不幸になっている人々が不幸になっている最大の理由は、これだと僕は思う。
真剣にならない。
これ以上に確実に不幸になる理由はないと僕は思う。
きちんと考えるでもなく、きちんと聞くでもなく、常に真剣にならない。
現実なのに。
人の話を鵜呑みにして言うなりになっている人も、真剣にならない。
信じるとは、言われたことをただ鵜呑みにして思い込むことではない。
真剣に聞いて真剣に考える。頭の中に明確なイメージを作りながら聞き、考え、そして覚悟をして信じるのだ。
どんな人でも、真剣になればできることだ。
しかし、不幸な人はどこまでいっても真剣にならない。
カッコつけて気分だけ味わいたがる。
事実、自分が言い張る状況なのかもわからないどころか、周りでは自分が悪者にしている人が違う違うと話を聞いて欲しがっている。
しかし、状況を確認する前にもう悪を成敗しているヒーロー気取りの態度で、一人よがりな気分に浸っている。
気分を味わいたい。
それだけのために、現実の中にあると仮定した世界を作ろうとする。
現実なのに事実確認が大事だと思わない。
事実確認をするために「他人にそのまま聞く」のだ。自分のための道具ではないのに、他人に言葉で聞いて言葉で確認しようとする。
「知りたいから聞く」
他人には自分が知りたくなったことを教える義務などない。
しかし、相手のプライバシーにかかわることを知りたくなったら、相手にそのまま聞くのだ。
そんなことを教える義務はないのに。
自分が知りたいから教えろ。こんな乱暴な話はない。
他人を自分が満足するための道具にしているのだ。同じものを自分が返せるわけでもないのに。
しかし、何もかもの根源は「真剣にならないこと」だと僕は思う。
不幸な人と知り合い、親しくなろうとしても無駄なことだ。
相手の話を真剣に聞けば聞くほど、こちらが馬鹿を見る。
僕は本物の命を使って生きている。
体裁を繕うために、どうでもいい誰かにうまいこと言っている暇などない。
だが多くの不幸な人々は、どうでもいい人に見せなくてもいい理想像を見せようと頑張るぬふふえわお。
自分が正しい、悪くない、とわかってくれと、その話に直接関係もない誰かに話をする。
そんなことをしても、何かが起きるわけでもないのに。
真剣に考えて決断をしない。
「状況が都合よく変わることを期待するから」
つまり、他人が言うことを変えたり、これからやることを変えたりしてくれるのを期待するからだ。
その期待を「叶えさせるため」に、誰かを責める。叱責して自分の期待する行動をとるように仕向ける。
そんな真似をして誰かを動かすことに必死になる。
必死になるが、それはすべて逃げだ。
真剣にこの人生について考えることからの逃げ。
その人が動かなければ、どうにもならない。
だが、自分の未来がこれから困る展開になるのは、その人のせいではない。
自分が真剣に考えないからだ。
もし、この人が~してくれたら
もし、あの人がこんな風に思っていたら
そんな風に、もしも、もしも、と空想ばかりしていて、それが現実的可能性があることなのかどうかも真剣に考えない。
まずは、「現実的な目的」となりえないものを現実の目的から排除する。
状況さえ変われば、自分が「新しい自分」にならずとも今までの自分のままで「欲しいもの」を手に入れられる。
だから「邪魔なもの」に消えてもらい、「都合のいいもの」に存在してもらう。
それは例えばお付き合いを強要してくるような人だ。
本人が夢見ている「もしもこんな人に出会ったら…」という空想の恋愛がある。
その恋愛を体験したい。
しかし、目の前にいる人が「空想の相手」とは違うことをする、違う人なのだ。
だから目の前の人に消えてもらう。
邪魔な存在に消えてもらう。
消えたところで、「空想の相手」は代わりに存在しえない。
ただ「怒らせないようにしなくては」と警戒している、「消えたふりをしている相手」がずっと存在しているのだ。
存在したものを消すことはできる。
相手の精神を殺して存在を消すこともできるが、普通は相手が目の前からいなくなる。自分とは関りを断つ。
本物の人間と関わりたくない人は、親しくなる時には相手を消す。
自分も消える。
「相手の望む人間であると見せかけよう」という付き合い方をする。つまりご機嫌を取る。
人と関わりたい人はここでもう嫌になる。だから自分と同じく「人間と関わりたくないが、実在の人間を通じて脳内の夢に浸り続けたい人」だけが関係を続けられる。
僕はこれまで「バカ」という一言で済ませてきたが、僕が思う「バカ」の中には、現実を真剣に考えていない人も含まれるのだろう。
理想的な人がいるかどうかの占いをする人は、既に形作られた人間像を求める。
だからこそ、実在した人間を消してしまおうとする。
しかし「嫌なものを消しても好きなものに変わるわけではない」とわかっていない。
「人は理想的ではない」のが当然であり、自分自身も誰かの理想像ではない。
自分はちゃんと「できている」と思っている人は、本物の自分ではない。
普通になろうなろうとしている人は、「普通になろうとしている異常な人」なのだ。普通になろうとしなくてはにならないのは、異常な人だから。
自分がおかしいから普通になる努力をしているのだ。
本当に普通であったら、そんな努力はしない。
自分が努力した時点で自分がおかしいという事実を受け入れ、認めたのだ。
僕がもし、自分を普通に見せるために意識して頑張っていたとしても、目の前の人は僕の「普通はこうあるべき」という期待に応えてくれるわけではない。
想像すればわかるが、結局「普通はこうあるべき」だと自分が思う反応をしてくれる誰かを求めて生きているのだ。
そして、自分が普通であったのに相手が普通ではない反応をすると、相手を馬鹿にしたり責めたりするのだ。
「普通は~されたら、~と返すもの」
なのになぜやらない!
やらない、はおかしいのに、真剣に考えない。
それは「自分が普通じゃないからやっているだけ」だ。
「普通は~するもの」と教わったことに従うこと自体、普通ならやらない。自分が異常だと思って生きていないからだ。
自分がおかしいと思わないならば、自然にしている。
普通ではなく「自然にしている」のだ。
自然体がその人の普通である。その普通にはそれぞれ違いがあり、それぞれ本人自身の普通であることが一番楽なので、違いを知るだけでいいのだ。
自分の普通を捨て、社会の理想を普通として取り込んで生きていたら、窮屈でしょうがない。
窮屈でしょうがないが、その形で固定されて生きている人たちもいる、ということだ。
自分自身については、自由にできる。
固定された窮屈な自分でいる人は、最初に命じられて始めたので最後も命じられて終わりにしたいのだ。
勝手にやめるという真似をしたくないのだ。
やらせた人が怒るかもしれないから。
「怒られたくない」
そのためになんでも我慢する人もいる。
もう守ってもらえるわけでもないのに、怒られないように頑張る。
しかしこの場合「怒る人」は「保護者」なのだから、他人を保護者扱いして怒られないようにしてみても、相手も困るだろう。
それもまた、真剣に考えればわかることだ。
真剣に、冷静に。
僕は今朝目覚めてひらめいた。
人に何が必要かばかりを考えていたが、元々僕は人とは違う。
小学生のころからいちい通知表に「反抗的」「協調性がない」と書かれていた、IQ150ある子供だった。
最初からはみ出していて、教師を相手にしても意見することを躊躇わず、理不尽と思えば公然と批判した。
その僕が、なれもしない人の欲しいものを考えても、わかるわけがないのだ。
「僕自身がなくて困ると思うもの」
これを生み出せばいいのだと思った。気づいた。
あったらいいな、は自分が生み出すのだ。
他人が欲しいものを生み出すのではない。
そういえば、そうだったなと今朝思い出したのだ。
そんな風に、人間は当たり前のことを忘れていることがよくあるから、自分自身を点検し続けなくてはならないのだ。