仲間割れは良くない。
仲間は共に生きていく人たちだ。
親と敵同士になっている…と思っている人は、大抵親の仲間だ。
僕もかつてそうであったが、僕は親に嫌気が差していたので仲間をやめて離反してしまった。
権威主義の親、子供を受け入れない親は、人の行動をいちいち批難する。
「そんなことじゃ将来お前はろくなものにならない!」
「お前は本当に駄目な子だ!」
「このくらいのことできないの?」
様々なやり方があるが、とにかく親に受け入れられなかった子供は、大好きな親の仲間であるために同じことをやりだす。
友達を批難する、恋人を批難する、自分ができるようになった、自分が頑張っているから当然のように親の味方となり、同じことを他人にするようになる。
当然、他人とは相容れない。仲間は親なのだ。
他人から見れば、同じことをしている仲間なのだ。
「お前らもちゃんとやれよ!」
「これ間違ってるだろ!」
「そういうことは良くないぞ!」
自分が頑張って従っているので、しっかりと親の味方になった子供は同じことをやりだす。
一般的に!普通は!きちんと!
仲良し親子だ。人を批難する、強要する、人を疑う、同じことをする仲間だ。
僕も小学生の頃、親と同じことを友達に言っていた。
友達が好きにしているのに、僕が責任を取るわけでも育てているわけでもなんでもないのに、人を自分の「親の」正義で批難した。
僕の親の正義は社会の理想が多かった。その中でも親がやりたくない、やっていないことは正義にならない。つまりは、親の都合よく使った社会の理想だ。自分ができないことについては、「それはやらなくてもいいこと」とされる。
つまり、親こそ絶対の唯一神。
自分ができるようになったことがあると、その点においては他人を批難する。見下す。無理して頑張っていることでも、できない他人を見下す。
人の自由を許さない親に賛同し、同じように生き、そして自分自身も親を見習って「社会の正義」の元に生きた。
僕はちゃんと親の味方として、他人に同じことをした。
それは生き方なので、頑張ったところで親は「自由を許す」などしてくれない。それは「生き方」であり、他人が何をしたところで終わることのないものなのだ。
その生き方に反対して、僕は親に離反した。
即刻裏切り者とされたが、自由を許してくれる人たちと仲良くなり、「批難し合うのではなく、受け入れ許し合う仲間」に入った。
その考え方の元は、優等思想である。
僕の家はそれなりに古い家だったので、「庶民風情」などという言葉が使われ、今の成績優秀、学歴エリート社会が始まった時に残った「見えない階級」がありありと見えていた。
社会が変わった時に、当然平等になどならなかった。
今度はこれ、と変わった時にも、勿論上にいる一部は「最初から特別な位置」につけた。
それを習い、仲間を蹴落としてでも自分たちも同じものを目指そうとしたのが、学歴エリート主義となった庶民層である。
それについては、僕も始まりを遡り知っただけだ。
今では差別的と呼ばれるような言葉は、差別的概念となって今も残っている。そして僕の家など比較にならないほど、更に差別的な言葉が使われている家もある。
我々も仲間を蹴落としていけば、あの人たちの仲間入りできるかも、となった時に、仲間を蹴落とす側に行った人たちがいるのだ。
子供の頃は何も考えていないから、差別的な考え方をしていない。
自分がどうしていくか決める際に、やはり大好きな親に従う人が殆どなのだ。
我慢して仲間になったのだから、当然そうしたいだろう。
僕もそうしていたので、よくわかる。
密告、強制、統一化。それが今の社会でよくある形である。
だが、どんなに頑張ったところで「生まれた時からその点については、決まっているからどうにもならない」のだ。
子供を足蹴にするような真似をして、自分が上に立とうとする親。
そして友達や恋人を見下して、上に立とうとするその子供。
親に教えられた「これが絶対の武器なんだ」とされたものを使い、同じ生き方をする。
立派な仲間だ。
だから同じように生きない人たちは敵だ。
そしてその仲間はそもそも「誰よりも自分が優位に立つ」という考え方で成り立っているため、仲間の中でも蹴落とし合いしかない。
それでも、同じ生き方を選んでいるから仲間なのだ。
「このやり方では、決して平等になることはないのだから、僕は孤立するしかないのではないか」
と疑問に思い、僕は考えた。
どうすれば、争いや蹴落とし合いのない、互いに納得できるやり取りができるだろうか?
親の味方になれた人は、自分が優位に立ちたい。
たとえ優しくしてくれようがなんだろうが、その人さえ見下したいし批難したい。
「ごめんね」と謝られるのが幸せだ。
「すごいね」と称賛されることが成功だ。
常に一人でいる生き方なので、勝っても負けても平等な立場の仲間はいない。
寂しくない人はそれでもいいが、僕はそこまで親と密接にしてこなかったため、寂しかった。同じ生き方さえしていれば、満足、というわけではなかった。
戦って生きることが嫌。戦いのない世界の方がいい。
「あいつが馬鹿にしたんだ!」
「俺が嫌だったんだからお前は謝れ!」
「お前たちは俺のことをちゃんと考えていない!」
そのように批難して、人に言う事を聞かせることこそ親に教わった人生の成功である。
「それでよし」
とみんなを従えていく。僕を認めたり褒めたりしてくれる人は勿論どこにもいない。それをやる役目の人がどこにもいないのが、この生き方の特徴だ。
「偉かったね」「よくやったね」
と言ってくれる役は、この生き方の中にはないのだ。受け入れる存在が一人もいない、蹴落として優位に立つ役しか「存在しない」のがこの生き方だ。
一時は同類と協力して人を批難しても、仲間になればそこでもまた争いは繰り広げられる。そういう「生き方」なのだ。
この生き方の中では、支配されている時が喜びだ。
「それでよし」
と優位に立つ方に満足していただくことが、喜びだ。
それは「褒めているわけではない」のだ。それは「満足してもらっている」だけなのだ。
こんな生き方を数年も続ければ、「僕は」嫌になった。
あくまでも僕が嫌になっただけで、僕はもう自由を許してくれる仲間を知っているので彼らの自由も許せる。
僕以外の親族はみな今もこの生き方を続けているため、親族の中で誰一人本当に仲が良い人はいない。その分、「一般的に」必要なことはやる。
だが、誤魔化せるところは誤魔化すし、押し付けられるところは押し付ける。
それもまた、この生き方の特徴だ。
仲間同士で蹴落とし合い、押し付け合い。
「一人勝ち」をするための生き方なのだから、しょうがない。
常に誰を相手にしても警戒している。
その分、この生き方を選ぶと「下には下がいる」と言われている通り、悔しい時には自分より下を見つけて優越感に浸るということが可能になる。
その分、上には上がいるのでどうにもならない気分にもなる。
単純に、生き方の問題なのだ。
最初はどういう生き方の家で生まれたとしても、本人が嫌ならばやめることもできる。
なんとしてでもこの生き方での成功を掴みたい人は、立派になることを目指し、なれないと悔しい。戦うものにしか生まれない感情だ。悔しい。
僕はそんな個人の自由はともかくとして、この大きな流れの中でも資本主義社会はちゃんと金を使わせて、その生き方から出られないようにしていくことが恐ろしいと思う。
その生き方から外れたら、生きていくのが怖くなる。
この恐怖心、不安感によって、個人の問題なのだから好きに選んでいいに決まっているのに、それを選ばせないことを可能にするのだ。
僕はこの生き方をやめてしまったので、家で教わった差別主義の考え方はない。
昔の家柄第一から、脱した。家柄第一の変形なのだから、彼らの目指すところは良い家柄と合体することだ。上の上までいけば、自然とそれを目指してゴールとなることはわかる。
だがしかし、僕は子供のころに恩を受けた。
会津若松の方たちに恩を受けた。
昔は平民と呼ばれた田舎の農家の人たち。彼らの愛ある心のお陰で僕は改心した。
「こんな差別的な生き方は、間違っている。」
と確信し、彼らのように平等で自由を許し合う生き方を選び、仲間になった。
今は僕の家のような生き方を選ぶ人が多いが、その先にたどり着くところは「最初からなんの自由もない」なのだと知っている。
受け継ぐものや資産が多くなるほどに、自由は無くなる。
生まれた時から「こうしていくもの」と決められている。
その分、最初から努力しなくても「自由さえ捨てれば」手に入るものがある。
目指しているのは、そこなのだ。
そういう人たちを理想として作られた生き方なのだから。
形あるものを人より多く得ようとすれば、必ずマイナス面も受け入れなくてはならなくなる。
ディズニーのアラジンを観て思った。
宇宙最強の力を手に入れたら、ジーニーと同じく自由がないという運命を受け入れなくてはならない。
それは正に、この現代社会の形と同じだと思った。
盗人はお宝を手に入れる時は手を組んでいるが、自分だけ得られるとなれば仲間など簡単に見捨てていくのだ。
社会的理想を口にしても、どんな立派な理由をつけても、やっていることは変わらないのだ。
親に褒められるため、受け入れてもらうためと思って我慢して仲間になる人もいる。だが、最初から「受け入れる」というゴールが存在しない生き方なのだから、どこまで子供目線で純粋に頑張ったところで、欲しいものなど手に入らないのだ。
「自分のことしか考えない」がこの生き方なのだから、頑張って同じことをするから「自分を見てほしい」は無理な相談なのだ。
そして「この親の元に生まれた」という事実をどう受け入れ、何を選んでいくかは自分次第なのだ。
社会はどこに行っても、ある程度より先は似たようなことが起きている。
僕は初めからそんなものに興味はない。
手に入れるということが、結果どのような未来にたどり着くか知っているから。
僕はお世話になった人々に心から感謝している。
だから今も、社会的理想を得ていなくても、下町の屋台で飲んでいるような人々が好きだ。
そんな場末の酒場のようなところにこそ、人の情は溢れている。
愚痴ったり、泣いたり、怒ったり、慰めたり、そしてなんだかんだ言って何かあれば力を貸したり。合わせたり。
僕も頑張って真似したが、きっと僕はそんな場所にうまく溶け込めていない。恐らく浮いている。
頑張っても浮いてしまうのだろう。
だが、社会で立派とされる人たちは彼らのような人を一目で差別するのに対して、下町の酒場にいるような人たちは懐が深い。
悪いことも考えるし、困ったこともする。
だが、彼らのすることなど人間として当たり前と許せる範囲のことで、例えば社会的理想を使って人を支配しわからないうちに吸い上げていくことより遥かに罪として軽い。
人間だからそんなこともある。そんな弱さもある。
その程度でまかり通らない悪を生み出してしまうのは、更に深い業を重ねている人たちがいるからだ。
僕は社会ですごいものにならないし、なれないし、なりたくもない。
自由ほど大切なものはないと知っているから。
自分自身が持てる力は、昔僕を助けてくれたような人々のために使う。
自分が偉くなって立派になってから、「そんな風になれなくてもいいんだ」なんて説得力がないと思えるから。
ただ、心の道だけは無料で誰でも努力次第で開いていける道だ。
物や金や権威は頑張っても手に入れらないならば、確実に未来ある道を選んだ方がずっといい。
形あるものを得る道は、先まで進むと必ずどこからか「あなたはこの先に行けませんよ」という部分が出てくるから。
それが「最初から決まっていたのだ」と知った時には絶望しかないだろうから。
優越感を満たすために生きるならば、世界の頂点に行くしかない。
だが、そんな先まで行く前に、大抵の人は行き詰まるように「できている」のだ。
それでも尚、人はその道を目指すのだから、親子の愛と言うものは本当に際限ないものだと思う。
親に執着しなければ、そこまで恨んで認めてほしくもならないのだから。
「そんなことより自分の満足」
そう思えた方が、遥かに早く楽になるだろう。