幸福になれない人は、幸福というものを勘違いしている。
幸福になる=お金や地位や名声を得る、人間を意のままに操る
このような内容であることは、ほぼ100%だ
そこにどんな理由をつけようが、人より多く得て、人を意のままに動かすこと
そして何を得たいのか?
「優越感」
これが、多くの人が欲しがっている「幸福感」のことだ。
それは別に不思議なことではない。
優越感を得て幸せになりたい人は、人間が嫌いだ。
嫌いな人たちの中にいて幸せになるのだから、自分だけが他人とは違うと確信できる時に得られる感情であることは何もおかしくない。
優越感を得たい人は、同時に嫉妬心が強い。
他人のものが羨ましい。他人のものが良く見える。
これは優越感に浸ることが「幸福のゴール」である人の特徴と言える。
このような人に対して、物の価値観について視野を広げるよう説いても意味はない。
なぜならば、「事実どうであるか」はどうでもよく、とにかく欲しいのは優越感なので、価値基準としては差別的なものが必要になっているからなのだ。
「実はあんなものはいいものではない」
そんなことは聞いてもしょうがないのだ。
あっちはいいもので、こっちは悪いもの。
あの人は楽をしていて、自分は苦労をしている。
このような卑屈なものの見方は、自分が優越する立場でありたかったのにそうではなかった時に、強い嫉妬心を持つ人が手放さない解釈だ。
それを捨てる気はない。
自由になりたいのではなく、とにかく「勝ちたい」のだ。
そして、現代ではこと多くの人がそのような価値観と解釈で生きている。
「うちの夫は外ヅラはいいのです。皆にいい人だと思われていますが、実際には全く違います。家の中では別人です。」
このような話を聞く。
しかし、この不満を漏らす奥さんは外ヅラが良く「外では他人に良く思われている夫」は得をしていると感じている。自分は損をしていて、夫は得をしている。そのように思っている。
そうなるともう、他の解釈はできなくなる。価値基準も変えられなくなる。
夫が憎い。腹立たしい。夫が嫌いであるということが、相手の方が得しているという価値観を生み出す。
自分が我慢して夫に従っているから、自分も認められたいという願望が強くなってくる。
夫に我慢していなければそこまで他人に認められたがらない人でも、家の中で自分は我慢して、夫は外でいい人扱いされているから段々腹立たしくなってくる。
このような場合、自分の方に「優越してちやほやされたい」という願望がある。
自分が欲しいものを得ている人がいるから、羨ましくなっているのだ。
真の幸福とは、「優越感」のことではない。
優越感を得たい人は、とにかく人をバカにしている。誰かを悪者にしている。いじめをしているし、陰で誰かを笑い者にしている。
そのような人は、陰口ひとつで既に幸せになれているのだ。
「人をバカにしている時の優越感」
それが、人間そのものが嫌いな人が人生において得たい幸せなのだ。
人間は欲しいものは既に得ている。
優越感は簡単に得ることができる。
誰かを罵ればいい。
ネットでもママ友同士でも、優越感が欲しいだけの人たちはよく群がって噂話をする。
「あの人もちょっとねえー」
そんな陰口に花を咲かせれば、瞬時に優越感を得られるものだから主婦の輪が盛り上がる。
噂話に興じている奥さんたちが、人の陰口を叩く時に非常に盛り上がって嬉しそうに話しているのを見たことがあるだろう。
あれが、彼女たちにとっての「幸福」なのだ。
嬉しそうにしているだろう。その顔こそ、彼女たちの自然な幸せの表情なのだ。
正に嬉々として、次々に人の話をする。
「そういえば私もさあ!」
思いついた他の人の欠点を挙げ連ねる。
そして場は一層盛り上がる。
そこで話している内容は、未確認であり事実無根のことばかりだ。
しかし、彼女たちの気分は非常に高揚しているし、言えば言うほど今自分を強く感じられる。
自分は優れているのだ、人より上なのだ、私は正しいのだ、あの人は私より下なのだ!
「正しいのは私、間違っているのは他人」
この優越感で、最高の幸せを得る。その瞬間こそ彼女たちが一生得続けたい「幸せ」なのだ。
そのために生きていると言っても過言ではないし、人生は苦労がつきものだがその中で「何を感じるか」はそれぞれが好きに選んでいるところなのだ。
神経症者は優越するために生きている。と、これは人間性心理においても言われてはいるが、ここでの優越は「優越感を感じるため」という意味だ。
現実に優れた能力を備えたり、人より多く得ることは非常に困難で誰もができることではない。
だからこそ、自分なりの幸せを追求した結果、その辺で普通に家庭を持っている奥さんたちにとっては「噂話に興じること」が人生の幸せになったのだ。
彼らなりの方法なので、それを否定するも肯定するもない。
優越感を得続けて生きるために、最も効率的なやり方ではある。
「いつかはきっと」と思い描く「理想の未来」は、実際に叶えたいと思い現実の努力をしている目的ではない。
その願望は、嫉妬心の現れなのだ。
あの人が羨ましい、あの人が妬ましい。
だから、「私もいつかは」という願望が生まれる。
詰まるところ「私より持っている人間がみな憎い」ということなのだ。
更に「私はいい人」という優越感は常に感じながら生きているので、そんなことを考えている人間であることは自覚しないのだ。
優越感に浸り続ける時間が、一時でも途切れてはいけない。
今、既に幸せなのだ。
自分が特別であり続けているからこそ、生きていける。
その幸せを手放さないためには、自分自身が「人の悪口に喜びを感じている醜い人間である」ということは認めてはならない、地獄に向かうための方法でしかないのだ。
今、既に幸せ。
それは全ての人が同じなのだ。
自分だけが世界の中心のように、ちやほやされる存在でありたい。
それは最初から守られるべきことなのだ。
最初から「持って生まれてくるもの」なのだ。
その幸せを手放さないように生きているのだ。
第一の人生の幸せと言えるだろう。
他に心底欲しいものがなく、まだまだ欲しいものを持っている人たちがいるから、この人生は続けなくてはならないのだ。
幸せになりたいと口では言っている人が、実はもう幸せだと自覚していることなどない。
自分が得ようとしている幸せは、安心できる仲間たちと笑顔で過ごすような感覚ではないのに、自覚していないのだ。
心から沸き起こる強い幸福感。
優越感ではなく、人を見下していなくても感じる感覚。
心の中に敵がいなくても得られるその感覚は、人からもらうものではない。
「人間の褒美を得た者は、神からの褒美を得られない」
これはキリスト教の教えのくだりのひとつだが、殆どの人は神からの褒美ではなく、人からの褒美を欲しがっているのだ。
神は人には与えられない、見えない力で見えないものを与えてくれる。
しかし、優越したがる人はどこまでも他人と比較して優劣を決めなくてはならないから、目に見える形あるものしか欲しがらないのだ。
まあ、殆どはそうであろう。
とにかく「優越感」が欲しいだけの人には、どんな事実を話したとしても意味はない。
勝ちたいのだから、自分よりいいものを持っている人たちがいなくてはならないのだ。
いつか「私はやっぱり特別な存在だったんだ!」と他人がちやほやしてくれることで、確信を得られる形にしたいのだ。
自分はこの世の特別な主人公ではないのでは?
そんな疑問があるのだ。
特別なはずなのに、まだ特別な存在として認められない。
自分が如何に特別かは、自分は良く知っているのに、誰もそれに気づかない。
だから待つのだ。
皆に気づいてもらえるために頑張っている中で、実際に社会的に目立つ存在になる場合もある。
しかし「神のような唯一無二の頂点」が現実の世界には存在しないので、いつまでも争いは続くのだ。
優越したいだけの人は、神のように見えない存在を信じていない。
人に見せないことにはなんの価値もない、と思えるのは、見せる部分だけ、見える部分だけが重要だからだ。
他人に自慢できないものに、意味がないからだ。
心の中でひとり感じることに、何の価値があるだろうか?
誰も知らないところで人知れず「自分だけ」で感動しても喜びを感じても、それで誰にわかってもらえるだろうか。
人に見せなくてはならない形のものではないならば、何の意味もないのだ。
「わー!すごい!」
そんな風に、驚いて尊敬してもらえない。
他人の羨望を獲得できないものには、意味がないのだ。後で自慢できることでもないならば、不要なのだ。
本人が望むとおりになっている。
それだけの話で、不幸な人など存在しないのだ。
最近になり、僕は加藤諦三先生の話をしている。
勿論最初から「困ったおじいちゃん」だと分かっていたし、彼は人の都合は一切無視して他人を黙らせて進んで行く人なので、少しずつ進んできた道の先が無くなり、生活にも支障は出た。
結局、知りたいこともわからなかった。ハーバードまで行って学んだ先生だから、聞けばわかるだろうかと思っていたことがあったのだが、とかく彼のような人たちは人の話を聞かない。
自分が知っていることだけで、完璧に見えるような話ができる枠から出ない。
最悪な言い方をすれば、ペテン師。
あれだけ教えていて実は自分が自己実現をしているどころか、言い張っているだけで本当は見えないものがわからないなど、誰が思うだろうか?
目の前で見た人は知っていることだが、いじめが目の前で起きても完全に停止したかのように無視して、何事もなかったかのようにスルーしていじめられた人を見捨てていることなど、まず想像がつかないだろう。
現場を目撃した他の人たちは、どう思ったのだろうか?
僕はそのあとでいじめていた側に実は貢物をもらっていて、それについて上機嫌な様子で受け答えしていたのをエレベーターの中で見ていた。
彼の覚えたことは正しいので言っていることは正しいが、彼の理解が正しくないのでやっていることは間違っている。
彼は「正しいことを言っている人」が良い人だと信じ込んでいるが、それこそ彼の父であり、祖父なのだ。
半世紀父親を叩いてきた不幸の人が、なぜかここへきて祖父を讃える本を出す。
祖父が議員だから選挙に受かるためだけに、家族総出で外ヅラを良くしていなくてはならなかった、という理由で、外に向かって媚びる人間を只管毛嫌いしていたという彼の父。
そしてその父が嫌いだった息子は、父が外ヅラを良くすることばかり考えていたことを批判しながら、外ヅラでしかなかったとわかっているはずの祖父を讃え、自分のしていることは全て「親のせいで神経症になってしまったせい」という憐れみを乞う理由で、うやむやにしている。
有料会員向けに、結構前に少し話したが、あれを理解した人はいるだろうか?
「親子3代が区切りで、そこから出るかどうかが続く家かどうかの分かれ道なのだ」と。
もう加藤家は続かないのだなと、先に判断はできた。ここからは大きな力に吸い込まれる衰退の道になるだろう。
または、息子さんからまた新たな命が始まっているだろう。
そのように未来が続かない家とは、離れた方がいいのだ。
これは、実際に千年魂を受け継いできた一族なので、間違いなくわかることだ。
説明はしないがなんとなくではなく、根拠はあるのだ。
あれから七年は経つのだろうか?
誰にも言えず、一人で悩みながら元々進んでいた道をどう元に戻せばいいのかと思っていた。
加藤諦三先生は、自分の命令に従わない人間には全く関心がない。
彼を讃え、彼に賛同し、「同じことを言い、同じことをする人」でなくてはならないのだ。
勿論、誰にも言わないのだから知っている人はいない。
しばらく前に友人に話したら、ものすごく驚いていた。
自分の家のことさえ、四十過ぎまで誰にも話したことはなく、二十年以上の付き合いの友人が驚いて言葉もなかったくらいだ。その程度は黙っていられるし、そんなことは沢山ある。
しかし、間違った行動を共にしていると、僕も業が深まる。なにせ彼は救済を用意していない。
僕自身は「教授、一緒に謝りましょう。皆に謝って、このやり方では行き詰まると分かってもらえれば、自分たちで道も探せます。」という姿勢で彼に気づいてほしがっていた。
これは間違いないことだが、先に理屈で知ってしまった人は、二度とそれを体験することはできない。
つまり本物になれない。
知った気になって、できたつもりになるのが落ちなのだ。
それは昔からわかっている、教育の作法なのだ。
だから決して、言葉で正しいことを教えてはならないのだ。
「行動で示すこと」
それしかないのだ。
故郷に戻った時だけ、話した。
「故郷に授かった力なので、恩返しに参る」と言った時にやってきた人にだけ話している。
そのように、言葉に出してなんでも言わずに生きるものだ。
故郷の人は、「僕が守らなくては」と思っている。だから故郷の人たち、つまり石川富山の人たちが来たときは無条件で話す。
それは僕の家そのものがその地を大昔から守っていて、彼らが知らない彼らの昔を知っているからだ。
知らない人たちという感覚が僕にはないからだ。
しかし、他では違う。
他の地の道徳性を僕は知らない。
僕を信頼してくれるかどうかで判断するしかない。
僕に媚びたり、ご機嫌を取るようならば僕は信頼されていない。だから話すことはできないし、話す必要がない。
そのやり方自体、裏表ある世界に必要なものなのだから、僕が教えることは何もない。
優越感だけで生きていたい人たちの邪魔をする気はないのだ。
僕自身は、加藤諦三先生自体に幻滅したことなどない。
マジか!じいちゃん!大丈夫か!
そんな気持ちだった。そもそも、僕は老人という存在が子供の頃から好きだ。祖母に育てられたからだろう。
老人は労わらなくてはならないという感覚がある。人より恐らく強く持っている。
だから、彼が死ぬまで待った方がいいかなと思っていたが、そうなると彼が正しいことにし続けなくてはならないし、それでは僕がこの仕事をやめてしまうしかない。
そして彼の元に集う人たちは外ヅラの彼を神格化したいだけであって、裏でいきなりキレて怒鳴りつける人であることなど、聞きたくも知りたくもない。
それでは自分の頭の中に作ったイメージが壊れてしまうから。
神経症者は、自分の気分の維持のために生きているのであって、現実がどうであってもどうでもいいのだと僕自身もきちんと正しい理解ができた。
事実は知らない。たぶんそう。きっとそう。そう思える。
思える、だけの根拠にあれこれ理由をつけても、それは思えただけ。
だが、彼らにとっては事実と思えただけのことが同価値なのだ。
そうとしか「自分が思えない理由」をどれだけ挙げられるかで、正しいか否かが決まる。
つまり、超いい加減、超適当。
そんなことのために僕自身が現実に努力して解決しようとしていたことが、バカバカしくなるくらいだ。
殆どの人にとっては、事実なんてどうでもいいのだ。
間違いだったとわかっても、大したことではないのだ。
「私が正しい人であること」が大事だからだ。
また新しい何かに同化していく。それだけなのだ。
誰にも知られることなく、心の中で「自分は特別」という気分を味わい続けたいだけなのだ。
彼らが求めるのは、自分たちと同類であり、かつ自分たちより成功している誰か、だ。
いつかはきっと自分が人より上に立って…という夢を持ち続けたい人は、学術世界だけでなく、有名な人、地位のある人を「正しい立派な人」にしなくてはならない。
目指すところがなくては、優越するという夢が見られない。
神の教えの方から考えると「目立ったところに、正しい人はいない」のだが、それでは自分の夢が叶わなくなる。
夢が叶うと思い続けるためには、現実の状況は無視するしかない。
自分の夢が叶う世界だという認識をし続けるために、事実起きていることは無視する。
それしかない。
だから、たとえば高級なもの、有名なものにどのような反応をするか、価値観としてどのようなものを持ち生きているか、そこを見分けて本人のニーズに合わせた「世界」を用意してあげるしかない。
僕自身は、そんなもの要らない。
僕の場合は先に自己実現してから彼に会っているから、とにかく最初から「あれ?!彼は違うの?!」という驚きしかなかった。
彼自身も知らないのだ。彼が学術として知った時に想像可能だった世界を、遥かに凌駕する世界があるとその時に思えたわけがないのだから。
しかし、彼は財産も築き、社会的にも立派になり、元々坊ではあるが色々と社会から欲しいものをもらえた。賛辞される立場にもなったし、正しい人として崇められた。
生きてほしかったものは、十二分に得ただろう。
僕は彼のように言葉なく察して、自分たちだけ優越するために生きる世界にはいけない。
なぜならば、彼は貴族の子で、僕は武士の子だからだ。
しかし、多くの人は彼のようになりたいのであって、僕とは関係ない。
僕にとっては「自分は関係ない世界」でしかなかった。
戦時中を体験した老人たちにとっては、社会に認められることが正しいことだ。
人からの褒美しか考えなくていいと信じて生きてきた、最も不幸な人たちだ。
世間に認められる立派な人間になるために生きることは、正しいことだと教わってきた国の道具に他ならない。
金持ちになって偉くなって、そうなれば正しいのだ。
権威に認められることが正しいことであって、権威は間違わないのだ。
権威こそ彼らの神。
「私は神だ」と言っている人間がいるから、その人間が権威ある人だから、権威に従えば神に従うも同じことで、間違いはないのだ。
彼らは「これが正しいのだ、こうしなくてはならないのだ」と教えると、言葉で聞いた通りに人間が動くと思っている。
言葉で言えば、そうなるのだと信じている。
実はそうならない。
そうならないのだ。
言うから、なれないのだ。
自分は欲しかったものを十二分に得て、それから満足したところで他人にも分けてやるかという精神の人たちは優しい。
だが、それはブッダとは真逆の方向に進む人たちであって、彼らはたまたま得ているからそうなれているのであって、得られなかったら、もし底辺の庶民であったら、そんなに温厚な態度ではいられないのだ。
もらうだけもらって、後から批判。
武士にはできない生き方だ。
「あなたたちも私のようにもらえばいいよ」
これを次々やる奴が現れて、今これだけの差が開いてしまったのだから。
私は十分に財を得たからいいけど、あの人たちは得ていない。可哀想。
本当にそう思うならば、それを使って人を救えばいい。それだけだ。
安全な場所からならばいくらでも強気に発言できるだろう。
そして強気な発言をする人たちを、弱気になっている人たちは崇拝する。
戦争に行くときの流れだ。
結局、みな幸せを捨てた。
自然に感じられていた喜びを捨て、優越する何かを得る方向に進んだ。
ここを天国として考えているからだ。
ここは天国。
神のように正しく生きる清い心の人が、目立つところで偉くなりお金持ちになっている。
ということにしたいのだ。
自分のなりたい姿になっている人が、本人たちにとっての神だ。
気分。要は気分なのだ。
いきなり特別扱いされたいのも、なんでもない人として一から始められないのも、何もかも「自分が特別な存在であるという気分」をぶち壊しにしたくないだけなのだ。
そこには、本人しか知らない幸せがある。
それは全ての人にとって同じだ。
幸せなど本人しか感じない。
本人しか感じられない幸せがあり、どんな幸せを得たかは本人次第だ。
人間はなにひとつ喜びがないならば生きていけない。
自分に可能な幸せを得て、それを幸福感だと思って生きているだけなのだ。
先ほど、ペテン師、という呼び方をしたが、それは殆どの人にとっては間違いだ。
それは僕が思い込んでいた「正しい教えを説く人」を基準にした場合の話でしかないし、殆どの人にとっては自分が可哀想だという理由づけをしてくれる人は神なのだ。
最終的には、信じた人にも救いはある。
親を超える立派な祖父母を讃えればいいのだ。
それで最後まで「自分は正しい人間だった、勝った!」と満足して死んで行けるのだろう。
間違っているのは他人で、悪人も他人で、自分は正しく、良い人間だった。
という確認をする人生を送っているのだなと、納得した。
ハスの花から生まれてくることは、まずないのだろう。
残念ながら、僕はもう敵がいない。
全ての人が自分の妄想で敵を作っているだけで、知らないまま知った気になって生きているから争いが堪えないだけなのだ。
と、瞬時に気づいた三十代のある時から、「神は世を愛された」と心から思えるようになった。
この穏やかな心は、もう二度と侵略されることはない。
僕は、それを「幸福」と呼んでいる。
そして僕は自力でそこにたどり着いたわけではなく、かつて生きた「ゴータマさん」の力によって、幼い頃から導いてもらっただけなのだ。
僕自身には、最初からなんにもないのだ。