加藤諦三先生が、遂にわかりやすいことを著書に書きました。
「今の社会が老人を尊敬しない、大事にしない」
老人が言う場合
「もっと尊敬しろ!大事にしろ!」
という意味です。
彼は最初から、本人が成長していない人でした。
当初は僕も驚きましたが、そこは当然言うべきことではありません。
それが配慮です。悪気があるわけではないのですから。わざとやっているわけではないのです。
ただ、ここまで矛盾してしまうとどうにも庇いきれないですね。これ以上は僕が一生矛盾して生きる覚悟でもしないと、なんとなく話を合わせてはいけないですね。
こんなにわかりやすく言いきるとは。
簡単に言うと、
「うちのおじいちゃんはすごいんだぞ!」
「僕はすごいんだぞ!」
「お前らはもっと感謝しろ!」
こんな感じのことが言いたいのだなとよくわかりました。
これは本人が他人に向かって言ってきたことですが、今まで散々人にやってきたことに、本人は堪えられないでしょう。
堪えられる人は人を攻撃しないです。断罪されることを恐れない人は、断罪しないです。
逆なのです。攻撃しないから、人を恐れない。断罪しないから、罰されることを恐れない。この順番なのです。
彼の場合、自分自身は心理的問題をズバッと斬ってきましたが、恐らくあれで正義の味方気分になっていたでしょう。
僕は到底似たような気持ちになれなかったですが、彼は「ダメな人」をやり込めていくことに快感を覚えているように見えました。
あの人はわかっていない、この人もわかっていない、自分はわかっている。
このスタンスでした。
申し訳ないですが、仕方ないので今回はハッキリ言います。どの道いつかは言わなくてはならないことです。
相手は人間なのに、悪者扱いしてきました。彼の個人的恨みが過去にあるからです。
しかし、本当に悪いことをした人であっても、本当に性格が悪くても、人前でやってはいけないというより、他人が言ってはいけないことを言ってきました。
でも、自分はちょっと指摘されると憤慨する、そんなおじいちゃんでした。
僕としては、感覚でわかる人は僕のところに居続けるだろうから、そのうち、僕の予定では彼が亡くなった後に正否を覆すのでまあいいやと思っていました。生きているうちに人が生き辛くなることをするものではないと思いますので。
言葉の方が大事な人は、そもそも違いがわからないから意味ないですね。
恐らく、今までも彼の話に何か違和感があった人はいると思います。
なにせ、矛盾していましたから。
しかし、何がどうおかしいのか言えない。この感覚が何かわからない。
そんなところでしょう。
それでも、今まで自分が彼の「言うこと」に賛同してきてしまうと、彼自身が全く成長していないと知った時に、何か後ろめたいような、恥ずかしいような気持ちになり認めがたくなるでしょう。
これが矛盾した人を信じた場合に起きることなのです。
自分が矛盾したことをしてきてしまった。
だから正しいことを認めて納得したいのに、それだと今度は今までの自分が間違っていることになりそれはおかしい、と思える。
こうして説明していてもおかしな話ですが、矛盾していると受け入れる時にそのような気分になるのです。
「そうだ!それが正しい!そうだったんだ!…でもそうだとすると、恥ずかしい!情けない!」
こんな感じです。
これは、「間違ったことを正しいと信じている人を神様のように信じてしまった時に起きること」です。
今回は、僕のところにい続けてくれる人たちに対してお話します。
皆さんは、気にせずただ事実を受け入れてください。
本来であれば僕が全て先に説明していてもいいことなのに、僕自身も言わずにいましたから僕が誤解を助長してきたと言えます。
それでも最後にはオセロのようにひっくり返ることを想定していましたので、僕自身は「間違った状態」を特にどうにかする気はありませんでした。
今までの自分を思うと「恥ずかしい!」「間違えていた!」と思える部分があるかもしれません。
自分がしてしまったから、みっともないと思えるのです。
無意識と意識が解離して別々のことを認識していたようなものです。
違和感を感じ、罪悪感を抱える自分。
確かに正しい!と同意して肯定している自分。
否定すると同時に肯定している。意識の上では肯定の方を取りたい。
そんな状態です。
皆さんが誤解するのも、また意識の上で同意してきたのも、僕のところにいてくれる皆さんについては、本当に優しさや仲間と仲良くやっていきたいという気持ちがあってのものだと思います。
僕自身が彼の味方になっていましたからね。
別に今も敵ではありませんが。
親の矛盾もこうして乗り越えるんですよ。
敵にはならないです。でもいつか親を否定しなくてはならない時が来ます。
親は過去の人であり、自分は未来を行くものだからです。
これが発展というものです。
複雑な気持ちがあると思います。しばらくは思い出す度じたばたしたくなるかもしれません。
しかし、必ずいつか癒えていきます。
僕も信じたかったですけどね、目の前で見ちゃったのでしょうがないですね。
彼の最新刊が出ております。
「人生、こんなはずじゃなかったの嘆き」 加藤諦三
本人の気持ちですね。
これこれになりたくない!というマイナスの動機は、そうなる予告みたいなものです。
後悔したくないそうですが、後悔した方がいいのです。
彼の祖父は悔いがないと言って死んでいったそうですが、悔いた方が良かったのです。
皆さんは、子供の頃から虐げられたらどうでしょうか?
せめて今際の際にでもいいから、「自分は間違っていた」と認めてもらいたいと思いませんか?
「私が間違っていた、お前には可哀想なことをしてしまった」
と泣きながら後悔してくれた方が、生きている人間は恨みを捨てられないでしょうか?
後悔を口にする時、人間は心を開いています。
本人もそれで救われるのです。
本当の意味で人を救えば、自分の心も救われるのです。
彼は、やはり最後には御爺様と同化しましたね。
彼の家の神様であり、支配者ですからね。
普通に考えても、自分のお爺ちゃんをフルネームで、社会的偉人として扱って本に書かないです。
孫の感覚ではないです。
彼の中には、息子としての彼も、孫としての彼もいない。
縦のつながりがないのだなとよくわかりました。
念のため、なんだかわからないけれど名前だけで崇拝する人に言っておきます。決してバカにする気持ちにならないようにと念押しして言います。
彼の一族は、元々現埼玉のある村に生きていました。
江戸には幕府の直轄であった領地の、ひとつの村です。
彼の著書を見ると昔のこと、日本のことが出てきません。普通の家の人だと思います。
御爺様は大変色々なことをなさっていましたが、票取りのために外にいい顔ばかりしている父親を、彼自身の父親が批判していた、と本人から聞いています。
しかし彼は、祖父が如何に立派な人であったか、若者たちに「心の中が大事なのだ」と教えていたか、そして「人生に悔いなし」と言って死んでいけたすごい人だったのかを今回の著書に書いていました。
完全に今までと矛盾しているのですが、彼はもう85歳です。
本人はやってるつもり、わかってるつもり、それが老人です。
今さら他人に何か言えることなど、何もないのです。
そのように老人に敬意を払い、配慮して「なくてもある」とすることは必要だと思います。
実際のところは、見ればわかります。聞けばわかります。
それがわかればいいのです。
間違っていても、そんなことはこっちにはわかるので、別に言わなくていいのです。
彼は既に命を燃やし始めました。
残りの命をです。終焉を迎えようとしています。そのままでいいのです。
僕たちは、もし信じてきたものが間違っていた時も、なにひとつ騒ぐことはないのです。
彼のような人をその昔は「出羽守」(でわのかみ)と呼んだそうです。
「アメリカ では」「西洋 では」
いちいち日本と比較して外国を知っていることをひけらかすので、そのように揶揄されたそうです。
日本しか知らない人たちは、何も言えないですよね。
「向こうではこうなんだぞ」と言われたら、日本しか知らない人々はよくわからなくてもそうなのかなと思って、知らないものを知っている人に従っていまいますよね。
それは、相手が自分たちの味方だと思うからです。
ただ、そんなことが繰り返されると、みな自信がなくなりますよね。
しかし、今の日本を他所の国と比較しても、では昔の日本はと言えば何も出てこない。
そんな人が殆どではないでしょうか。日本人がなぜこうなっているのか経緯も考えずに、アメリカや西洋と比較して良いとか悪いとかそんなことばかりです。
まるで外国人かのような感覚で生きている、完全に自分が何人なのかがわからなくなった人たちがいます。
それは「日本人の視点じゃないよね」と言い切れるほど、他国の人の視点で日本の是非を考えるのです。
まるで他国の話のように、日本の話をします。
僕たちは日本人ですから、日本を捨てては生きていけません。
日本人であるということを忘れずにいれば、必ず無理をしなくても開ける道があります。
それについては、僕も今後少しずつ説明していきます。
今回は僕も驚きました。
ここまでわかりやすくなるとは思いませんでした。
「我が人生に悔いなしと言って死んでいった加藤政之助は、「心清く、気高く、人のために生きられる律儀な青年に育て」と若者に説いた。すべて「形」ではなく「心」であった。
~「人生こんなはずじゃなかった」の嘆き 加藤諦三著~ より
この一文を見て、よくわかりました。
彼の思う「見えないものがわかる人」は、「お金をできるだけ儲けるだ!」と言う人ではなく、「心を大事にするんだよ!」と言う人なのです。
つまり、どちらを「言うか」なのです。説明の中での話なのです。
しかし、その加藤政之助は息子に批判されていたのです。
「票集めのために外にいい顔ばっかりして、政治家なんてものはろくなものじゃない。あんな風になってはいけない。」
そのように父親は祖父を批判していたと、本人から聞いています。
しかし、親子のつながりがなかった家ですから、孫である彼は「他人の目線」しか持っていません。
「祖父、加藤政之助」が存在しなかったのだとわかりました。
いないのは、父や祖父のせいではないのです。
彼は親が敵だったことを連呼します。
それはわかりますが、本人が親の敵なのです。だからこうなりました。
親が敵でも、子が親の敵にならなければこうはなりません。違う人生が始まります。
誰に見せたいのか、もう父上は亡くなられているのに。
他人に認めて欲しくて「かなりの年まで」生きてきたと本人が語りますが、そんなにいい年まで褒められたくて生きてきてしまったら、もうそうそう治るものではありません。
彼の著書には僕が思う難点があります。
あまりにも、「ルールが多い」というところです。
これは間違い、これが正しい、が多すぎるのです。
気になってしょうがないです。
成長に向かう時、人間は楽しくなります。
意欲が湧いてくる、わくわくしてくる。
そんなことが起きます。
そして「気が楽になる」が起きます。
その時に「誰かを悪者にして気が楽になった」ならば、それは紛い物の極楽です。
教授は、後悔した方が幸せになると僕は思います。
「まるっきり心理的に成長していない」
しばらく前に、イエール大学の若き学者の発言に対して、こう批判していました。
自分より若い人に対して、公然とこの仕打ち。理解する姿勢ではなく、理想的でないものに対しては人前で評価して恥をかかせることしか考えていない。
だから、今回はもう誰が見てもわかる形になっているので、僕も言おうと思いました。本当はこんな風にならない方がありがたかったのですが…。
彼は、心理的にはまるっきり成長していないです。
それは目の前にいたので、わかります。
彼は自分の時だけ、心理的に成長していない、なんて表現をしません。
親のせいでこれこれだから、しょうがない、それでも頑張った、などの表現は全て自分のことを言っています。
全て、彼はずっと自分のことを語っているのです。
人の気持ちを、今目の前にいる人のことを考えていない、と思いました。
いくら何をしたとしても、相手は人間なのだから、という慈悲がない。
慈悲深い人風なのに。
彼の態度や言葉に傷ついた人たちは沢山いると僕は思っています。
もしそれが本当であっても、間違っていても、良くないことであっても、他人の口から言っていいことと悪いことがある。
そして批判する時は嫌われる覚悟だけではなく、傷ついた相手を受け止めるだけの安心も用意しなくてはならない。
矛盾していると感情的には複雑になるので、どう受け入れていいのか難しいでしょうけれど、
「私がそんなに悪いのか!確かにそうだけど、いくらなんでも自分にだって理由があるのに…。」
と思える点があった人は、それが悪いかどうかは関係なく、何もしていない相手にそこまで言われる道理はないのだと思い、罪悪感から解放されて欲しいと願っています。
勿論、直接自分に対して言われた人に限ります。著書は知らない人に向かって言っているものではありません。自分が勝手に読むだけですから、関係ありません。
漠然とした罪悪感を抱えていた人はいるかと思います。関係のない話で罪悪感を抱えないことです。
そして、「何も悪いことをしたわけでもない優しいだけの人」に対して、実際に自分に害を加えていた当事者たる誰かの責任を取らせようとしないように。
そして、今回の著書を読んでみる人は、「背表紙の煽りの部分も、内容も、全部本人が本人自身に言わなくてはならないことを言っているのだとしたら」という視点で読んでみてください。
また違う見解が現れてくるのではないでしょうか。
道理が通らないことは、必ずいつか覆ります。
目先のことばかりに執着して人から奪うような人に出会っても、決して慌てることなく、先のことを見据えていきましょう。