「自分を受け入れてくれる人」とはどんな人か?
同じ言葉を使っても、内容は人により違います。
理由は「人の違いによって、何を受け入れてもらいたいのかが違うから」です。
ちなみに、僕が言う「自分を受け入れてくれる人」と、加藤諦三先生が言う「自分を受け入れてくれる人」は違う人のことです。
僕が言う自分を受け入れてくれる人は
家族だから、友達だから、恋人だから
このような立場を理由に自分を悪者にしない、排除しない人のことです。
加藤諦三先生が言う自分を受け入れてくれる人は
「自分が正しい側であると認めてくれる、社会的な理想の尺度で人を分ける人」
のことです。
この違いがあるから、相容れない場合はどうしても相容れないのです。
親を恨んで生きている人は既に生きる目的が子供の頃とは違うので、「当初は欲しかった人」は要らないのです。
必要な人は、自分の側を正しいとしてくれる人です。
「悪者」をやっつけるために生きているのですから、自分が上で自分の敵が下という見方をしてくれる戦いにおいての自軍参加者のみが仲間になってくれる人となるのです。
子供には子供の理由があるのだから、と思って子供を悪者扱いしない人は、既に不要なのです。
「理由があっても許されない」と自分の気に入る気に入らないで判断する、仲間だからといって安心していられない、排除が起きる世界に生きる人が望ましいのです。必要なのです。
自分の目的が他人の排除なのですから、当然です。
そのように、生きる目的があり、ゴールに向かってひた走るものですから、それぞれが必要としている「自分を受け入れてくれる人」は内容が違うのです。
「こんな風になったらいいな」という願望の中身が「皆で仲良くできる家族」なんてものである人は、その未来に進みません。
現にそれができる道を進んでいる人は、それは現実に叶うことなので願望になっていないです。
そのような夢を思い描いている人は、現にそうならない道を進んでいるから願望として夢見ているのです。
「だったらいいなー」は、起き得ない道を進んでいるから生まれているものです。
ありのままの自分を受け入れて欲しかったのは、遥か昔の話。
今は装っている自分を受け入れてくれる人と、敵を倒すための味方が必要なのです。
争いの中に生きる人に、平和に生きる人は必要ありません。
悪か正義かの物差しで人を排除する人だけが必要なのです。
単に「自分側についてくれる人」が必要だと言えますね。
人を恨んでいる時は、仲間の立場であってもどうしても相手が悪者にしか思えないものです。
相手の理由も考えて悪者にしないように、味方の目でその人を見るならば、もう敵でしかないのです。
私の敵を共通の敵とし、私の戦いをより大きな争いにしていくことが目的なのですから、敵を一掃し正しい人たちだけが生き残る日まで、争いは終わらないのです。
勿論、親を恨んだ人は過去には親と仲良くしたいと思っていたわけですが、既に恨んで親を叩きのめすことが目的となっていますから、後は自分の味方を見つけて、本性を出して親を攻撃する際には
「私は本当はあなたの子ではない」
という現実を突きつけて絶望のどん底に叩き落すだけなのです。
親も度肝を抜かれて怯えるのですが、復讐が目的の子供にとっては正に「ざまあみろ」でしかありません。
そのために隠して隠して、いい子を装って騙し続けてきたのですから。
入れ物は子供のものですから、意識の存在が実は子供でなくなっていても、無関心な親にはわからないのです。
心が触れ合うことなどなく、素直に自分を出すこともなく、形だけそこにいた子供だったのです。
復讐なのですから相手を苦しめなくては意味がありません。
今までの自分の人生は無駄だった、と思い知り、親を絶望させるくらいでなくては意味がないのです。
親は今まで我慢して見せなかった子供の本当の姿を見て、すっかり怯えて子供を恐れるようになるでしょう。
恨んだ時、仕返ししようと決めた時から、親を支配することが目的となっているのですから、
「仲良くなりたかったから」
は過ぎた話であり、恨みに思うこととなった原因のひとつでしかなく、復讐のゴールは自分が恐怖で支配する家族なのです。
それでこそ気が晴れるというものです。子供は怒っているわけですから、怖がってくれないと意味がないです。
怒りと憎しみで親さえ恐怖させる。
大人になればそのくらいのことはできます。
僕はどうやら殆どの方には不要なことを教えていますが、僕の目的は「家族が仲良くすること」でしたので、一応母とはそれなりの終わりを迎えました。
僕は誰にも敵意を持つことなく、人を悪者にして排除しないことを目的として生きてきました。
我を捨てて相手の身になることで、敵対する気持ちを生まないよう進んできたので、今も誰も恨んではいません。
これもまた僕自身が「勝手に決めたこと」でしかなく、僕が教えることが必要な人のために参考になれば幸いに思います。
かつてはどうしようもない争いを繰り広げた親子でも、最後はそれなりに平和になって終わることもできます。
終わりよければすべてよし、も、相手を恨まなければ平和な終わりになりますが、そうでない場合はまた「たどり着きたいゴール」は違うのです。
欲しいものがそれぞれ違うのだから、誰が正しいというわけではありません。
復讐に向かう人は、親を叩きのめし鬱憤を晴らすために生きています。
許せないことがあるからです。
動機が恨みなのに笑顔溢れる平和なゴールがあるわけないですが、それぞれが決めた目的に向かって生きていくだけなのです。
理想的な話にうっとりするような人は、とにかく「現実には正反対の道を進んでいる」のが当然で、人間は当り前に起きるであろうことにうっとりもしないし、現実に起きることならばこの先を想像して意欲を燃やしたり、思い出して感動でもするでしょう。
現実の未来が破滅的になるとわかっている人ほど、それを見ないように理想の話を聞きたがるししたがります。
そのため、救いを求めて宗教に走ったり、独りよがりな「優しい人集団」になったりするのです。
しかし、心の中まで変わるわけではないですから、常に人を罵り恨むことは変わりないのです。
自分を受け入れてくれる人は、自分の敵を共通の敵としてくれる人。
それが今の日本の多くの人だと思います。
戦いの道を進んでいる人にとっては、「自分の仲間になる=共闘者」であることは確実なのですから、自分自身の生き方によってそれぞれに必要な人は全く違うのです。
誰が正しいという問題ではなく、個々に違う経験、考え方があり、違う目的に向かって生きているのですからそれは当り前のことなのです。
他人と同じ人生を生きているわけではないのですから、元々自分が生きる上で必要としている人に出会えば共に生きていくことになるでしょうし、元々生きる世界が違う人ならば不要になるので離れて行くのです。
家族は家族であるだけで許されてはいけない。
親なんだから、子供なんだから、
それぞれの立場における「正しいこと」をしなくてはならない。
この概念を受け継ぎ生きている人は非常に多いのです。
そのような人達は自分も当然努力していますから、何が無くても理想的でなくても家族だからで許されるなんてことは到底認めがたい話でしかないのです。
戦うためには比較が必要です。
自分の敵と戦うためにも、自分側を正しいと見做す「価値感」で元々生きている人が必要なのです。
僕の仲間たちとの世界では、決まったことを言わねばならない、なんてことはありませんでした。
しかしそれは多くの戦いを選んだ人にとっては、「非常識」でしかなく、僕たちはやはり僕たちで、同じような概念の中で生きている者同士しか仲間になれないのです。
誰かが正しいのではなく、
本人の人生の目的なのだから、どんな道を選ぶも自由
と言えるでしょう。
人は違うのだ、と知れば、同じ言葉を使って無駄な争いをすることも減るでしょう。
一度生きたら取り返しがつきませんが、それぞれが自由に選んで生きているからこそ、どんな人生も素晴らしいと僕は思っています。