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いじめられ続ける人は誰の仲間でもない ~無料記事~

 何かが違うなと思っていました。

 僕はいじめられもしないし、いじめもしないです。

 昔からずっとです。

 真の友情を知っています。

 いじめられている、と言っている人たち、そしていじめをしている人たち。

 どっちも僕が知っている仲間ではないなと思っていました。

 僕が昔してもらったように、本当に仲間としての扱いをしても、そうすると今度は僕を支配しようとしてくる。

 それがいじめられっ子でした。

 全員僕の仲間にはなりませんでした。

 いじめをしている人たちの仲間とは、いじめる仲間のことです。

 戦う以外にやることがないのです。

 考えてみれば当たり前です。

 ナルシシストだからです。自分だけが特別な存在であれば、死ぬまで敵と戦うしかありません。

 平和になる日なんて来るわけがないです。

 全ての人が自分を中心に生きている世界にならない限り、自分に対するアンチ、また支配されない人たちがいる限り死ぬまで戦いは続きます。

 「自分が世界の中心」なのですから。

 もうそれは考えればわかることですから、覚悟の上で生きるしかないでしょう。

 僕たちのように本当に仲間と共に力を合わせて生きていく人間とはまるで概念が違います。

 意味がわからなかったのです。

 加藤諦三先生も、誰が正しいかに拘っていました。

 何が正しくて、何が悪いことなのか。

 彼の生き方では、悪を叩き続けるのが正しい道のようでしたが、僕には全くわかりませんでした。

 言っていることはわかるのですが、なぜ、それで悪いことをする人たちを矯正しなくてはならないのかがわかりませんでした。

 共同体感覚を、彼は誤解していると思います。

 一緒にいればわかります。僕も怒鳴りつけられましたが、何を怒っているのかわかりませんでした。

 恨みで生きていると、死ぬまで戦うことになります。

 しかし、問題はそこではなく、「ナルシシストである」という一点が問題です。

 僕は相棒や他の仲間たちを思い浮かべながらいつも考えています。

 「正しいことをしているか、間違ったことをしているか」

 それは僕たちが仲間を助ける理由になりません。

 仲間は仲間だから助けるのです。

 それから、いじめられないのはいじめるからではありません。

 僕たちは共同体の一部、仲間と共にあると感覚的に自覚しています。

 自分がどこかでいじめられたら、その後自分を助ける仲間たちが犠牲を払わなくてはなりません。

 仲間は必ず自分を助けてくれます。

 誰かのせいで困ることになったら、自分の大事な仲間たちが自分を助けるために犠牲を払い苦しみを分け合うことになります。

 だから、仲間たちを守るために戦うのです。

 神経症の人の感覚は僕にはわかりません。

 妄想恋愛ストーカー女子の話をいつもしますが、あんな人に出会ったのは初めてで、理解できませんでした。

 最初から確実に敵。あんな人は初めて出会いました。

 それ以前に出会った同じような裏切り者は、自分が個人的に出会って始めた関係でありませんでしたが、大勢の中の一人として仲間としていた人間でした。

 嘘をつく。言い訳をする。同じことを繰り返す。

 そんな裏切り者は、僕の仲間にはいたことがありません。

 仲間の中から裏切り者が出た時は、当然追い出します。

 僕たちは仲間を何よりも大事にしていました。

 僕たちにとって友情こそ最も大切な宝でした。

 裏切り者は締め上げて追い出しました。

 最初は中学生の時でした。

 大人になってから出会った裏切り者は、大人だからこそ悪質でした。

 その時は僕もキレました。仲間に対する裏切り、仲間を欺くことは断じて許しません。

 なぜならば、僕たちが仲間を心から信用しているのは、誰も絶対に裏切らず、仲間を謀ったりしないからだからです。

 その絶対の信頼があるからこそ、僕たちは全力で仲間と協力し、助け合うのです。

 「仲間がいれば、なんだってできる」

 心から信頼し合っていると、本当にそう思えます。

 仲間といる方が自由になるし、仲間といる方がエネルギーがわいてきます。

 それもこれも、仲間は本当にお互いを信用し、信頼に足る人間であるからなのです。

 ですから、裏切り者は許しません。

 仲間を窮地に陥れるのは、裏切る奴です。

 仲間の輪に入っておきながら、嘘をつく、仲間を信じない。

 都合が悪ければ自分だけ逃げるつもりでいる。

 死ねと言いたいところですが、それは気分の話です。

 それでも病院送りにしたことはあります。

 当然です。

 仲間を裏切る罪の重さがわからない人間は、どうしようもありません。

 妄想恋愛ストーカー女子は、女だから、そしてこっちが相手を全く信用していないから、嘘をつきながらしらばっくれていても、怒鳴りつけて胸倉をつかむ程度でしかありませんでした。

 僕たちは仲間が真剣に向き合ってくれたら、それをしっかり受け止めます。

 しかし、神経症、ナルシシストという人達はとにかくおかしい。仲間ではない。

 仲間のふりをしたスパイとはよく言ったものです。

 本当に仲間みたいな顔をして「紛れ込んでいる」のに、内側まで入ってきて嘘をつくのです。

 叩き出していいくらいです。

 僕はそのような人達と、仲良くなったことはありません。仲良くなんてなれません。

 「自分中心に相手を動かす目的」があるのだから、仲良くなるわけがないのです。

 自分になんでも引き寄せるから、一向に話が進まない。何年付き合いが続いても、なにひとつ話が進まない。

 何度一緒にどこかに出かけても、「仲良し度」としては「出会って間もない関係」から一向に進まないのです。
 ただ、形の上であちこち行ったり、色んなことをした思い出ができるだけ。

 まるで親しくならない。それが神経症の人です。

 「親しくもない、心を閉ざしてる相手」と、なぜか「親しい人がやること」の真似事をするのです。

 やりたいわけでもない、そんな気持ちになってもいないのに、なんとかして「形だけ」は親しくなって行っているかのようにしたがるのです。

 全く心は通いません。なにせ、嘘をつくのですから。

 意味がわからないです。嘘をついて、反省もしない。同じことを繰り返す。

 そして仲間に対して、他人に対して言ってはいけないようなことを平気で言いながら、いつまでも「仲間みたいな顔」でそこにいる、不気味な人間でした。

 他人にとっては全く知らない赤の他人。

 どんなに自分の過去を話しまくったところで、より不審に思うだけです。

 過去の話をしたら、相手が「そんなことが!」と驚いて、自分に気を許すなんて現実にはあり得ないことです。

 空想の話ではなく、生きた人間が目の前にいるのですから。

 他人は自分が怖い、とわかっていないのです。

 ハッキリ言いますが、僕は普段はいじめをするような人と関わらないです。

 最初から嫌な感じがします。だから親しくなりません。

 深く接しようともしません。そんな気にならないです。

 誰が悪いとか可哀想とか、そんなことはどうでもいいのです。

 誰とも親しくなれないし、仲間にはならないです。共同体感覚ゼロです。

 世の中では、仲間を知らない人たちが争っていますが、僕たちは元々神経症の人のような性格の人たちは「知りもしない存在」でした。

 自分が仲間を裏切りながら、「自分の過去の私語り」をしてどんな辛い目に遭ってきたかを教えて可哀想がられようとするのです。

 切腹してほしいくらいです。

 私中心の世界を生きている人は、現実の世界を勘違いしています。

 優しい人なら助けてくれる、と思っているのでしょう。

 自分が悪くないなら助けてくれるとか、勘違いしているのでしょう。

 これだけ多くの人間がいるのに、仲間でもない人間を助けるわけがありません。

 自分に嘘をつく人間を助けるわけがないです。

 一から十まで「人をバカにした態度」で接し、それを指摘しても「そんなつもりはないんだけど」と落ち込んで見せる始末です。

 仲間を裏切って反省せずに、「今まで通り」で何も変わらない自分でいようとする。

 裏切られた方は殺意が生まれても仕方ない人間です。

 信じてくれていた人は許してくれないでしょう。

 最初から無関心な人間だけが、関係を続けるでしょう。

 人をバカにした態度なのは、当たり前です。

 心の中で、「私は特別な存在だ」と思っているのですから、口には出さなくても、態度に常に出ているに決まっています。

 傲慢極まりないです。言わなければバレないとでも思っているのでしょう。

 なんでもないやり取りの中でもいちいちカチンとくる態度や物言いをします。

 いちいち罪悪感を煽り、人の意欲も自尊心も貶めます。

 「私は特別な存在」だと思っているからです。

 そしてそんな他人がいても、どうせ親しくなりたくない人なのですから気にもしません。

 受け流して近寄らないようにするだけです。

 更に、「自分を良く見せるために装う」という行い。

 要は自分ではない自分だと思わせようとしているわけですが、それをやるなら

 「自分に対して言われたことは、自分ではない人に言われたものとして変換して理解しなくてはならない」

 とわかっていないのです。相手は別人に対して話しかけているのと同じなのですから、それを「自分に言われた」と受け取る方がおかしいのです。

 考えればわかることなのに、その程度の頭も働かない人間が人を謀って願望を叶えるなど、愚かにもほどがあります。

 言われたことを「この世界の中心たる私に言っている」と勘違いしているのです。

 仲間が自分がした何かをやめてほしいとお願いしてきた。

 その時「私を批難した!拒否した!」と受け取るのです。

 この世のすべてが私のためにあると思っているからです。

 最初から他人と共存している人は、それが「相手を受け入れる時だ」とわかっています。

 言わなくてはわからないことがありますから、「私はここにいますよ」と教えているのと同じです。

 他人を存在させない人ですから、「私を批難したな!」と追い出してしまうのです。

 「神経症の人間は、他人を心の世界から締め出してしまう」と言われています。

 存在していることを微塵も許さず、自分にとって無抵抗な存在を残すのです。

 完璧に自分しかいない、自分のための奴隷か舎弟しかいない世界を作ろうとしているのです。

 最低な人間です。

 真の友情の中で生きてきた僕にとっては、最低な人間です。

 仲間に対する裏切りがあれば、やられた相手が自分でもその後仲間たちが苦しむ未来が待っています。

 自分のためではなく、仲間を思って怒り狂うのです。

 絶対に許さないです。

 若い頃のことですが、ただでは済まさなかったです。

 僕たちは自分が仲間の一部ですから、自分が傷付けられたということは仲間が傷つけられたも同然なのです。それが共同体感覚というものです。

 子供の頃、僕に親切にしてくれた家族がいました。

 うちの母は、その家族をバカにしました。

 絶対に許せないと思いました。

 人の話も聞かない母と違い、他人でありながら親身になって話を聞いてくれる人たちでした。

 「親身になって、ちゃんと想像して真剣に話を聞き、自分の未来まで案じてくれている」

 そんな人はそうそういません。

 実の親でもしてくれないことを、してくれた恩人たちです。

 ずっとまともに話を聞いてもらえませんでした。

 僕の話を真剣に聞いてくれた時は、本当に嬉しかったです。

 「やっと聞いてくれる人がいた」という喜びでいっぱいでした。

 その時、既に救われていました。

 だからこそ、僕は彼らを守るために母に抵抗するようになりました。

 僕が母にいつまでも虐げられていれば、優しい彼らの元に行って愚痴をこぼすでしょう。

 そして彼らはまた、僕を励まし、元気づけようとするでしょう。

 キリのない話です。

 彼らがどんなに頑張っても頑張っても、母が変わらない限り僕がいつまでも不幸を運び、彼らの優しさを吸い取っていきます。

 僕はただ、「可哀想な被害者」として皆がなんとか問題を解決するのを待っているだけ。

 自分のために母と戦うように仕向けて、争いを起こすだけ。

 僕は誰も守らない。

 ただ守ってもらうだけ。いつも守ってもらいながら、ありがとうありがとうと感激するだけ。

 戦うのはいつも他人。僕がいじめられたら、戦うのは他人。

 それはおかしいです。

 それでは「僕がいなければいい」のです。僕が一番要らない奴です。

 特に親切な人達にとっては、僕さえいなければ何も問題がないということになります。

 僕は誰の仲間になって生きるか、決めました。

 仲間になれば、当然自分も仲間を守らねばなりません。

 あれだけ親切にしてくれた人たちを罵る母を見過ごしては、僕は親切にしてくれた人たちにとっての裏切り者です。

 自分のせいで悪く言われているのに、それを見過ごして親切な人達を的にする。

 更に無関係な彼らに「僕の問題」を解決させるため、人生を使わせる。

 そんな真似をしかけていた、悪鬼は僕です。

 だから鬼は鬼でも、仲間を守る鬼になったのです。

 仲間を守ったから、僕は共同体の一部になったのです。

 誰も守らず、「自分だけ特別」という優越感を感じている人を羨ましいとも思いません。

 そんな生き方をするより、自分も仲間の一人なのだと感じ、仲間を守る方が遥かに気分がいいからです。

 あっちこっちに行っては人の悪口を言い、仲間であるはずの人を罵る人間が

 「さあ、可哀想な人がいるから皆で私を幸せにしろ!」

 と求めるのです。

 どこからどう見ても「この世界で特別な存在」などではないのに、自分の存在を勘違いするにもほどがあります。

 大体、仲間を守らない、仲間に嘘をつく、この時点で僕は願い下げの外道だと思います。

 それが平気な人達が、いつまでもいじめられたりいじめたりしている人たちです。

 心から仲間を信じ、絶対に裏切らないと覚悟を決めて仲間になる。

 それは確かに勇気がいることかもしれませんが、僕にとってはこんなに誇らしいことはないと言えるほど誇りに思えることです。

 自分は仲間の一部であり、自分を誇りに思う。

 そして、仲間たちこそ自分の誇りなのです。

 正直、まるっきり生き方が違う。

 妄想ストーカー女子といた時は、いつもいつも警戒していて、気が休まることがありませんでした。

 嘘をつくし、本当のことを言わないから、「いつ何をするかわからない」と思って本当に不安でした。

 そいつ一人のせいで生活している時まで不安になるのだから、当然追い出したくもなります。

 仲間になるなら歓迎ですが、スパイは要りません。

 しかし、本物の神経症の人は常軌を逸していました。

 普通に考えても嫌に決まっているし、何をどうしても「我慢するしかない日々」になるのに、自分が反省して変わりたくないものだから、どうあっても「我慢を強いる」のです。

 自分は特別な存在!

 そう思いながらちやほやされて、いい気分になりたい。

 それが家の中で叶わなくても、外に出て他人に我慢してもらってまですることでしょうか。

 「私は正しい!間違ってない!」と怒りながら仲間である僕に言う。

 この時点で僕には理解できませんでした。

 今は理解していますが、元々家族が敵同士だから、「正しい方が幸せになる」と思っているのです。

 誰かの仲間になるのではなく、「正しい人、良い人」になろうとしているのです。

 共同体は信頼関係です。

 正しいかどうかなんて関係ありません。

 意味がわかりませんでした。何を言っているんだこいつはと思いました。

 「私の家ではそれが当たり前だった」と言いながら、人の家の中まで自分の家族のやり方を押し付けてくる。

 そんなに家族が好きなら、家族といればいいのに。

 あの人たちは、死ぬまで「どっちが正しいか」で争うのだなと思います。

 僕にとっては完全に対岸の火事。

 知らない世界、理解できない奇特な世界の話です。

 勇気を出せないために仲間を見殺しにして生きている人たちの世界です。

 ナルシシズムを克服せずに生きている人は、憐れなことです。

 いつか自分が頂点に君臨して人類を支配するまで、戦いは終わらないのです。

 まだ誰も成し遂げたことのない「偉業」を目指して、たかが一般人の会社員でも、まず身近な人から捕まえて支配していくのです。

 自分が人類の敵だから、自分の考えに「否定的な意見」だったというだけで、もう敵対しなくてはなりません。

 「そうかな?なんでそう思うの?」

 なんでもないこととして、ただ会話を続けることさえできない。

 仲間なのに、いちいち敵対しようとしてくる。

 いちいち人に悪意があることしては、争いを起こそうとする。

 なにもかも自分のせいです。

 独りよがりな世界は「自分しかいない世界」です。

 他人が存在を主張する度に、最初は傷つきます。

 それでも、仲間だから、共に生きているから、思いがけず迷惑をかけたりした時も、失敗したなと落ち込んでも、それでも「教えてくれるのが嬉しい」のです。

 相手のイエスもノーも、真実であることを受け入れていけば、どんどん距離が近くなるのです。

 ナルシシストはダメです。

 ノーと言ったら全力で追い出しますから。

 本人の気持ちになってみれば、この世界は元々私のもので、捕まえた相手は「私の世界のためにいる脇役」なのだから当然でしょう。

 「私のために生まれてきた人はどこ?!」と探し続けているのですから。

 この世界は私のものなのに、おかしい!と思っているのです。

 私が辛いのに、みんなが寄ってこない。

 私が頑張っているのに、みんなが評価しない。

 この世の主人公たる私が、私が。

 よく気づかずに生きていけるなと思いますが、未だに「いつか現れる、世界が私のためにあったと人類に気づかせる何か」を待っているのです。

 世界が私のために、完全に無抵抗になり、私が完璧に安心できる「優しい世界」に変わるのを待っているのです。

 最初から「自分以外の人間」と共に生きる気がない。

 親だろうが他人だろうが関係なく。

 孤独なのは当り前です。自分がやっていることです。

 そんな奴を仲間に入れられる人は、最初から「未来がない人」です。

 仲間と共に進んでいく未来の計画があれば、邪魔にしかならない人です。

 僕の仲間たちは、「裏切りには死」という考え方でしたが、その分、誰も嘘をつくことなく、仲間を騙すこともなく、こんな体験を生きてすることがあるなんて、と、感動するほどの体験ができました。

 仲間は心の中にいて、いつまでもついてきてくれます。

 いつまでも、心の中で共に生きているのです。

 世間では争いが絶えませんが、それは仲間がいないからです。

 仲間=私の舎弟 だからです。

 僕は子供の頃に、頭の中にあった「自分中心の世界」を破壊しました。

 現実の友達の方が、妄想のヒーローより良くなったからです。

 頭の中の空想の友達はいつでも一緒にいてくれますが、傷つくことがあっても「本物の人間」でなくては嫌だと思ったからです。

 僕は神経症だろうがなんだろうが、争っている人たちと張り合う気はありません。

 羨ましくないからです。

 微塵も羨ましくない。

 そんなことより、新しい出会いがあれば新しく縁を繋いで生きていく方が、未来に希望が生まれます。

 自分が悪かったか、正しかったか。

 それが重要に思えている人は、その時点で救われないのです。

 そんなことより「自分は誰の仲間にもなっていない」という事実の方が、絶望的に未来を暗くしています。

 友達、として存在している人は多かれど、本当に真剣に自分の話を聞き、共に未来を生きようとしてくれる人がどれほど稀少か。

 他人に無関心な人は、自分に同意して迎合して、ちやほやしてくれればなんでもいいのです。

 頭の中では別のことを考えていても、口先だけでいいのです。

 ご機嫌取りに囲まれて、陰口を叩かれているとも知らずに喜んでいる。

 滑稽な主人公です。

 僕は家の中で、姉が母に媚びに媚び、煽てているのをいつも見ていました。

 喜んでいる母もみっともないと思いました。

 言葉だけなのに、それでもすっかりいい気分になっていたのです。

 自分が人気者感を味わい、いい気分になるのです。

 見たくもない光景でした。

 そして、今も世の中でそんなことを続けている人たちは、好きに続ければいいとしか思いません。

 僕には仲間がいます。

 だからもう、僕はそれだけで十分です。

 喜びも苦しみも共に分かち合った仲間がいれば、人生は勝ったも同然なのです。

 心の平和は、自分の中から敵を追い出した時、つまり恨みや憎しみを捨て、争いをやめた時に、誰にでも等しくやってくるものです。

 自分が特別だと思っている人間は、どんなに平等に尊重する集団に入っても必ず仲間と争います。

 自分を中心にしてくれる輪が欲しいならば、教祖様にでもなることです。

 親切だろうがなんだろうが、「特別な私」がやっていると思っているならば、その態度や行動に必ず傲慢さはにじみ出てくるのです。

 救いを求める人に求められ、人間には不可能なことを要求されながら生きていく。

 それしか神経症の人が生きて成功する道はないでしょう。