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庶民の方が善良で騙されてしまう、政治の悪

 選挙なので、僕たちは思うより遥かに騙されて生きていることを少し書いておく

 この話はあまりしたくないが、僕はかつて明治に入るころ、国家を一強独裁体制にするために社会から抹殺された一族の末裔だ

 こう書いた方が、まだ書いている人間の立場は想像がつきそうなので、武家氏族というよりマシだろう

 子供の頃からずっと疑問に思って一人で答えを求めていたが、幕臣の末裔たる苫米地英人博士が著書に書いていた「自民党の前身は明治新政府」の一言で、すっかり目が覚めた。

 今の世の中が一体どうやって作られたのか、この社会が一体なんなのかは、その一文で全て理解できた。
 僕の家では江戸までのことはよく教えられたので、それ以降のことが全くわからなかったが、納得できた。

 ある自民党御用学者の先生は、内と外で全く言うことが違う。

 本人が自分で言っている。

 一般の人たちは左翼に洗脳されているから、そう言っておいた方がいいのだと。

 政策で嘘を言うのは彼らにとっては当たり前なのだ。

 「あいつらは正しいことがわかってないから、言うだけ無駄」だと思っている。

 「あの人たちは正しい日本人じゃない」と言いながら「正しい日本人を育てる」と言って若者を教育しているが、そば近くにいる若者たちはみなうつ病者なのだろうと思える異様な様子だった。
 洗脳されギラギラした目をしているか、うつろな目をして生気のない顔をしている。

 内側に入れば本当の考え方を聞くことになる。

 共産主義を忌み嫌い、全ては共産主義のせいだと言う。

 普通に考えても完全に頭がおかしいと言えるくらいの極端な考え方をしていて、「アイヌ民族は架空の民族」「私は左翼のせいで大学教授になれなかった」と言い張る。

 とにかく、なんでも左翼と共産主義、中国のせいにする。

 中国共産党にさえ勝てばうまくいくと信じていて、そのためにこれから日本は核武装をするべきだと言う。

 表向きは言っていないが、とにかく戦争をしたがっている。

 戦争がしたくてしたくてしょうがないのだ。

 戦争は正義だと思っているし、「憧れの聖戦」をやりたいようなのだ。

 勿論、大東亜戦争なるもので戦った日本軍を崇拝していて、ある先生は「美しい戦争がありました」と遠い目をして、またある先生は涙を流して語る。

 当時、殆ど記憶にもないほど幼かったはずなのに。

 この国は「神が作ったのだ」と言う。そんなわけがない。

 神などこの世にいない。神は見えない存在として心の中にいるだけだ。

 そしてこの国はもともとひとつのまとまった民族が千年を超えて続けてきたわけでもない。

 東北は侵略戦争で元々あった国を滅ぼし、吸収している。

 坂上田村麻呂の時代に。その末裔たちが今も生きているのだ。

 最初からひとつなんかじゃない。

 それが気に入らないようだが、それでもひとつにまとまってきたところにこの国のすごさがあったのだ。
 それを、何を勘違いしたのか形の上で一つだったことにしたくなったのだ。 

 彼らは中国を叩かせることで日本の士気を上げたがっているが、彼らの思想は西洋貴族の悪しき時代と似た、極端で独善的なものだった。
 そして実際には、存分に中国と繋がっている人たちはいるし、どうも様子を見るに、庶民を動かすために言っているだけのようで、大衆を動かすことで「金が動く」から、その流れを作って儲けたいようなのだ。

 細かいところは知らないが、大衆はとにかく「すごそうなこと」を言えばカッコよく見えそうなことをやる。何かと戦っていることに自己陶酔できるから、喜んでやる。

 そのような連中を飼いならしておいて、自分たちはどこかと手を結んでいる。

 何か、儲けになるのだ。御用学者たちは勉学に長けた商売人でしかない。権威の言うことならなんでも従うし、権威に求められた答えをなんとかして導き出すためにでっちあげてでも理屈をつけてくれる。

 そのような先生たちに意見してきて、その反応から真実を知った。

 「何も知らずに信じて真面目にやってきた、領民たちの子孫が可哀想だ」と僕は述べた。

 更に、今、権威に群がり自分たちは偉いと思っているエリート諸々について

 「勉強ができたら偉いのだと勘違いした、一代限りの算術番」

 「今の権威は人の治め方を知らない」

 と批判した。

 藩政時代は藩により政治が異なったが、僕が言う「算術番」は武家の人間ではなくても、算術ができることで器用され一代限り武士として登用された人たちのことだ。

 武家教育を受けて育ったわけではない。
 商人の子などがそれに当たるが、算術番は武家の人間もやっているので必ず一代限りなわけではない。
 優秀な人は試験に合格した場合、登用されたのだ。そして彼らを愚弄しているわけではない。彼らは試験に合格して算術番になっても、自分は町人より偉い!なんて勘違いしていなかった。
 武士となっても、町人をいじめて回ったわけではない。

 僕は意見するにあたり、自分がどのような家の人間かを説明した。世の中でなぜこんな嘘が言われているのか知らないが、と前置きし「武士が農民をいじめたりしているわけがない理由」についても説明した。

 それについては、苫米地博士も書いていたが、そんなこと少し考えればわかることだ。

 「自由に意見してほしい」と言っておきながら、僕が率直に意見すると猛烈に叩きにかかってきた。
 これが正体だ。洗脳教育をしたいだけの人であることは明白になった。

 権威にべったりの老先生たちが群がって、必死になって僕をバカにしてきた。

 人前でなんとか笑い者にしようとしてきたのだが、僕の言っていることは当然まともなのだから、次々ボロが出てきた。

 そのようなボロから「本当は何をしているのか」を探ることができる。

 「自分が大臣になったら、身内に要職を任せるのは人として当然の人情。誰だって身内を大事にするものだ。もし身内を差し置いて他人を採用するならば、その人は人間としてどうかしている。情があったらそんなことはできない。」

 これが、僕の意見に反発した御用学者が言ったことだ。

 かつて苫米地英人博士も経済政策を提案しに行ったそうだが、なしのつぶてだったと書いていた。
 そして出馬すると自民党に邪魔されまくった。それについてはあまりにもひどかったということで、その内容を細かく本に書いていた。

 彼らは、既に「本当にうまくいく正しいやり方」など求めていないのだ。自分たちの思い通りにさえできればどうでもいいのだ。

 今の自民党がどういう考え方で完全な身内固めをし、それを自分たちの内輪で肯定し合っているのかはわかった。

 彼らは情に厚い優しい人たちだからこそ、代々政治家をやり、身内には優先して要職を任せている、と自分たちでは思っているのだ。国民を無視して、内輪だけで褒めたたえあっているのだ。
 集団ナルシシズムだ。

 公職を、私物化しているのだ。

 そして、その御用学者の先生たちと共に群がる人たちは、自分たちも甘い汁を吸わせてもらえる。
 だから彼らを守り、彼らが正しくなるように「敵」を作っているのだ。

 表向きは大衆が好むようなことを言い、支持を集める。

 しかし、実際に当選してしまえば、本当にやりたかったことをやる。

 これを当たり前どころか、「洗脳された国民たちを救うため」だと本気で思っている。

 完全に洗脳されているのは自分たちの方だ。

 カルト教団国家だ。

 明治期に勝ち組側に残った家の人の話では、最初は武家の人間もそれなりにいたのだが、武士は元々誠実さを大事にしていたので、卑怯な真似を止めようとするものだから商人政治家たちにどんどん追いだされていったらしい。

 最初から、背後で口出ししている商人たちがいたのだ。
 権力の座にも元々庄屋の人間がついている。

 明治新政府は借金だらけの貧乏政府で、中央に税金を集中させると共に、すぐさま戦争もやらねばならなかった。彼らには戦争しなくてはならない理由があった。

 最初から、借金だらけで作られた政府だ。
 幕末には、どう考えても既に異国の手が内部に入っている。

 殆どの人にはわからないかもしれないが、「武士の常識」というものがあり、あのやり方、また流れはどう考えてもおかしい。

 どこの武士もそんなことは絶対にしない、あるまじき行いが実行された。

  そのあるまじき人たちが、今の自民党の前身を作った。

 最初から、金のため、権力を握るために一部の人間が作った「ファンタジー歴史」の上に成り立つ国だ。

 「天皇家なんてものはなかった」

 苫米地博士がそう書いていた。その勇気を称えたい。
 僕は「あの人たちは誰なんだろう」と思っていたが、やはりあれも作られたものなのだ。

 そんなものはない。帝はいたが、あそこは家ではない。

 家そのものが血筋で代々頂点に立つやり方は、西洋貴族のものだ。

 あのやり方は独裁政治を作ってしまう。そして政治を腐敗させる。

 江戸ならば、八代将軍吉宗公の頃から始まった、と僕は思っている。

 あろうことか、紀州の下に更に御三家を作った。権力を身内で独占しようとした。そして腐敗は進んだ。

 本当に、そのくらいの時期から江戸も内部で腐敗が進んで行った。

 葉隠にもある通り、賢人たる武士は内部から身を引き、苦言を呈した。

 今、権力を握る人たち、そしてそれを持ち上げる人たちは幻を見ている。

 自分たちに都合のいいことをやり続けるため、その理由にかつての戦争を利用している。

 大東亜戦争では、若者たちが国や家族を守るため、喜んで戦地に行った、とある先生は語る。

 「彼らは国を守れることに誇りを持って、笑顔で戦地に行った。」

 と語りながら、自分の話に自分で感涙する。

 そのような話をする人たちは、明治以降から、ただの庶民として生きてきた人たちではない。

 それを区別しない国民が多いから、今のようになる。

 自分たち側の視点で語っている話ではないのに、自分たちの話だと思って聞いてしまう。

 それが「他人と自分の区別がない人たち」だ。

 自分の答えを他人に聞くのが、どれだけ危険かわかっていただけただろうか。

 そして僕が、「差別をなくすため」に「現実を直視する目」を育てさせたい理由も少しは理解いただけると有難い。

 僕の家もかつて恨みを抱いて生きてきた。

 その恨みは晴れたし、恨みはしないが、元々「なんでもない家」の武士がどう生きていたかも知らない御用学者の言った言葉は決して忘れることはない。

 「まだこんな家の人間が生き残っていたか」

 この一言は、死ぬまで忘れないだろう。

 やはり、こいつらに僕たちは消されたのだなと、確信を持った。

 意図的に排除して、名乗ることも形を残すこともさせなかった。

 まだ生き残っていて悪かったな。

 そして、更に「嫌がらせ」として、意図的に排除されていった一族が持っていた力を、「なんでもない家の人たち」に分け与えていくのだ。

 目を醒ますためには、どう考えても今ある概念を破壊するのが先だろう。

 僕自身はそんな洗脳はされずに生きてきたから、一般の人たちが自分とは全く違う世界だと思って生きているとは知らなかった。

 最も大事なことは、「人の魂」を見ることだ。

 僕はれいわの太郎さんを応援する。

 現地で本当に困っている庶民の声を直に聞き、演説の時には思い出して言葉を詰まらせたあの姿は

 「間違いなく本物」

 だとわかる。

 みんなのことを本当に案じているのがよくわかる。

 思い出したら涙が溢れそうになって、言葉を詰まらせ、しばらく無言になった。

 人には知らないこともある。

 だから「言っていること」は間違っていたとしてもいい。

 間違っていると知った時に、すぐに修正してくれるかどうか。

 根本的に、何をするために政治をやるのか、その「本当の動機」が最も大切なのだ。

 やはり僕は、非力ながら、毒針を刺すように急所を狙いたい。

 普通の人は、大衆に向けて色々教えている偉い先生のところに行っても、僕のように意見して情報を引き出してくることはできないだろう。

 武家の作法。

 本当に筋の通ったやり方を知っているから、それに沿って行動する限り、紛い物はわかるようになっているのだ。

 そして、彼らが権力を握り年貢を納めさせながら、能登の人たちを置き去りにしている現実を見過ごすつもりはない。

 信頼など微塵もできないと、150年遡っても断言できる。

 ここまで裏表がある人々が政をして、この国が「良くなる」わけがないのだ。