これはただのメモである。
神経症の人と心理的に成長している人の違いについて考えている。
神経症者は魂の継承に失敗している。
親を恨む人はどこにも所属できない。
親が正しいか、悪いか、の二分割で考えられるのは、ナルシシズムの世界の自分視点で考えるからである。
客観視して見れば、親がどんな時代に生まれどんな状況にいたのかも考慮するから、自分側に対して不当と思える自体があってもそれを「許すかどうか」という視点で考えない。
正しいか!悪いか!
この断罪がそもそも不可能なのに、それを可能にしているのは自分がどこにも所属していないからである。
私は私に所属、ということはあり得ない。
私、という存在は、この世に生を受けた時にどこの誰か決まっている。
それがわからなくなった人なのだ。
成長に向かい魂が生まれ出る時期に来た人を見ていて思った。
僕の家のように、何百年続いていても魂の継承に失敗する家がある。
一族が退行に向かい始める。
僕のように親の向こう側の存在にたどり着ければ、その系譜を継承できる。
心理的成長は代々続き、一代で最後までたどり着くわけではない。
自分がこの世の神様になりたい人は、「自分一人で全部できない」ことが受け入れられない。
次の代に渡すということを考えられない。
「私はすごいんだぞ!」
これをやるのが神経症者である。
先代までの経験を生かせない。
自分がどこにも所属していないから、社会に出て他人に同化する。社会に従う。
どこの家の人でもない、誰でもない、社会と言う名の漠然とした親に従う。
必然的に権力が一点集中し、社会主義化は進む。
家の違いがない。つまり親までの積み重ねが無駄。
その時その時、社会の流行に合わせているだけ。
自分の家と他人の家は違う、という区別がない。
他人の親と比べて優劣をつける。全員自分の親みたいな感覚で見ている。
親が自分だけの親ならば、他人の親と比較できない。
自分は一組の親しか体験しないのだから。
「あっちの親は自分の親ではないから、自分の親とは別の存在である。」
とわからないのだ。
だからどこにも所属していない。どこの家の子でもないし、どの親の子でもない。
毒親、という呼び名、また風潮がリベラルな社会主義者によって煽られていることを僕は懸念している。
ここで毒親叩きをしたところで、自分がますますわからなくなる人たちが増えるだけだろう。
僕は親の向こう側の歴史とつながり、魂を継承した。
だから自分が長い間生きているかのように、昔のことを自分のことのように感じる。
僕はどこの誰なんだ、自分一人だ、と孤独になった時、外側から僕を確認させてくれた存在がいた。
それは亡き曾祖父や、殿である。
幼い頃から大名行列を見ていた。
この殿にお仕えするのだ、と思い込んでいた。
何があったのかは知らない。だが、「昔はこうしていたのだ」と過去の歴史とつながりを持てた。
家の中に親が不在。だが歴史を辿れば父はいる。
外側には父がいる。
自然の流れの中で存在していた時、確実に父となる存在が外側にいる。
家を出た外に、父の父であった人がいる。
それは殿である。
殿は領民全体の父である。武士の父であり、領民の父である。
そして我が一族は大昔から、領民たちの父である。
本物の支配者は統治している。
全体の父として存在している。
そして母はそれぞれにいるし、自分の身を案じる多くの人が母の代理である。
甘えが満たされれば、母より父の向かう先に目がいくようになる。外に出て行くようになる。
実際の父が社会で服従していると、家の中にも支配がやってくる。
命令に従わせ隷属させる支配者である。
そんな時、過去に戻れば必ず自分たちを守っていた父がいる。
自分たちの一族が生きながらえているのだから、必ずいる。
僕は曾祖父に、そしてその向こうにいる藩祖の存在に、そして更に向こうにいる信長公の存在に縋り答えを求めた。
魂の導かれる場所である。
流れを逆にたどることで、自分は何者なのか存在の確認をした。
この流れのここに生まれてきた存在である、という確認が必要なのだ。
人間は外側の何かを介してしか、外側から見た自分を確認できない。
そして内側の支えはブッダ。
死して尚、向こう側に存在するという強大な力が、どうなるかわからない未来に進ませる力となった。
「この人に従っていれば大丈夫」
と確信できる安心感となった。
何が起きているのかはわからない。だから外側に向かう時は父を道標に。今どうすべきか心に聞き判断する時は、ブッダの教えを頼りに。
外側に何もつながりのない自分は、あまりに頼りないのである。
甘えが満たされず傲慢なままの人は、外にいる他人に甘えを満たされようとし、同時に優越しようとして目的もなく他人と張り合って戦うし、意味もなく権威に従い崇拝する。
うちは僕の代で最後になってしまうかもしれない。
僕は領民たちの父であり、過去の系譜とのつながりの途中に立つ点のひとつである。
せめて一人でも多く、自分たちが誰なのか自覚させなくてはと思う。
娘に、「殆どの人々は自分の家に何もないのに、なぜ何百年も前のことを知っているのか考えたこともない」と話した。
すると娘は言った。
「歴史の教科書に書いてあるから。」
僕はこの答えに愕然とした。まさかここまで酷い状態に育ってしまうとは思わなかった。
これから厳しくしなくてはと思ったが、もう手遅れかもしれないとも思った。
歴史の教科書はどこで作られているのか?その元はどこから来るのか?
それらの因果関係を理解しているのが「本当の支配階級」である。
権力者は支配階級ではない。
本当の支配階級が消える時、歴史は無くなり、独裁者が誕生する。
どこの家の人だかわからない、どんな流れかわからない、ただ権威に認められるために言われた通りに生きる、奴隷の国になってしまう。
支配階級とされる人々の必要性は、階級闘争が生まれると更にわからなくなってしまう。
歴史が消えるということは、自分がどこの誰かわからなくなるということだ。
外側とのつながりがないから、たった今強い力があるとわかる者に従うしかなくなる。
親は自分の前世である。
代々魂を継承する。
親を恨んだ人は継承失敗。
例えそれまでの歴史の流れがあろうとも、そこで一族は終わりだ。
また、どこの誰かわからない人からスタートである。
継承に成功すれば、自分自身が何百年も生きているかのような感覚を持ち、そして今ある存在に対しても流れに沿った感情を持ち、判断するようになる。
親を恨む人は、自分の親をバカにしている。
自分もバカにしているが、親をバカにしている。
自分は特別なのだとわかってもらえる日まで、周りの注目を集めようとする。
一族の系譜の中に生まれたという責任感がない。
因果関係を理解させる武家教育は、大変重要だ。
他人とのつながり、歴史のつながり、物を介して色々な存在とつながりを感じられる。
因果を理解していれば、その自然の力を使えるようになる。
因果がわからない人は、そこにある何かを「その部分だけ得よう」とする。
因果がわからないまま何かを得ようとするから、その向こうにあるものを全て引きずって壊してしまう。
それが赤ん坊のような人だ。
自分の感情任せに生きていて、餌をもらったら大人しくなる動物のような生き方をする。
そんな人たちばかりになったら、国が滅びる。
僕も誰にも聞くことができず、教えてもらうこともできず、一人で考えて判断しなくてはならない時に恐怖や不安を感じることはある。
だが、どこに向かえばいいのかわからない時、いつも曾祖父のことを思い、藩祖を思い、万が一のことがあっても僕は死して向こうに行けるのだと想像し、恐れを薙ぎ払う。
何よりも今、戦っている人たちがいる。
歴史を守り魂のつながりを持たせる活動は、国防である。
戦いは戦争ばかりではない。
精神をやられないため、魂のつながりを分断されないため、我々は歴史の保存に努めなくてはならない。継承し続けなくてはならない。
小さなつながりで言えば、自分の母が幼い頃に作ってくれて大事にしていた形見のお守りを、外からやってきた他人が壊そうとしているのだ。
母との思い出が心の支えなのに、それを取り上げ「こっちの新しいやつをあげるから」とこれまでの歴史の流れを切ろうとしてくる存在があるのだ。
その見えない破壊から国民を守る戦いが、歴史を守り系譜を継承していく活動なのだ。
戦争の前の国防である。見えない戦いの方が先にやってくる。
そこに気づかないとどんどん侵略されていく。
自分がどこの誰なのかわからなくなってしまうと、「今流行の何か」を得ては安心感を持つ。
次々外から与えられたものに従い、「これを手に入れろ」と命じられたものを次々得ようとする。
「みんな」で従う。
「みんな」で競う。
そして自分がどこの誰なのかわからない。
不安になるから、安心したくて目先のものに縋りつく。目先の強い何かに。
その何かが自分の根源を叩き潰しているとも知らずに。
社会が変わり、どこに進んでいるのかわからなくなると、いざ自立しようとするときも目の前は真っ暗になる。
(;Θ;)こわいよー
内面的に孤独になり、強い不安に襲われる。
だが、歴史の系譜を辿れば魂を導いてくれる存在はいる。
(・Θ・)ここにいるよー
その向こうにもいる。
(・Θ・)こっちにもいるよー
点々と、歴史を辿ればそこにはつながりある存在がいる。
そして自分が存在している流れを知るのだ。
魂の自分がわかれば、存在している自分を前に進めることができる。
見えないつながりによって、導かれていくのだ。
幼い自分の手を今の自分が引いて、一人で歩いていくのだ。
心理的に親とつながらない人は、気に入る親でないから子供になろうとしない。
親を受け入れない人は、今と言う時間しか生きられないから、未来に進むこともできない。
過去を受け入れないということは、未来が真っ暗になり救いを求めるしかなくなるということなのだ。
