盛んに研究されているという。
僕は当の本人なわけだが、この説明だけで察するのが「理解力」というものだ。
つまり、どういうことか。
この説明を聞いて、自慢だとか思うようならば話をしても何の意味もない。まず会話する能力をきちんと身に着けた方がいい。
会話や読解力は察する能力、想像力が必要だ。
言葉を「自分が言ったかのように捉える」のでは、人間同士の会話にならない。
今の説明で、どういうことなのか何か発想が生まれただろうか?
人の話を聞いたら、つまりどういうことかを考える。
言っていることは、そのまま言葉の通りではない。
人間は何かを伝えるために「言語」というツールを使うだけだ。
なぜ、神経症にならなかったのか。
どうしたらそうなったのか。
それを研究しているということは、どういうことなのか。
半世紀も発見がないということは、どういうことなのか。
「この人たちは、こうなんだ」という研究はされつくした。
もはや外から見てこれという新しい特徴が見つからないというほど、研究されてきた。
人間性心理において、神経症については100年程度であらかた発見すべきことは発見されつくした、ということだ。
わかるだろうか?
「まだ解決方法はない」ということだ。
今、神経症について、それも名前でしかないが、今では人格障害とかあれこれ名前はついているが、これも枠組みが変わったり名前が変わったりしているので、事実そのものではない。
名前は名前でしかない。
仏教で言うところの、凡夫なのだろう。無明に覆われている。
まだ解決方法はない。つまり、神経症研究についていくら知ったところで、なんの解決にもならないということだ。
「どうして人を信じる人間になったのか」
それについて、代理母がいたとか、とにかく「今までの研究は正しい」とした発想ばかり出てくるようだが、そうではない。
僕は方法を知っている。
自分でやったから。
生まれ変わることはできる。
生まれ変わるのだ。
「自分をわかってくれる誰かがいれば」と思っている人が多いが、そうだろうか?
そんなことはない。
実際、褒めてくれる人、受け入れてくれる人、何度かはそのような人にも出会っただろう。
構ってくれる人も、親切にしてくれる人も、話を聞いてくれる人もいただろう。
だが、もし自分が愛されたところで詰まるところ自分が何も変わっていないのだから、話にならない。
何かあればすぐに疑う。
本当は自分のことを好きじゃないんだとか、他の人の方がいいに決まっているとか、とにかく今まで通りの「一人ぼっち」に戻る手立てしか考えない。
自分が自分である限り、誰が現れようが関係なく地獄は続く。
相手は相手で、自分の中で疑惑が生まれるたび、自分に安心してもらうために毎回毎回「証拠」を見せ続けなくてはならない。
永遠に疑われる日々は終わらない。そんな関係になる。
どこまで行っても、人を信じることはできない。それが神経症者だ。
自分が正しい人であるということに固執し、時間が止まった考え方をしていて経緯も理解できない。
自分だけが過去のある存在で、他人は過去なんてないとすら思っている。
そんな人間に、誰がどうしようが、相手だって社会で生きている人間なのに幸せになどすることはできない。
人間には不可能。
脳内に思い描く「こんなことさえあれば」の内容は非現実的であり、自分自身さえ現実的に信じているわけではない。
空想の中に生きながら、現実を直視することを避け続けているだけ。
何かある度、依存している相手を罵倒でもすれば相手が動いてくれる。
それでその時は心をなんとか宥めてもらい、また何かあると不安が募り爆発する。
その状態で、誰が何をしたら幸せになれるだろうか。
自分が付き合う友人も恋人も信用できない輩に、一体どんな幸せがやってくるのだろうか。
これという特別な人間でもないのに、自分が特別期待した人間を評価までする始末だ。
そのように完全に自分の存在も立場も勘違いしている人間に、期待している人などやってこない。
自分の理想の未来が、「そんなことがあるなんて信じられない」という出来事なしに起きえない想像なのだから。
そんなことが現実にあるなんて!
なぜかわからない、今まで起きたこともない。まるで漫画の世界。
そんなことは、起きない。
起きえるはずがないことが起きないと、たどり着けない「未来の希望」など希望ではない。妄想だ。
僕はそのような悪夢の人生を終わりにして、死して生まれ変わった。
どうすればいいのか、はわかっている。
だが、説明したことはない。部分的には言ったことはあるが、まず「やめなくてはならないこと」があるのだが、それを言ったことはない。
ただ、どうしても僕自身が必要なので、別に僕でなくてもいいのだがとにかく今の僕のような状態になっている誰かが必要なので、僕は教室を開いて遊びのようなことを続けたり、とにかく「日常」の内容を生徒たちとよく過ごした。
言いづらい理由は、ひとつしかない。
加藤諦三先生が、理解をしていなかったからだ。
神経症者であった彼が学んで理解した場合、そうなってもおかしくない理解をしていた。
そしてそれは広まり、いつまで経ってもやたら本を読んで勉強し続け、しょうがない、しょうがないと嘆く人を量産した。
悪化の一途だが、別に彼とて敢えてそうしたわけではない。
彼自身が神経症者だったのだから。
彼に「君はこうするといいと思うよ」と勧められた方法は、「そんなことをしたら、僕自身が人を嫌いになる」と思う内容だった。
僕が決してやらないことを、彼は勧めた。
なぜ?
最初はわからなかった。何か深い理由がおありなのだろうと思った。だが違った。
まずい、と思ったのは早かった。何かわからないが、段々と僕が体験しない「憎しみと恨みの世界」にハマっていくのがわかった。
よくわからないが、ここにいてはダメだということだけはわかった。
脱して良かった。
本当に、世界は真っ二つと言ってもいいくらい、天国と地獄に分かれていた。
そして神経症者はふざけている。嘆いているが、本気で人生を変えようとは思っていない。
空想の中に生きているからだろう。
このまま人生が終わりになるという当たり前のことを、考えてすらいない。
葉隠。
鍋島藩の藩士の心得を記したものだが、僕は読むにつけ納得しかない。
武士の鏡、その通りと手を叩きたくなる。
葉隠を読んでいて、そういえばかつての親友であり、最も尊敬する先輩は鍋島藩の藩士の末裔であったと思い出した。
彼が「やはり下の者たちにはこうしなくては」と述べる考えは、僕も同意しかなかった。
彼の作法を受け、武士としての態度で受け取ったのは僕一人だったが、大層可愛がっていただいた。
精神は残るものだ。
ひとつ、家柄について話そう。
多くの人が「良い家柄」と言う時に思っている内容と、僕のように昔から続く家の人が思う内容は全く違う。
「どこの家のモンや」という言葉をうちではよく使ったが、それは家柄に「経緯」も全てくっついてくるからなのだ。
自己紹介いらずと言えばいいのか、とにかく名前が示すものはそれだけではないのだ。肩書や地位の話ではない。
金持ちかどうか、今の社会での地位がどうかという話ではない。
医者の家だろうが弁護士の家だろうが、政治家だろうが関係ないのだ。
仕事は何をしていても関係ない。それは生業でしかない。たった今の家族の一人の生業など、家そのものとは関係ないのだ。
それが僕たちの言う「家柄」なのだ。何を仕事にしているからと言って、バカにされるものでも崇拝されるものでもない。
葉隠については、正にどこの家の者ともわからない人たちが読んでも理解できず、誤った解釈をしては批判までしているようなのでいい気はしない。
元々そのような家について、また藩にお仕えするというか、戦国武士の習わしがわからない人たちには理解が難しいのだろう。
どうしても部分部分でしかとらえないようだ。
結論がここという風に出るものではない。
いかにも「これってなに?」と人に聞いて答えをもらう人たちの理解だなとは思うが、大衆とはそんなものなのだろう。
真剣に、生まれ変わる気があれば生まれ変わることはできる。
愛された家の子のように。
しかし、「今のままの自分で夢みたいなことが起きる日を待つ」のが神経症者だ。
楽をして、今まで通りでいて、でも話だけ聞いた人、今パッとしてあげたことに喜んだ人が、自分の今後の人生を全てどうにかしてくれる。
どういう思考でそうなるのか理解に苦しむが、そんなことが現実に起きると「夢みて」生きているのだ。
あるわけない。そのまま死ぬ。
いいことなんてあるわけない。
その現実に絶望し、このまま死ぬならいいことなど何もなかったと絶望できるくらいならば、生まれ変わる可能性はある。
何度か動画を撮っては、配信を躊躇っている。
これを言ってもいいものか、ということもだが、言う意味があるのか。
はっきりと実行すれば結果が出る方法を、僕は知っている。わかっている。実際にやって成功しているし、現実的に論理的に考えて出した結論であり、その通りにして当たり前の結果として望んだ未来を手に入れた。
立場上、これを言ってもいいものか、あれだけ最初に教授の顔を立てねばと思って遠慮してきたのに、今更言ってもいいものか。
そこで悩んでいる。
僕はこれで良かったと思っている。自分自身が生まれ変わって、だ。
あのままだったら、僕も今頃は挙動不審な人間を続けながら、何かあれば目立とう目立とうとして、人に期待して人を恨んで、勝てそうな勝負はすぐに食いつき、しかし更に上がいるとなるとすぐに諦めの繰り返しだっただろう。
何より、人を妬んで恨んで、どうしようもない人間だっただろう。
こんなことが起きるなんて…と初めての体験に驚愕した。
感動とか、驚きとか、そんな言葉では言い尽くせない。
生まれ変わるとは、こういうことだったのだと、釈尊の教えに表す言葉もなく、完全なる信頼を寄せたものだ。
信じようという強い意思から、間違いないという確信に変わった時だ。
以来、疑ったことなど一度もない。
神経症の人は、その実困ってはいない。
例えば、その方法を聞いてから「ふーん」と考えて、自分に都合が良さそうならやってみようかなと思うくらいの果てしない傲慢さがある。
全く切羽詰まっていない。
困っていないからではなく、自分が状況を把握できていないからだ。
今困っているならば、もう手遅れだ。
それがわからないからだ。
困った時に助けを呼んでも、幸せになるという意味においては既に手遅れ。
今いる地獄に気づき、この地獄から進める未来に向かって少しずつ進まなくてはならない。
這ってでも進むという、強い信念や覚悟がない。
根拠ない「奇跡」がやってくることを期待して、夢みている。
一生夢みて死んで行くしかない。
夢を見ているから、「覚醒していない」のだから。
これは現実だ。これが本物だ。一度限りだ。
気分にだけ浸っても、現実に体験することはできない。
本物だから。
本物でなくては、それが現実になる日は来ない。
今ここだけでパッと人に「思わせる」など、ただ人をその場だけ騙したに過ぎない。
なんて楽観的な人生だろうか。
そんなことをしたら未来はズタボロに決まっているのに、そんなことすら考えない。
「50歳にもなった人が、心理的に幼児だったなんてことは認められないんだよ。」
加藤諦三先生に言われた言葉だ。
「長い目で見れば、その方が損だと思います。」
僕が意見すると、こう返された。
「長い目で見られないから、神経症なんだよ。」
このようなやり取りに、何か違和感があった。
ずっと、ずっと何か違和感があった。
そうだったのだ。
神経症の人たちには「存在すらわかっていない、計算に入れていないもの」があるのだ。
だから違和感があったのだ。
朝があり夜があるのに、夜のことしか考えていないような。
まだ見ぬ友人はいるだろうか?
これを読んでいる中に。
今までの自分が全く思いもよらないような、そんなことがあり得るのかと思えるような未来に、本当に「生まれ変わる」気がある人はいるだろうか。
僕はそれを体験し、可能だと知っている。
生まれ変わるという意味もわかっている。
そして、それが「いるはずがなかった人格」とされていることも知っている。
いるはずがなくて、まだ日本にも入ってきていなくて、世界中で研究している人たちもいるがまだ特徴を観察しているに過ぎない状態だ。
「こんな特徴がある」とまとめている程度だ。
なぜかはわかっていない。
どこを探しても、確認することはできない。
しかし、もし「君自身が考えて理解しようとするならば」説明して理解することはできるだろう。
なぜならば、道理の通った理論に基づき、現実的に考えて可能なことしかないからだ。
まだ見ぬ友人よ。
君はどこかで「自分はこんな人間として生まれたからしょうがない」という前提で生きていないだろうか?
そしてそれでいいのか?
しょうがないかどうかはどうでもいい。
それで君はいいのか。
そのまま人生を終えていいのか。
僕はそこが知りたいのだ。
今の自分のまま、夢みたいなことを期待して、心の底から信じてもいない願望を抱いて希望があるふりをして生きていくだけでいいのか。
君は、今いる自分が「生まれたかった人間」なのか。
他人さえ、いい人になってくれればその自分でいいのか。
その自分が今のままでも素晴らしい人たちに囲まれているだけで満足なのか。
自分一人を変えるより、周りの全員を変える努力をして生きていくのか。
生まれ変わることはできる。
できるんだよ。