人間は体験したことしか、心から確信することはできない。
目の前にいる人がどんな人か、それは体験することでわかる。
説明でわかる現実はない。
相手がどういう人なのかは、体験でわかる。
説明はいいので、体験だけ考えてみよう。
自分自身はその相手と一緒にいて、どんな体験をしたか。
体感した感覚だけ思い出してみよう。
その体感に沿った付き合いになっていただろうか?
僕は体感では「怖い」と思う女子に、なぜか恋愛関係を求められることが多かった。
相手は僕が相手を好きだと勘違いしているので、向こうの体感は「怖い」ではないのだろう。
序盤から「怖い」と思って警戒したいような人ほど、なぜか好かれていると勘違いする人が多かった。
「好かれている」と勘違いすると、相手は途端に怖い人になった。
「どうしたら許してもえるだろうか」と思うので、気を重くしながら相手が一通り満足してくれるようにすることが殆どだった。
そもそも、大人になっても「突然好きになる相手」がいると思っている人がいる。
僕は突然好きになったと言う人に警戒する。
一目惚れは、自分自身の願望や理想の投影である。
現実に体感を重ねることでしか、人は安心することもないし好意を高めることもない。
「いきなり降ってわいたような幸せ」が欲しい人がいるのだ。
その気持ちはわかるが、現実にそんなものがあると思える方が不思議だ。
現実だ。
これまでの経験から考えても、自分自身を考えても、そんな夢物語が現実に起きるわけがない。
と思えるのが、現実を生きる人である。
目の前の人とのやり取りで実際に体験したことが全てだ。
現実を生きる、本人に関心を持つとは、そういうことである。
言っている情報ではなく、現実にそこに実在する相手にだけ真実がある。
そこに本物がいるのだから、情報など聞かなくてもわかる。
様子。感情。表現するときの声色や態度など。
今そこにいる相手を存分に観察し、共にいる時間を体感する。
「この人」という人を体感で知るのである。
その方が、相手のことはよくわかる。
どんな感覚を発しているか。どんな感情を内面から起こしているか。
「私をわかって」
と求められたら、その人が一体どんな人格なのか、どんな心の中なのか、その全てで知ってあげれば良い。
言っていることから想像して目の前の人を無視したら、相手が本当は何を伝えているのかわからなくなる。
とはいえ、自分を無視して言っていることからそこにいない自分を想像して作って欲しい人もいる。
今目の前にいるのに、説明の方を現実だと思って欲しいのだ。
そこにいていない人。そこに実在していると思える人は、想像を売り込むためにいる。
情報が本当であるかのように見せるパフォーマンスをする。
きちんと相手に関心を持っていれば、それすらよくわかる。
必死で売り込んでいる姿はそのままにしか見えない。
どんなに可哀想な話をして、弱弱しく見せる人も、般若のようになることがある。
そうなればもう安心だと思っていい。
「こんな人がいて怖い」
という相手に対して、「この般若」がいるのだから、大丈夫。
この強さがあれば、怖いものなんかない、とわかる。
「言いたいことを我慢している」も別に相手が怖いからではないとわかる。
言いたければ結局言える人なのだから、心配しなくて安心だ、とわかる。
見たところ、般若一族に「恥ずかしい」という感覚はない。傷つくという感覚もない。
怒りしかない。怒りと恨みに生きているから般若なのだ。
普通ならば、どの面下げて般若の後に笑って登場できるのか不思議なところだ。
素っ裸を近所のよく知らない人たちに見られた以上の恥ずかしさだと思う。
見た方からすれば、そのくらいの驚きだ。
本人はずっとそれだから、「これもまた私の可愛い一面」くらいなのだなとわかる。気にしていない。
どう思われたのか全く気にせず、相手が黙ってくれてさえいればなんともないのが図太さなんだなと思う。
それだけの強さがあれば、誰も怖くない。
男の助けは必要ない。恋愛はなんの助けにもならない。恋愛に救いを求める人は、結婚で失敗する。
恋愛は恋愛であって、それ以上でも以下でも救いでも墓場でもなんでもない。
そして女はそんなに弱くはなく、恋愛を利用して窮地を脱しようと思えるほどタフだ。
バイタリティと言える。
付き合い始めが「こんなひどい人がいたから」ならばもう心配ない。強さは確認済み。
「こんな困った状況」なら脱したならおしまい。
これに自信がない。なら、そこを手伝ってやればおしまい。
とにかく、好意があって始まった付き合いでないならば、相手が持ってくる問題を解決してやればいい。
互いに好き合って始まっていないならば、恋愛の付き合いではない。
恋愛を利用した、「困ったことを解決してほしいだけの人」である。
好きになってもらわなくても、問題が解決できればミッション成功と考えてよい。
自分から好きになったわけではないのだから、関係が終わっても嫌われても別に傷ついたり落ち込んだりはしない。
相手も傷ついたり落ち込んだりはしない。別に好きで一緒にいたわけではないから。
自信の無さや問題をなんとかしてくれる人が欲しかっただけ。
また一から問題を作り始めるが、とりあえずできれば相手に悪者だと思ってもらえると良い。
自分から離れたい時は、相手に「悪い人」扱いされれば成功だ。
できるだけどうしようもない人だと思われた方がいい。
被害者になるということは、相手が離れなくてはならないということである。
被害者が加害者に良い人になってもらって、付き合いを続けましょう。なんて話はない。
無関係な人が被害者を助け、加害者は二度と接しない、が正しい。
当たり前に他人はそう思う。
周りから「やめた方がいい」と言われるくらいに相手がどこかで悪口を言ってくれれば、人に良く思われたい人は被害者になるのは大好きなので、喜んで被害者になる。
親子関係で悪者にされて、謝って関係を続けてきた人がいる。
だが、親の真似を他人相手にやれば、当然関係は終わりである。
それは親子だから成り立ったのであって、少なくとも相手は自分がいなくては生きていけない立場にある「自分が保護の義務を負う誰か」でなくてはならない。
どんなに面倒を見ても、他人相手に義務は発生しない。
相手が自立していれば成り立たないし、自立されたらおしまいである。
自分の保護下にある相手にしか、通用しないのである。
だからこそ、「支配と服従」と呼ばれる。
悪者にされる恐怖心などは、自尊心が高く「別に嫌われてもいいから」と思える相手には通用しない。自尊心が低い、他人の肯定を求める相手にしか通用しないのだ。
そして恋愛したい人は、恋愛相手にそんなことをするわけがない。
頑張って親の真似っこをして成功させたくとも、自分で子供を作ってやるしかないのだ。
親の真似で成功するならば、相手は我が子しかいない。
他人相手ならば全部破綻でおしまいである。
それは「最悪な親子関係」を作る方法でしかないので、他の関係は全て犠牲にする。
親が外面の良い人ならば、適当な関係はうまくいくだろう。機能社会の関係さえあれば、生きてはいける。
生存していけるならば、贅沢は言えない。
人は生きるために生きているのであって、それ以上のことは欲しければ努力して得るだけのものだ。
被害者になれば、加害者は遠ざかるしかない。
だから遠ざかりたい相手がいたら、自ら加害者の立場になってもいい。
説明だけを信じて欲しい人は、説明するだけで悪者にしてくれる。
これが超、楽ちんと言えるところだ。
逆に、良い関係を作った彼女は、僕があれこれ適当に悪く思われそうなことを言っても信じなかった。
「嘘でしょ、なんでそんなこと言うの?私のこと遠ざけたいの?」
あっと言う間に見抜いてくるので、嘘がつけない。
「あなたがそんなことするなんて思えない。」
現実に目の前にいる僕を「真実」として彼女は考える。
自分が確認した事実が全てであり、情報には嘘があるとわかっている。区別している。
ちなみに、これは「本当に好き合って付き合った相手」の話である。
こうして何かで読んだ話を、相手との関係性を無視して「真似る」人がいる。
例えば、本当に愛し合っていた彼女が「私たちは前世で夫婦だったんだわ」と言ったから、そこに意味がある。
本当に愛し合っている相手と、そうでない相手が同じことを言っても意味は同じにならない。
今生で縁がある人は前世でも縁があると言う。
今生で結婚した相手など、大切な関係になれた相手のことだ。
一方的な関係の話ではない。
今生で結婚している人を見ると、「この人の運命の人なのだな」と僕は思う。
その問題がこの人を成長させるのだ。もめている人ほど羨ましく思える。
そこまでもめ続ける相手に出会ったことが無い。余程の運命なのだ。
とにかく、自分が「良い子」になりたい人は離れたい人とも離れられない。
「悪者になりたくない」からだ。
離れる時は「悪者になる」から離れられるのだ。
相手を心から愛していないのに、なんとかして自分は悪くないと認めて欲しい人がいる。
心から愛していない人と、仲良くする努力など普通はしないものだ。
自己肯定できない人はよくこれをやる。
相手があれが許せないこれが許せない、と言ってくれるならば、もう万々歳だと言える。
だが、相手を好きでもないのに、自分は良い人だと思われたい。矛盾している。
好きな人なら良い人だと思われた方がいい。
嫌いな人に良い人だと認めさせたら、離れられなくなる。
自分が被害者になることで相手を拒否していると示せる。
ところが、「嫌なのだ」と被害の立場を訴えると「じゃあどうしたらいい?」と嫌がっているのに「良い人」になりたがる人がいる。
どうしたらではなく、それが結論だとわからない。
そして自分を嫌がる人など好きになる人はいない。つまり好きではない。
誰だって自分が一番だ。その自分を嫌がる相手を好きになるわけがない。
最も大切な人を「嫌だ」と言ってくる人など、好きになれない。
自然が生む心理はうまく行くもので、自分を最高に良いと認めてくれる人は、自分にとっても最高に素敵だと思える人なのだ。
自然な自分で生きていると、当たり前にそうなる。
自分を嫌いな人はそうならないようだ。
素敵と思える人なのに、相手から見たら自分が素敵ではない。
素敵だと思ってくれる人は、自分から見て素敵ではない。
僕には変な話だなと思える。
そんな状況の人に朗報である。
自分が悪者になればいい。
実際に悪いことをするのは気が引けるし、何よりも時間がかかる。
面倒な話だし、自分の徳も落とす。
だが、説明だけなら簡単だ。相手が「自分の人格に沿った悪い妄想」を勝手に作ってくれる。
どんな妄想を作るかはわからない。
昔の僕の彼女のように、普段の行いがいい人はそうそう悪いことを想像などしてくれない。
相手の普段の行いの悪さにかかっているが、普段の行いが悪い人ならばこっちが驚くほど悪い妄想をしてくれる。
味方を作って悪者にしてきてくれたら、もう終わりだ。
こっちが努力して何かしなくては、声をかけたり考えたり、何か努力しなければ付き合いが続かない状態になる。
被害者が加害者に「あなたは悪い人だけど好きだから許す」なんて言い出すならば、周りから見てもおかしい。
だったらもっともっと悪い人と一緒にいればいい。
どんなに嫌な人でも好きなところのひとつくらいはあるものである。
だが、本当に好きな人は自分の中で悪者ではない人である。
「何かをどうにかしないと付き合えない状態」
だと自ら言えば、それは相手と付き合いたくない時である。
向こうから言われれば、自分と付き合いたくない時である。
変わらなくては付き合いが続かない状態になれば、良いのだ。
逆転の発想をすればいい。
自我のないナルシストは、他人の反応でしか自分を確認できない。
他人が悪者にしてきたら、自分が悪くなると思う。
自分の自分に対する評価が他人と連動してしまっている。
だから、自分の自分に対する評価を「決めてくれている依存相手」にどうしても「良い人」だと思われ続けなくてはならない。
それでは、相手を嫌いになっても離れられない。
「自分で自分を見たくない」「確認したくない」
自分を自覚するのが怖い人は、「嫌いな人といつまでも関係を続ける」という多大なリスクを背負って生きている。
理想的な自分だと思い込むためには、どうしてもそれが「必要」なのだ。
批難してもされても、互いに相手に認められようとして絡んでくる関係にならなくては、ナルシシズムの世界を続けられない。
「自分は悪くないのに」と思い込んで「なのにどうしてあの人は…」といつまでも結論を出さずに生き続けるために背負う、超絶ハイリスクである。
嫌いな人にも好かれたい。
おかしな話である。
それではどちらも幸せになれない。
好きじゃないのに、好かれたいから「あなたが好きです」と言い続ける人もいる。
そこまでして全ての人の良い人になっても意味はない。
意味がないというか、その付き合いさえなければ、もっといい人に出会えただろうにね、と思える。
そういう寿命の無駄遣いをカットするためにも、自分が悪者になった方がいい。
そして「あなたは悪いことをしているけど、それを直してくれるならば」みたいな状態になってくれたら、やっと解放だと思って良い。
自分から好きで好きで「何一つ不満なんかない」と言える相手に、好かれていればいいのである。
押して駄目なら引いてみろと言う。
悪いけど無理、と言って駄目な相手なら、「悪いけど無理」と言わせればいい。
いい人になりたくて仕方ない人は、相手は誰でもいいから自分を良い人にできる比較対象と結婚する。
だから離婚するときも相手と比較して良い人になって別れる。
親子関係の不満から、親との比較対象と結婚。
結婚関係の不満から、比較対象の異性を見つけて離婚。
こういう繰り返しをする人は多くいる。
多くいるが、それはいい。
別に自分が結婚するわけではない。
本当に良い関係では、相手を悪者になどしないし、自分も被害者にならない。
「嫌だな」と思っても、相手を悪者にしない。
自分が勝手に嫌な気分になっただけなのだから。
嫌な気分にさせようとしてやったわけではない、と信じている。
嫌な気分にさせようとしてやったわけではないだろうけど、と言いながら自分が被害者になって「対立」を生みたいならば、単に相手が嫌いなだけだ。
良い付き合いに、相手が被害を訴えてきたから謝るなど「一度たりともない」のが当然なのだ。
謝るのは、本人の自由である。
対立したい人は、「自分が被害を説明して相手に謝らせる」というただのいじめをする。
いじめだが、勿論こんなことをして「仲良くしたい」なんてあり得るわけがない。
これは嫌いな人にすることだ。
嫌いじゃない、と言い張る人は、相手のことを考えていない。
つまり好きではない。
いじめをしているといい気分になれるから、文句を言ったらすぐに罪悪感を持ってくれそうな優しい人が好きなのだ。
いじめ大好き、癒される、という人がいる。
好きな人相手に被害者になったら、相手がいなくなると不安になるのが当然だ。
「謝ってくれればいいの!」なんて思えない。
相手を加害者にしたのは自分である。
自分から離れていくのが当たり前の反応だ。
本当に相手の心の中に、自ら反省しなくてはならない部分があればともかく、そうでないなら「嫌われた」と思うのが「まともな反応」だ。
被害者がいるからには、危害を加えようとした加害者か必要だ。
加害者がいないのに被害者になろうとするのは、被害者を装ういじめである。
僕は滅多にこんなわかりにくいいじめをする人に出会わない。
30を過ぎて初めて「恋人をいじめる人」とわけのわからない付き合いをした。
自分の性格と普段の仲間に近い人にしか出会わないので、恐らく近づくことがなかったのだろう。
僕は体験もしたことがない関係が、この世には存在するようである。
毒親の子は本人も毒親である。
常に何かと何かを比較しないと、「個」という存在を認識できない。
あっちよりこっち、という比較でしか人を好きにもなれない。
つまりその人の親と同じだ。
あっちと比較してこの子が嫌になる。
比較する親の子は、やはり比較する。
他人との比較をしないと、自分がなんなのかもわからない。
自分自身で考え始めるまでは、無理だ。
本人が意志を持って初めて単独の存在として成り立てるのだ。
誰かを本当に好きになれるのは、比較せず、他人に確認してもらわず「私はこうだ」とハッキリ自覚して表現できるようになってからである。
他人などどちらにせよ、人生の一本道で通り過ぎていくだけの存在である。
走りながら出会う、通り過ぎ様にほんの少し見るだけの存在が他人だ。
共に走る仲間と共に走る時間に、「こんなこともあるのか」と人生の感動を味わうのだ。
誰がいようといまいと、時間は進む。
僕たちは死に向かう一本道を進んでいるだけだ。
残り少ないこの一本道、これからの残りをどう生きるかは自分が決めることだ。
人生は十年かけても、きちんと考えずに生きていれば大したこともしていないものだ。
残りの人生で「何を体感して死ねるか」は自分の生き方次第なのだ。
今までの体感が、人生の良さである。
自分の今まで選んだ道の良さである。
その道が嫌なら、生き方を選び直した方がいい。
体感から記憶は想起され、感覚を呼び起こすから辛い時も進んでいけるのだから。
「あの時」の感覚が蘇ることで、死に損なった魂も命ある限り蘇るのだ。
一日一日、自分の行いにより得た体感が、自分の作る財産である。
未来の糧となる財産を残して欲しい。