日記。これは僕が恐らくそうだろうと思っていること。
僕の家の人間は、社会では全員そこそこ優秀になっている。
成績や学歴の話ではなく、能力的な話だ。
悩んでいる人々を見てきて、特に技を体得させようとして気づいたのだが、ひょっとして基本教育を受けていないのかもしれない。
マニュアル化されて世間で全員に行うことではなく、家庭内での教育のことだ。
礼儀作法のことでもなく、決まった何かではない。
そのひとつが、集中力を養うための教育だ。
名前は知らないし、最近になり自分が受けていた教育の内容を考えてわかったことだ。
家の中で行うお手伝いのような内容なのだが、それは意図的に行われる教育、修行だ。
残念なことに、思い出そうとしてもよく思い出せずにいる。
同じものを沢山用意されて、只管同じ作業をさせられたりしたのだが、一体何をしたのだったか。
覚えているもののひとつは、食器洗いだ。
ただ洗い物をして終わるのではなく、何度でも繰り返す。
横で親が見張っている。
見る。やる。を繰り返す。
「お前は今、手だけ動かしている。見たままただ手を真似して動かしているだけだ。意識しろ。」
こんな風に指摘されながら、違う、違う、と何度もやり直しさせられ、集中して行えるようになるまで繰り返す。
意識を使う、という技を体得する。集中力を養う。
五歳か六歳か、そのくらいから始める。
僕はかなり手遅れレベルの年で始められたので、もう七歳にはなっていた。
因果関係は、もっと幼い頃に教わる。
してもらったら、してあげる。
お返しをするという意味ではない。
「してくれた人の苦労を自分が体験するため」
自分の目の前にやってきたものが、どうやってやってきたのか。
幼いうちは体験がなく、想像がつかない。だから実際に全て行って想像可能にさせる。
そうすることにより、何かをもらった時に「これはどこからきたのか」と自然に考えるようになる。
そのような幼児教育を、悩んでいる人たちが受けていないようだったのだ。
だったら、人の気持ちなんて想像しなくても不思議はない、と思った。
なんでもやらせてみないとわからない。
そして思考は行動から生まれる癖となるので、繰り返すことで自然と目の前にあるものがどこから来たのか考えるようになる。
全てのものが何かと繋がっていて、ここにひとつなにとも無関係に存在しているわけではないのだ、と段々理解していく。
様々な「考えもしないこと」を考えさせるためには、このような教育が必要だ。
ただ、この手のことは社会で義務化されていない。
よって、親の教育、家の教育に全てがかかっていると言っても過言ではない。
学校では勉強を教えるし、集団生活の中で必要なことは教える。
しかし、友達との付き合い方については、親のサポートが不可欠だ。
友達と喧嘩して怒っていること、傷ついていること、必ず起きる事態だ。
そんな時に友達を悪者にしたり、どっちが正しい、悪いと言い出したら子供は他人と仲良くしていけない子になる。
どちらかが悪者になるような判断を親が下してしまえば、わかり合うという付き合い方ができなくなる。
親は勝手に判断してはいけない。思うことがあっても、言わずに子供に解決させなくてはならない。
自力で乗り越えさせるためのサポーターなのだから、親は代わりに問題を解決などできない。
最近は自分が教育しないのに学校に責任を押し付ける真似をする親がいるから、先生たちも大変なのだ。
自分の子がいじめで自殺したのに、学校の先生が気付いてあげなかった、と責められる。
自殺するほど悩んでいるなら予兆は必ずある。生まれた時から毎日一緒に生活している親が気付かないのに、先生の責任にするのはお門違いだ。
まず「自分が気付いてあげられなかったこと」についてショックを受けるのが普通の親だろう。
自分の苦労に気づいてくれない、と恨むのは子供だけでいい。
親がそんなことをしたら、子供は誰からも気づいてもらえない。
まして何十人もの生徒をいっぺんに見ている先生に、ひとりひとりの日々の細かい変化に完璧に気づけという方が難しい。
先生たちも人間だ。自分の生活、家族のことで悩んでいることだってある。
いつだって変化なく存在している人間はいないのだから、周りにいた人たちそれぞれが自分の責任を感じたとしても、最も重要な存在は親であることは間違いない。
しかし、そんなおかしな話が社会的に当たり前のように受け入れられていて、学校側を批判している人たちも殆ど疑問を持っていない。
なんとなく適当にやっている。
しかし、なんとなく適当にやっていればいいわけではない。
思考するにも、集中力は必要だ。
自然と発達することもあるが、訓練することで誰でも育てることはできる。
自己教育しか大人になったらやることはないが、子供のうちは他人が育てることもできる。
見せびらかすための努力をしている人の場合は、これが終わっても誰も褒めてはくれない、という行いに全く興味がない。
だから自分自身の能力は開花させられない。
または非常に難しいと言える。
教育について疑問が湧いたのは、僕が「当たり前にできる」と思い込んでいたことを誰もできなかったからだ。
体得してしまえば人格だってまるっきり変えることはできる。
新しい人格を体得すればいいからだ。
だが、集中力がなくなってしまったらどうにもならない。
この場合は、ふたつのケースが考えられる。
・実際には集中力を持っているのに、ノイローゼ状態等で一時的に集中できない人
・元々養ってきておらず、集中力がない人
どちらにせよ、ノイローゼ状態の人はそこから快復する方が先だろう。
僕はうつ病になったことがあるが、その時はどうにもこうにも集中できず、ノイローゼ状態でもそれはあるのだが、とにかく「今までできたはずのことができない」という状態になる。
何をしてもすごく疲れる。意欲が維持できない。
そんな状態になる。
そのような状態の人は、あくまでも一時的なものなので、精神的に快復すれば元々の力が発揮できるようになるだろう。
様々なケースがあるので、どのやり方が正しいとは言えないが、少なくとも自分が特別だと思っているナルシシストの場合は、現実に直面するしかない。
そして教育については、行った場合とそうでない場合は明確に違いが現れる。
それは僕自身が、自分と姉の違いで確認してそう思っている。
僕は一族の武家修行らしきものを行ってきた。
姉は一族と離れ、父と母の新婚ごっこの中で育った。
だから父にそっくりで、教育を受けずに幼児期を過ごしてきたのでその後の教育も素直に受けることなく、今も傍若無人で人の気持ちがまったくわからない人になった。
ただ怒鳴ったり責めたりすることで他人を動かして喜んでいるが、友達はいない。
慕われる、ということがないために、代わりに怒鳴りつけて命令している、と言える。
うちの人間でありながら、賢さがない。
誰が、どのように、どんな環境で教育してきたか。
これは生涯を通じて変わることはない部分なので、後からどうにもできない。
そうした意味では、僕のように完全に割を食って生きてきた人の方が、自力で克服したり修正したりする可能性があるだけマシだと言えるだろう。
人生を通じて人をバカにして威張っていられる「優越感」を幸せと呼ぶか、謙虚に人を尊敬し、感謝して感じられる「一体感」を幸せと呼ぶか。
これは違いの問題ではなく、一体感の方が本物の幸福と呼ばれるものだ。
同一感ではなく、違う存在でありながら、見えない繋がりを持っていることを実感し、感じる感覚。
「自分は愛されている」
これが感じられる人は、想像力があるし、人の身になって考えられる。
「いま、ここにあるものは一体どこからやってきたのか」
そんな想像をする思考が癖のように身についていることは、幸福な人生を送る上では非常に重要なこととなるだろう。
しかし、現代社会では、ことそのような能力を身に着けさせる教育をしていないのが現状だ。
他人に勝つため、人より多く得るため、自分だけが特別な存在だと認めさせるため、と、欲深く生きている現代社会人は、多くのものを得ながら今日も憂いている。