内容的には幼児教育的なことになりますが、これは子供の状態だ、と覚えておいてください。
子供は「自覚」ができませんから、なんでも言われた通りに復唱しています。
「君は誰?」と聞かれた時に、もし僕が「もがみゆうき」と言ったとします。
その時に「誰」と聞かれたから、自分の名前を言っただけならば、それが子供の状態です。
「本当にあなたは最上雄基なの?」
と聞き返されたら、なぜか不安になります。
え?だってそうでしょ?僕はもがみゆうき、なんでしょ?
こう思うのです。
「そうなんでしょ?」
これが自覚のない状態です。
親に教えられたから、自分の名前はそれだから、だからそうなんでしょ?
そういう名前をつけられたから、そうなんでしょ?
これでは、ただ自分の名称を述べただけです。まだ名付けられただけで、名乗れる状態ではありません。教えられたことを覚えただけなのです。
「あなたは誰?」と聞かれた時、僕は僕の個体名を教えるのではなく、僕自身が答えなくてはならないのです。
「僕は、最上雄基です」
こう名乗った時、間違いなく「そうだ」という確信をもって言っている。それが自分を自覚している人です。
どこが違うのか?
子供の場合は、名前を教わったので「そうなんだ」と鵜呑みにしているだけです。
決められただけ、なのです。
自覚をしている場合は自分でなっているのです。
「ならなくても決められたんだから、そうなってるでしょ」
こう思ってはいけません。それは間違いです。
それでは、決められたらなんでもなれることになってしまいます。
言われたらなんでもならなくてはいけなくなります。
決めてなるか、ならないか。選ばなくてはなりません。
他人はそう言っても、自分では「なった覚えがない」ならまだなっていないのです。
なんだそれは?と思う人が大多数かもしれませんが、これがないと本物にならないのです。
「そうか、僕はその名前の人間として生まれてきたんだ。」
そのように自覚し、
「では、最上雄基になって生きよう」
と、自分で心に決めて、はじめて僕自身が最上雄基になった、と言えるのです。
自覚しているのとしていないのでは、大違いです。
自覚していたら、僕の言う事は本当に僕の言うことでなくてはなりません。
自分ではなったつもりが無いならば、名前だけ名乗っていても自分が述べることは他人の受け売りでもいいのです。他人の真似でいいのです。
名前だって決めてもらったのでそう言っているだけで、自分ではなろうとも思っていない「勝手に決められた名前」ですから、自分の名前ではないのです。
名を受け容れないのは、生きることを拒否しているからです。
特に親を恨む人は自分になりません。
「我」が満足するまで、誰かにちやほやされたがります。
ひとしきり満足するまでちやほやされて、周りの人たちに「どうか最上雄基になって生きてください」と懇願されたらその人間として生きてやってもいい、というくらいの態度です。
我は、誰でもありませんからね。親もいなければ子もいません。
自分でならない限り、なんでもない誰でもない、何ともつながりのない存在です。
自分が生まれた存在として生きると決めた時に、初めて「この世界」とのつながりを持ちます。
勝手に決められた繋がりはあっても、自分の意識の中には誰との繋がりもない、という状態の人は現代社会では多いです。
ただし、自分にならないと、自分が元々受け継いでいる力は使えません。
意識してやることで、自分の力を使うことができます。
意識しないうちは、真似事でしかありません。
自分がやった時、自分がやるから自分の力が使えるのです。
意識の存在は誰でもありませんから、名前もありません。
親の子であるのも名前がついているのも、「肉体だけ」であって、心の中にいる私は関係ありません。
外から見えないのが「私」ですから。
その私が、肉体とセットで生きることにするか、気に入らないので肉体を奪って生きるか、それは勝手に決められます。
自分の人生、名前がついた「誰か」の人生は、意識の自分が生きようとしてくれない限り、見捨てられた存在になるのですが、親を恨んでいる人にしてみれば、自分が自分の人生を生きないこと自体が仕返しにはなるのです。
自分を育てて後悔しなくてはならない、損したと思わなくてはならない事態ですから、それだけでも十二分に仕返しにはなるでしょう。
うちの母も死ぬまで仕返しをして、死んでも周りをがっかりさせるということに成功しました。
とはいえ、心の中にいたあれは僕の母ではないので誰なのかは知らないんですけども。
とにかく、子供は自分の名前を「与えられたものだ」と思っています。
古い言い方をするならば、名を与えられただけでその名を名乗ることができる人間にならないと、名に縛られたり名で操られたりするので、自由に生きることはできないのです。
最低限、自分の名は名乗れる人間になった方がいいでしょう。
もし、自分の意思で生きようと思うならば。