神経症の原因は親子関係にあった
そのような発見をしたのはフロイドですが、何が原因なのかそれでははっきりしません。
僕の怠惰のせいで気づくのが遅くなりましたが、大変な教育の間違いを発見しました。
洗脳教育されている人は、「いいこと」を教えられている。
善行について言葉で教えられています。
何をするのが良い子なのか。何をするのがいい人なのか。
そのように「いいこと」を散々教えられています。
「ありがとう」はお礼の言葉ですが、「ありがとうって 言いなさい」と調教されます。
「いいことを言わされる」のです。
この教育、表面上はきちんと「いいこと」をやるようになるでしょうけれど、内面的に、人格としては悪人を育てるだけになります。
重大なことに気づかせてくれた方がいました。
原点のブッダの教えを一切曲げずに伝える、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老です。
彼は日本人ではありませんから、僕たちが考えもしない角度から考えたこともないことについて率直に事実を述べてくれています。
彼の話を聞いていて、重大なことに気づきました。
ブッダの教えには「十悪」というものがあります。人間の悪事について説いたものです。
それと対を成すように、後に日本の宗教の開祖が「十善戒」というものを説いています。
僕は名前も内容も知っていましたが、自分自身は既にわかっていることなので深く考えていませんでした。
十悪と十善戒は、正反対の代物です。
例えば、ブッダの説いた十悪ならば「殺生」。生き物を殺すこと。
十善戒になると「生き物を殺してはいけません」になります。
十善戒は、悪事を犯すなという命令です。
この教えを元とした集団の中では、支配や迫害が起きるでしょう。
恐らく、これを説いた人はブッダの教えを知っても反省はできなかった人です。
親が外で失敗してもそれを謙虚に認められない場合、傲慢さ故に怒りが起きて、子供に対して「こういうことはしてはいけないんだぞ」と厳しく責めるようになることがあります。
失敗を認められない。そして「みんなもやっちゃダメだからね」と他人を巻き込んでいくのです。
自分ができない癖に、ではなく、自分自身ができないからこそそのようなやり方になるのです。
ブッダの教えは、ただの事実。自然科学です。
「これは悪い行いだ」
それだけです。なぜ悪い行いなのかは、他の教えと共に道理や因果関係を考えていけば納得できるようになっています。
僕も日本人なので、根拠なく空海などを有難い存在のように思っています。しかし、スマナサーラ長老ははっきり言います。
「かっこつけただけでしょ」
そんなことを言う人は日本では見当たりません。本物の「ブッダの教えだけ」を学び実践するからこそ、自分で勝手に解釈して教えを変えて宗教を作るということについて批判的です。
「宗教の目的は騙すことだから」と彼ははっきり言います。
これについては認知科学者の苫米地英人博士も同じ意見でした。彼の場合は認知科学の専門家なので、摩訶不思議なことなど信じないのです。あくまでも現実的という点においては共通点があります。
僕も現実的です。根拠のないことは信じません。
ただし、瞑想や一般的におまじないと呼ばれるようなものの中には、意識に効果がある方法がありますから、それは「現実的」に採用しています。
危険な洗脳教育は、「立派な人」の話を聞かせます。
教える本人がいい気分になるような立派な教えを述べます。
しかし、聞いている方は立派な話をしている人を見ると、「その人が立派に見える」のです。
いい人だなあー、とその行いを見て感じ入った人ではなく「いい言葉を言っている人」「いい話をしている人」。
立派だなあとその行いを見て自分が尊敬した人ではなく、「立派なことを言っている人」。
「人には親切にしましょう」
これはいいことだと万人が思うでしょう。
しかし、言葉にして「親切な人はこうする」と教えれば、人間はできるだけ「理想的になりたい」というエゴがありますから、進んで「いいこと」をするようになるのです。
自分で自分がいいことをしていると思い込んで傲慢になり、結果「見返りを待つ」姿勢になるのです。
更に、「あの人は親切にしていない」と仲間を摘発するようになります。
「優しい人は~をする」と聞けば、自分も真似をして同じことをしようとします。愛も慈悲も無いのに、自分は優しい良い人だと勘違いします。
本当の善行は、善意があって生まれるものです。
その形に決まりはありません。善意や慈悲があったかどうかが重要なのであって、その心を持ってどのような形でどんな行動を取るかは状況や人により違います。
そしてその心を見ることができる人しか、善意に気づきません。
本物の善意を生み出すには、「十悪」を知る必要があります。
もし、「善い行いをしなくては」と思っていたら、人目が気になりだします。
「不親切だと思われたくない」
そのように自己執着を強くするので、「他人に親切だと思ってもらえればいい」という姿勢を生み出します。
盲点でした。
今回は自分の怠惰を反省しました。
僕自身ができてもわかっても困っていなくても、わからない人にどう教えるかを考えているのですから、その立場になってみて考えるべきでした。
そして、そこまで深く考えていませんでしたが、スマナサーラ長老の言う通りブッダの教えはやはり完璧で、曲げてはいけないものだとよくわかりました。
十善戒を作った人は、自分を見つめることができなかったんでしょうね。
「私もやったけど、あなたもやったよね。どっちも悪かったよね。」
自分が反省して詫びなくてはならない場面で、そんなことを言う人がいます。
どうしても自分が罪を犯したと認められない人。往生際の悪い人です。
今まで、特に有料会員向けでは話してきましたが、頂点が下に続く人たちの方向性や人格を決めてしまいます。
少なくとも奴隷のように従っている限り、その下にいる人たちはみな間違った方向性で傲慢さを高めていくでしょう。
教育においても、「褒められたい盛り」の幼い頃から「良いこと」を教えていけば、傲慢で自己執着の強い人間になっていくでしょう。
念の為言いますが、細かい言葉の話ではないのです。
一言似たようなことを言っても「あの人はいいことを教えている!」と摘発するなんて真似はしないでください。その行いをする人自身が問題なのだという話ですから。
僕は加藤諦三先生を崇拝しないようにと言い続けていますが、彼がどうこうという話ではなく、崇拝は危険なのです。
ですから、彼も人間なんだとわかる話をし続けています。
そこでがっかりするのは彼に対して失礼なことなのです。勝手に理想を投影しているのですから。
人に褒められる人になりなさい、と教える人もいます。
それではどうしようもない人間性の人が育ちます。
自分自身で「いいことをしているぞ」と自分の行動が終わっただけで思っているならば、既にいいことなんて何もしていないのだとすらわからない愚か者が、すっかり勘違いして悠々と人を見下してしまうでしょう。
それがいいことなのかどうかは、まだわからないことです。
人に感謝されることなのか尊敬されることなのかは、事実どうなるか結果を見てからでなくては「なんとも言えないわからないこと」です。
ただ、自分自身の中に善意があったか、思いやりがあったか、それはわかることです。
本物の善意を持って行動しても、結果どうなるかはわかりません。
どんなに愛や思いやりを持って行動しても「私はこんなものが欲しいわけじゃない」と傲慢に拒否して、注文を付けて望むようにやり直しさせる人もいます。
それでも、そこに本物の心があったならば、残念に思っても傷ついても、自分を嫌うことはないのです。
本当に人のために尽くそうとしている人は、頭を下げてお願いしています。
十悪のひとつ。綺語。飾り立てた立派な言葉を言いながら人を洗脳している人は、「いいことを言っている自分」に酔いしれて、人を見下しています。
本当に、今回は僕の落ち度であったと怠惰になっていたことに後悔しています。
こんなところに「考えれば易々とわかる大問題」が潜んでいるとは思いませんでした。
これもまた「思い込み」です。
良いものとして広まっているものだから、大それた間違いなどないという思い込みです。
大それた間違いがありましたね。
よくよく考えてみれば、「当たり前じゃないか」と自分でも思います。
善行を言葉にして命じてしまえば、「評価を待つ奴隷の群れ」になります。
それも「傲慢な奴隷の群れ」です。
このような教えの元で育った人が、「できる人とできない人」に仲間をより分けていき、分断をさせてしまうのです。
当然、片方が片方をバカにしたり迫害したり「天罰」を下していいという姿勢の集団になります。
「悪いことをしているのだから、当然だ」と思うのです。
こうして、結果「本物の悪人」が生まれてくるのが洗脳教育です。
本当に盲点でした。反省と共に、とりあえず簡単に皆さんにお伝えしたいと思った次第です。
皆さんもよく考えてみてください。
「良いこと」だと思ってやっている行いは、善行ではありません。