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自分を嫌っている限り、絶対に無理

 自分を嫌っている人と恋愛すると、実際どんなことが起きるのか、あなたは知っているだろうか?

 今自分で自分を嫌っている人は、逆にわからないかもしれない。

 自分で自分を嫌いながら、誰かに愛されたいと思っている人とは絶対にうまくいかない。

 かつて、妄想恋愛ストーカー女子に脅されて付き合った時に、意味の分からない矛盾した関係を作った。

 何度も繰り返し同じことをして確認し、今は何をしているのかよくわかる。

 親しくない時はいい。特別な関係にならない限り、好感は持てるし、本当に好きになれる。

 ところが、「特別な関係」を求められると、その関係が、というよりは、相手が豹変する。

 実際、そのような人格障害の人はいる。特別な関係の、特定の相手にだけ人格が豹変してしまう。

 猛烈な依存心。

 付き合わなければとても好き、付き合いたいくらいに好き。

 でも付き合ったら死にたくなるくらいに嫌。

 意味がわからないが、本当にそんな風になる。

 どちらにせよ、自分が無い人なのだ。

 軸がない。

 だが、当然みな同じ人格ではない。

 同性同士の中で、いじめをしている側の人に最初は入れ込まれた。

 逆に、いじめられている側の人にも入れ込まれた。

 友人関係の中でいじめがある。

 本質的には同じだが、攻撃性はまるで違う。

 こっちが本当に好きになっても、それは関係ない。

 僕自身が自分を嫌っていたことがあるから、正直子供の頃の話だし相手は友達だから同じではないけれど、「相手に好きになってもらおう」とすると確実にうまくいかないとよく知っている。

 最初の妄想恋愛ストーカー女子ではなく、その後出会った人には僕も本当に同情した。

 なんとか好かれるために努力しているのだろうが、そんなことはしなくても既に好きで仲良くなろうとしているのだから必要がない。

 特に無理強いして始まった関係ならば、相手のご機嫌を取り続けなくてはならないと思ってしまう。

 臭いものに蓋をし続けなくてはならない。

 何より、自分で自分を嫌っていると、何があっても相手に好かれているなんて信用できない。

 いつまで経っても心を開けない。

 こっちにしてみれば「いつまで頑張っても安心して信用してくれない」のだから、何も始まらない。

 延々と「大丈夫だから」と宥め続けているような関係が続く。

 疑っていたら、いつまで経っても始まらない。

 「本当に好かれているかどうか」なんて考えるものではない。

 好かれていなければ、こんなことは起きない、ということが起きても、まだ疑う。

 それではいつまでもスタートできない。

 どうなるのかばかり考えているから、今、目の前で起きることに素直に反応すらできない。

 だから僕は、よく驚かせたり、ふざけて笑わせたりする。

 本当に自然な顔が見れるのは瞬間的な場面だけで、他は全て「作った顔」しか見れない。

 または、別のことを考えて上の空の顔。

 基本的にはその顔を見ながらこっちが話していなくてはならない。

 要は、ガン無視してくる相手に話し続けなくてはならない。

 「早くこれ終わらないかなー」と思いながら、ちょくちょく「これは現実ではない」という話をする。

 この態度でなぜか「好きだ」と言う。

 常にぼんやりしていて、本当にどんどんひどくなる人は目がガラス玉のようになっていた。

 洗脳されている人の目だ。

 どこで何をしているのかは知らないが、自分自身のことを自分で考えず、誰かに話しまくっているのだろう。

 決してやってはいけないことだ。

 特に、自分を知らない、自分も相手を理解していないような相手に自分の状況を話しまくる。

 しかも感情的な解釈で。

 すると相手は噂話を煽るように「解釈を事実」として感想や意見を述べる。

 そして妄想だったはずの現実世界が、どんどん本物のように思えてくる。

 結果、現実にはまるでかみ合わない行動を取り、自ら破綻させる。

 現実を目の前に、装って「見てるだけ」。

 そして装いながらの自分に対する反応を、解釈で決めつけて他人に話す。

 もうこうなってくると、何がなんだかわからない。

 誰の見たことなのか、体験したことなのか、そして誰が思ったことなのか。

 どんどんなんだかわからなくなって、頭の中の妄想世界に一人で引きこもるようになる。

 しばらく会わずにいて、再会した時に驚いたことがある。

 子供の変化に気づかない親がそうであるように、こんなに豹変していて周りの誰も気づかないのかと思うほど、顔が変わっていた。

 ごっこ遊びでの「お付き合い」をしているのはわかっているが、それを終わらせなければ、本物が始まらない。

 しかし「自分を嫌っている」という時点で、人生はおしまいなのだ。

 僕自身が自分を嫌っていたから、本当によくわかる。

 今の自分で生きたとしても、「どうせいい事なんて何もない」のだ。

 そして本当に、いい事なんて何もなかった。

 自分が嫌いなのに、そんな自分で生きていく人生に喜びなんてあるわけがない。

 どこかから、誰かが「こんな自分の人生」をバラ色に変えてくれることを期待し続けて、今をやる気なく生きていくしかないのだ。

 自分が嫌い。

 自分を嫌い過ぎて、もうこんな自分なんてつまらない人生を生きるしかないと諦めてしまったら、おしまいなのだ。

 恋人であっても、相手のことは他人事。

 関係性に応じた責任感もないし、関係性に応じた「立場」にもなっていない。

 その時その時、自分が「都合のいい役」になろうとするから、結局友達にもなったことはないし、恋人にもなったことはない。

 相手が「ちゃんと友達になっているか、恋人になっているか」を評価している潜入捜査官のような人なのだ。

 自分はいつもそこに当事者として存在していない。

 だからどこか遠くで起きている他人事のような感覚。

 他人がうまく生きているか見ているだけの、現場監督。

 恋人を「やらせた」ならば、相手が自分の用意した舞台で「ちゃんとうまくできる人かどうか」を確認しているだけで、自分自身は恋愛すらしていない。

 見てるだけ。

 そして自分も用意された舞台で「見せているだけ」

 見せているだけ、見てるだけで、自分はどこにもないまま、人生が終わる。

 本物の体験は何もしないまま。

 「これできちんとできている」と認められる人の人生を「演じて見せている」のだ。

 誰に?

 誰でもない。

 誰も見ていないから。

 誰も見ていないから、なんとかして見てもらうために、他人に報告に行く。

 誰も聞きたくないし、興味もないのに。

 他人にとっては、噂話程度の「ネタ」にされるだけなのに、自分の人生は他人の話題のネタにするために使ってしまった。

 こんな人間もいるのだ。

 そうならなくて良かった。

 そして彼女たちがそれをやめる日は来ないだろう。

 家の中が元々用意された舞台なのだから。

 
 カルト教団の中で生まれた人は、世界が歪んで見える。

 他人に許可をもらわなくてはならないことなんてひとつもないのに、他人に否定されると「許可をされなかった」と解釈する。

 人間が許可をしてくれないと安心できないならば、死ぬまで何かの奴隷になってしまうのに。

 奴隷として生まれた人は、親に「許可」をもらおうとしている。

 ある人は言った。

 「いつまで頑張ればいいの」

 許可をもらいたがっている。

 「自分が最初に何を目指すと言ったのか」も忘れているのだ。

 こっちは本人が言った通りのものを目的として考えているから、今があるのに。

 自分で何を言ったのかもわかっていないのだ。

 「良く見せるための一般的ないいこと」を言うからだ。

 自分の意思ではないから、自分が何を言ったのかも覚えていない。

 だから他人にしてみれば「約束を破り続ける信用ならない人」になっていることもわかっていない。

 自分が信用ならない人間なのに、相手が嘘をついているかのように勘違いする。

 本音で生きない人は、基本的に嘘をつく。

 「その時はそう思った」

 こんな小学生のような言い訳をする。

 「そう言っておけば、きっと相手が~してくれる」と期待するから。

 そう言っておけば。

 だから、もう他人は言葉なんて信用できない。

 何を言っても「そう言えば相手が動くだろう」と操作する気で言っているとわかるから。

 言葉は他人を操作するためにある呪文ではないのに、自分の心の中を、伝えたいことを、自分で自覚もしないから自分の言葉は口にできない。

 そんな恋愛に感動などないのだが、これ以上ないほど心から哀れになったことはある。

 あまりにも気の毒。

 本人は無自覚だが、これでは「いいことを言う人たち」に使い倒されて死んで行くだけになるだろう。

 それでも、誰にも心を開くことはできないから、結局表面上いいことを言う人が「常にいてくれないと」安心できない。

 好きでもなんでもないが、安心できる言葉を言ってくれる人たちに、心の中では見下されて、感覚的には自尊心を傷つけられながら生きていくのだ。

 こんな悪循環はない。

 だが、本人が意識の上でやっていることと、実際にやっている行動が

 「まるで別の感情を持っている人のもの」

 こんなことがあるとは、本人が一番自覚できないだろう。

 恐らくだが、そうなると殆どの人は、例えば加藤諦三先生の本を読んでも理解できずこうなるのではないだろうか?

 「じゃあ、本当はあの人が嫌いなんだ!」

 矛盾した感情と聞くと

 「好きだけど嫌い」

 のように思うのだろう。

 正直、僕は加藤諦三先生もこれを理解していないと思っている。

 書いてあることは正しいのだが、この理解は、理屈ではなく、自分自身がやっている場合にどう自覚するかは相当難易度が高いのではないだろうか。

 自分の気持ちを一切否定する必要はないのだ。

 争いに発展することなど本来ありえないことなのに、何を誤解しているのかみな間違った解釈で変な方向に走っていく。

 そういうものではないのだ。

 本当に無自覚で、本当に「気に入った人」を嫌ってはいないのだ。

 自分を嫌っている、ただそれだけ。

 意識の上では相手が好き。

 でも、行動の方は「自分を嫌っているからやっている防衛」なのだ。

 僕は精神分析には、少なからず西洋人的な差別的見解などが入っていると思っている。

 やはり学術などブッダの悟りに遠く及ばない。

 悟りの境地については、「そこがゴールだ」とわかっているだけで、誰も心理学で解明していないのだから。

 当然、その境地にたどり着かない限り全ては理解できないのだから、当たり前のことだろう。

 本当に、なんの争いもない世界に行けるのに、どうしても自分への憎しみからおかしな方に入っていくようだ。

 僕は、子供の頃にこの矛盾に気づいてよかったし、自分自身が素直に自分の気持ちを自覚できてよかったと思う。

 今までも、本当に素敵な女子に出会った。

 残念だが、本人が自分を嫌っているのでは、こっちがどんなに関係を発展させたくてもどうにもならないのだ。

 僕は苦労は平気だし、人に無駄な偏見を持たない。

 それを乗り越えて人を受け入れていくのが僕自身の修行だから、注文をつけて変わってもらいたいとは思わない。

 なんでも話し合って、納得して進まないと、僕の気が済まない。

 そう、僕は納得せずに進むことは、どうあっても気が済まない。

 なあなあにしたり、わだかまりがあるまま進むなど絶対に許せない。

 だからどうしてもだめなのだ。

 わだかまりしかない関係を作る人と、そうでない人はどうしても一緒になることはない。

 そして、自分を嫌う人と幸せになれる人などいない。

 本人が自分として生きているだけで不幸なのに、不幸な人間が幸せな人間と一緒になったところで、嫌な関係にしかならないのだ。

 自分を嫌うな、とみな口々に言う。

 だが、そんなことを言っている本人がまだ自分を嫌っていて、誰かのせいにしているのが常だ。

 なぜ、「いま」という時の自分に気づかないのかわからないが、どう説明してもピンと来ないらしい。

 他の方法が必要なのだろう。

 何か、言い方が、表現が、何かが伝わらない原因なのだろう。

 僕は過去に出会った人たちのことを案じているが、一体どうしているのかもわからないし、今後も知ることはないだろう。

 そして恐らく、気づくことはないだろう。

 「自分が嫌い」

 これが、生まれながらの不幸だと言えるかもしれない。

 「自分を受け入れる」

 この方法、どこで見るものも、僕の師の教えも

 「それは~のせいだから、しょうがないのだ」

 と受け入れさせるやり方だ。

 だが、実際に自分を受け入れて好きになった僕は、それは間違ったやり方だと知っている。

 それでは誰かを恨むだけになり、いつまで経っても進まない。

 だからこそ、僕のパーソナリティが「なんでそうなれたのかわからない」と言われているのだろうけれど、前々から、この方法を書くと恩師である加藤諦三先生の教えの一部を全否定してしまうことになり、非常に気が引けている。

 ファンも沢山いる方だから、みんなの憧れを壊したいとは思わない。

 なにせ、人を崇拝する人たちは相手に完璧なものを求めるから。

 だが、やっと僕はかつての場から完全に離れたといってもいいほど時間が経ったから、僅か残った人たちと、なんでもない人間が言っていてもそれを理解できる人に伝えた方がいいのだろう、と最近は思えるようになった。

 日本社会は、年功序列だ。

 上がいる限り、下は控えていなくてはならない。

 みな口ではどんどん意見を出せなどと言うが、実際にはそれをすると排除されかねない。

 企業勤めの人たちの方がよく知っているだろう。

 せめて、若い人たちと子供たちだけは、救われて欲しい、と願っている。

 そこそこの年でも、かなりそこそこの年の人でも、もうこんな自分で生きるのは嫌だと絶望できた人には、生まれ変わってほしいと願っている。

 寿命がまだ残っているならば。