性格が悪い人は、どんな環境でも不幸になります。
こんなこと思うんだなと、加藤諦三先生を見ていて思いました。
自分自身を良くしよう良くしようとすると、実際より他人を悪く見るほかありません。
悪く見れば悪い方に展開します。
他人がやっているのではなく、自分が悪い方に展開させていくだけです。
自分が好かれたとか嫌われたとか、そんな解釈しかしないのです。
否定されたとか受け入れられたとか、何もかも自己中なのです。
自分を中心にしか解釈しないのです。
他人は常に「自分が発想しなかった動機」で生きていると気づくことがありません。
好かれた、もですが、「嫌われた」は自己中な解釈だと思わない人が殆どです。
自分に対して特別な感情があって、自分を中心に考えて行動している、という解釈が既にナルシシストのものなんですよ。
好かれたからでも嫌われたからでもない。
「相手に何かの考えがあって、それは自分とは関係ないのだ」
これが現実です。自分がどんな人かを気にして生きているのは自分だけで、他人は自分がどんな人かに応じて何をするか決めていないんですよ。
自己中な人の解釈は、他人が常に自分中心に生きていることが前提なのです。
残念ですが、他人はそこまで自分がどうであるかを気にしてくれません。
自分に褒美や罰を与えるつもりで生きていないんですよ。
他人には他人の目的があり、常に考えているのは自分のことではなく他人自身の目的です。
自分の目的が「自分が認められること、自分がちやほやされること」であると、他人がどう反応したかを自分の目的だけで解釈します。
たとえば、自分が望んだとおりに褒められなかった、望んだことを受け入れてもらえなかった。
「私のこと嫌いなんだ!」
これが幼稚園児ですよ。
他人の存在を認めていると、「あー、期待通りにはならなかったな」という残念さがあっても、そこは自分一人の世界なわけではないのですから、それは心の中にしまっておいて、実際に起きている方、つまり他人の動機などに意識が向くのです。
自分が残念だったのは自分の中で一人やっていた「占い」みたいなものの話ですから、それはそれとして、現実に起きていた方に続けて参加していくのです。
一人で勝手に期待して、勝手に傷ついているだけですからね。
そんなことが起きてもできるだけ平静を保つようにしますよ。
恥ずかしいでしょう。
自分のことばっかり話して、自分中心に物事を解釈する人と話していれば、どうあっても本人が自分が認められた認められないの話をしたがりますから、それに対して意見したり宥めたりすることになります。
しかし、自分がその話を出さなければ現実に合わせて話が進むわけです。
この「現実に合わせて話が進む」を体験しないまま独りよがりな世界に生きているのが、真正の神経症者ですね。
仲間になろうとする人は、自分が一緒に行く道も用意しています。
「私のための私が望む道」なんて誰も用意しませんが、一緒に仲間として参加していけるようにしてくれています。
しかしそれは「私の期待」とは違うものだから、とにかく「期待したことが起きない」ことで腹を立てるんですよ。
更に、人に意地悪をしたり冷たくしたりすることをなんとも思わないんですよね。
その人の接し方でわかりますよ。
普段から人とちゃんと接してきた人は、人に意地悪しないです。
「自分が辛いから」という理由で、コロコロ態度を変える人はつまるところ「自分が注目されたい人」です。
自分が注目されるかされないかより、話がどう進んでいくのか現実の流れにのらないと困ると思うのが現実を生きていく人です。
自分中心にして幸せになれる世界なんてあるわけないですから。
自分中心にはしてもらえないからこそ、そんなことは関係なく自分が共に進む道も沢山あるんですよ。
加藤諦三先生が、本人自身が何を言っているのかわからないほどのコミュ障で、本人の中には壮大なストーリーがあるのはわかるのですが、現実的に形作って協力していく何かを作っていないんですよ。
彼はもっとずっと上の立場の人たちに認めてもらい、他人に勝ちたいだけですから。
ああ、似たような奴見たことある、と思いました。
子供の頃のクラスメイトで、兄弟全員が東大に現役合格した子。
超コミュ障で、ロボットみたいに張り付いた笑顔をする子でしたが、友達からはおかしな奴だと思われていました。
小学生、中学生という年でクラスの友達がちょっとからかっただけでも、顔を真っ赤にしてキレて机を投げるような子でした。
良い子といえば良い子ですが、友達を無視します。反応できないことを言われた時には何も起きていない、聞こえていないかのように無視します。
加藤諦三先生を実際に見た人は、教室の中でそんな風に起きていることをガン無視している様子を見たことある方も沢山いますよ。皆さんどう思ったでしょうね。
そのような人が解釈した世界が、彼の本ですからね。
僕はできません、ということが沢山ありましたが、言えば怒鳴られますからね。
人の話をとにかく聞かないので、どうしようもないです。
彼がその調子だから、周りには性格の悪いナルシストばかり集まり、集団になっている時は瘴気のようなものが漂ってすごく暗い雰囲気でしたね。
恨みしかない集団って感じでした。
恨みなど現実を確認しなかった人のものですからね。
僕はクラスのひとりひとりを「全員が良い子なのだ」という前提で見て仲良くするよう努めたことがありました。
実際、仲良くしようとしてみると、みんな考えがあるだけで悪い子はいませんでしたよ。
仲良くなれば、そんなものです。
社会の良し悪しで見れば色んな面があるでしょう。
本人自身もどうすればいいのかうまくできないだけで、仲良くなろうとしているだけだったりします。
ただ、成長していくと欲深くなる人がいます。
子供の頃と違うのはそこだと思います。
それこそ、まともな神経をしていれば「相手も人間だ」という理由だけで冷たい扱いはできないんですよ。
僕は加藤諦三先生が書く「そのような人にはこうした方がいい」はやりません。
あんなことしていたら、どんどん友達がいなくなって同意する人たちで群がるだけになります。
実際なってましたけども、僕は親への恨み憎しみだけを軸に生きる仲間たちはいらないですね。
逆に、なんでそこまで親を中心にしてあげねばならんのかと思います。
僕もそのようにナルシシズムに浸っていた頃、自分の頭の中に「実際にはわかっていないこと」が沢山ありました。
悪いことが起きているのか、良いことが起きているのか、わかりません。
わからない時は、良い方に決めつけて動いた方がいいのです。
僕が思う「嫌われてるか好かれているか」は、他人から見れば「疑われるか信じてもらえるか」「悪い子だと決めつけられるか、良い子だと思ってもらえるか」なのです。
だから、「全員を良い子だと決めつけた前提」で接するようになったのです。
結果、良い方だと思えば良い方が出てくるのです。
人間には善も悪もありますが、どちらを引き出すかは自分次第なのです。
その偏りが強いのが、ナルシシストです。
「自分は悪くない!」という決めつけの元から始まります。
つまり「悪いのは他人だ」という決めつけです。
それをやるから、そうでないこともそうなるようにしか動かないのです。
卑屈な人にいます。
「だって私のこと嫌いなんだと思って」
自分が人に不審な態度を取り、他人が気にして聞くとそんなこと言う人いるでしょう。
「思って」
これだけでもう人を恨んで冷たい態度を取り、不安にさせるんですよ。
思っただけです。
それが疑いなのです。
自分が想像しなかった何を考えているのか、そこに関心が向かないのは他人を排除した世界を生きたいからです。
自分の発想は自分だけのもの。決めつけてかかるのは自由ですが現実を生きている他人とは共に生きていけません。
自分の妄想の中に既に救い主は「いつかくる」という存在としているわけですから、生きている他人などいらないんですよ。
誰だって悪い子だと決めつけられたら嫌でしょう。
そこから始まったらすごく嫌ですね。
そして「そんな嫌な目に遭った私」を「わかってくれる人」なんてやり出したら、結局自分もやった側と同じになるでしょう。
仲間って、本当に悪いことを考えていない人の場合は、もし黙って何かしている間も、ちゃんと自分のことを考えてくれています。
または、自分とは関係ない何かをしている最中で、しばらくしたらその結果を教えてくれます。
どんどん進んでいくのが人生ですから。
他人は他人で、本人自身の行く道を進んでいきます。
それにしても、加藤諦三先生と一緒にいると仲間を減らしていくしかなくなりますね。
恨んでいる仲間はいらない人は、友達いなくなるだけだと思いました。
僕はラジオに出る少し前に出会ったので、これまでのことは知りません。
知ったら良くないやつだなと思うので、ラジオも聞いていません。
僕も思うことを言えと言われましたが、相談者にはあんな場であんなこと言いたくならないです。思わないですから。
甘いということで、僕は「ちゃんとわかっている人」だからハッキリ言えと言われましたが、わかっているから言わないんですよ。
可哀想ですからね。
わかっているから、ハッキリ言いました。
「教授、大丈夫ですか?」と。
あんなことしていたら、地獄からのお迎えしか来ませんよ。本人も何か焦っていましたし、不安が募っているのではないかと思いました。
彼を安心させてあげないと、みんなして世の中悪い人ばっかりだと思えてくるでしょう。
そんなわけないです。
少なくとも半分は、良心の方が勝ちますよ。
やたら悪意を疑う人がいると、良心が勝つ人まで「疑われないようにしなきゃ」と悪意を育ててしまうでしょう。
ほんと怖いです(笑)
僕は仏の教えで育った身なので、とてもそこまで人を悪くは思えません。
自分が精進していく方が先ですから。
メディア向けの顔で人を決めつける人は、まず思わないでしょうね。
あれで実際には気に入らないことがあるとすぐ怒鳴る人なのだから、聞いただけでは信じられないでしょうね。
完璧でありたかった彼が解釈した精神分析学は、そうなったということです。
自分はできてる!と思い込みたかったのはわかるのですが、そのパターンはよく見ます。
口に出して「あなた大変だったでしょう」と彼は言います。
思ってねえなとわかるので「思ってないでしょ(笑)」と冗談めかして言ったら、怒鳴りつけられました。
だって、本当に思ってたら言えないですからね。共感をしたことがないのだとその時わかりました。
それはそれとして、どういう作戦でそれをやっているのか知りたかっただけだったのですが、本当に僕は「人々に希望を与えるため」に協力したかったのですが、そうではなかったんですね。
嘘を本当だと思わせるだけなんだなと。
そうなると、僕は嘘はつけないので、そして彼を悪者にはできないので、どうしようかなと悩むところなのです。
間違っているものを正しいとしながら、その続きを正しい道にしていくのは無理だなあと思いました。
ただ、これだから僕は彼のような人と関わらなかったんだなとわかりました。
僕の友人たちは本音でぶつかり合う、熱い奴らでしたからね。
喧嘩してもそこには友情があり、最後には泣いて抱き合うくらいの熱さがありました。
僕はそっちでいいです。
それじゃダメだろ!と友達に言ったら、それだけでは終わらないです。
友達のために、何か助ける手立ても用意しますよ。
仲間はいつだって自分がいる場を用意してくれます。
それが仲間ですからね。
率直に言って、精神分析学者が性格悪いんですよ。西洋の人たち。ナチスの恐怖に怯えながら研究していた人たち。抑圧しまくりの中で研究していますから冷酷なんですよね。
それが平気で行われた世の中での話ですよ。
日本人には到底受け入れ難いです。
僕も勉強はしていますから、特に加藤諦三先生が引用している学者たちの本は読んでいますが、とにかくこいつら性格悪いなと思いますよ。
「お前らどんだけ嫌なことがあったら、人間のそんなとこばかり見たくなったんだよ」
と笑いたくなりますね。
自分が強欲なんですよ。強欲だと悪いことばかり起きますから。
楽したい、得したい、優越したい。そんなことばかり考えていたら、嫌なことばかりになって当然です。
人を見下して生きているのに、他人が快く思ってくれるわけありません。
自分自身の態度が、「私だけが特別」であれば、どこに行っても人に嫌な気分を味わわせるのですから、そりゃ本当に善良な人にだって嫌悪感を与えて嫌な反応をさせるでしょう。
人は自分に反応しているだけですから。
自分が自分がと考える人は、地獄に落ちていく。
人に嫌な気分を味わわせ、人の手を煩わせ、そして感謝もしないのです。
加藤諦三先生も、今になってもまだ人に感謝していないんですよね。
本当に神経症が治ったら、もっと世界が明るいものだったのだと気づきますよ。
本当にそうですから。
何もかも自分の心が生み出し、形作っただけです。
彼の元には彼と似た人が集まっていましたが、僕の故郷の人たちのように昔からある信心はありませんでしたね。
現代社会で勝ちたい人は、現代社会に存在しているものにしか縋れませんからしょうがないですね。
福井の幸福度は毎年ナンバーワンですが、彼らは道徳性がとても高いので幸福なのです。
人様のために何かして、人様のすることも寛容に許す。
その姿勢が当たり前になっていれば、社会は平和ですよ。
だいたい、人を恨み不満を持つような人が、相手に対して「相手から見た時に自分が求めるのと同じだけのもの」を与えたのかというと、そんなことないんですよ。
困っている自分を救ってほしいならば、相手が困っているところを同じように救わなくてはならないでしょう。
それができないのに、何を恨めることがあるのか。
自分が持たないものを持っているとしても、相手は自分が持つものも持たないでしょう。
人間なんてそんなものです。
そして、自分は相手が持たない力で何をしてあげたのか。
相手がこれからのために必要な何を与えたのか。
もらうことばかり考えていて、もらえないから恨む。
それが父のせい母のせい、周りにいた人たちのせい。
「欲しいものが手に入らない」
結局はそれ。
結局は「自分だけが人より沢山、なんでも持っていたい!」ということですよ。
その欲で地獄に落ちるのです。
分け与えて生きる人は幸せです。
自分の不幸を嘆くことなく、持てる力を持ち、人を助け、分け合うのです。
物理的には困ること、大変なこと、沢山あります。
しかし、心の支えや、心満たされる仲間がいることがどれだけ有難いことか。
貧しくとも分け合う精神があれば、仲良く生きていくことなど造作もないことです。
とにかく、恨み憎しみを捨てられない人は一歩も前に進まないですね。
幸せに生きている人たちのところに行って、そこで過去の何を満たそうかとするのですから。
この人たちに何をやらせて自分が苦しみから脱しようかと下心を持つのですから。
醜い。
と言えば、「私のこと醜いって言うんだよね」と恨むくらい、性根が腐っているとどうにもならないです。
そんな時があっても「これではダメだ!心を入れ替えなければ!」と人を思えるから、人間はいいものなのですよ。
人間でさえあれば、人間としての幸せは自然に手に入るようになっています。
不幸な人は、とにかく今の自分のままで認められたいんですよ。
自分が怒鳴りつけるのも人を無視するのも、うまく話せないのも全部親のせい相手のせい。
だから自分自身は良い人なのです。
本当は仲良くしたいと思っているから。
まあ、加藤諦三先生もそんな感じですよ。実際には周りはパニックでしたけどね(笑)
パワハラモラハラの人なので、しょうがないですね。
本人は自分には理由があるから、しょうがないと思っていますよ。
これは、周りが溜まったものではないですね。
彼はそんなにもう長くはないです。それなりの年ですから。
亡くなった後にどうなるかは、もう予想がつきますね。
彼自身が生きて極楽浄土に行けると良かったのですが、地獄の川の前の支払いは大変なことになりそうですよ。
そんなもの、信じたこともないでしょうけれど。
僕は子供の頃から天で見ている存在があると信じ切っていて、良かったです。
自分自身が、天から遣わされた存在であると思って生きれば、その通りになります。
心の天国に行ける人は、天国からやってきた存在であると自覚して人を見るんですよ。
それにしても、本当に「話をしてまとめるだけ」で生きている人達なんているんですね。
口喧嘩しているだけですよ。
それで言葉の上で誰が正しいとか、話がまとまってそれだけ。
それだけでいいんですね。
他人のことはわからないから、わからないままに信じなくてはならないのに。
全部話し合って先にわかるの?
なんて楽な。
しかし、それではどう考えても「いたのに、いなかったことになる人」が出てきますね。
そこまでして先に話をまとめたいものでしょうか。
それではその集団にいる中で自殺でもしなくてはならない人が出てくるでしょう。
存在したことを否定されるのですから。
存在することを否定する人は「私の存在を否定しているな」と人を恨んでいる人です。
でも、大丈夫。
加藤諦三先生を見ていて思ったんですよ。
その周辺にいる人たちもみな、とにかく金持ってる(笑)
普通に親もいて、元々それなりで生まれていて、何も困らない。
嫌われても平気です。仲間?がいなくなって独りぼっちになることはないです。
体裁を繕って生きまくっている分、しかも親の代からですから、どこに行っても困らないだけのものを持っています。
彼らは、まず形あるものを全部手に入れて優越して、そこそこ満たされてきたら今度は心の方にいくようです。
あれもこれも手に入りましたからね。
それなりに全部手に入ったら、もっとあの人のように、と欲が出て、しまいには幸福とか満足とか言い出すのです。
他人より多く得て、他人が羨むものについては「もう手に入ったからいいや」で済ませている。
常に「他人が持っているもの」を妬んで妬んで、自分を不幸だと思っているのです。
彼らこそ地獄に落ちる人です。
持ち物全部重さを量って、罪の重さを判断されるのです。
彼らは川を渡れないです。
三途の川は、極楽浄土に行く人だけが渡れる贖罪の川ですからね。
身一つで渡らなくてはならないんですよ。
ひとつ持てば人を見下し、ひとつなければ人を妬む。
それが鬼というものです。
人に与え、人を幸せにすることを考えた方が心は早くに極楽浄土に行くのです。
まあ、とにかくよくわかりました。
「性格が悪い人たちは、僕が想像もしないことを考え、見えないところでやっている」と。
関われないですね。僕はできないですから。
僕は川のこっち側にいて、こっちに来る人だけ連れていくしかありません。
地獄に生きている人は、自分がやっていることは正しいと思っていますが、それは性格が悪くないとできないことばかりです。
人は悪いところばかりではないです。
自分のことはなんでもいい人にするから人が悪く見えるんですよ。
全部自分のせいです。
少しは人を幸せにすること、今のその人を幸せにすることを考えた方がいいと思いました。
僕は絶対に真似しないです。
鬼は鬼にしか呼応しないし、極楽浄土にいる人たちに石を投げて生きるだけの冷酷さがありますからね。
やはり川の向こうとこちら側は相容れないのでしょう。