親のせいで自分が不幸になった
と思っている人もいると思いますが、親のせいで不幸にはならないです。
「親とのコミュニケーションによってつくられた自分の人格が、幸せになれない人格をしている」
不幸は人格の問題であり、人のせいではありません。
人のせいでも金のせいでもありません。
幸せは物理的なものではありません。
例えば、食べるものが無くてひもじいのは貧しいせいだ、というのは道理が通ったことです。
しかしそれが不幸かどうかはわかりません。わかりませんが、通常人間として生きるに必要なもの、生理的に必要なものが欠如している場合はまずそこを埋めていくのが当たり前ですから、それは一般的に考えても「不遇な状態」であると言えます。
ただし、その場合は「食べるものが手に入るようになれば解決する」と最初からわかっていますから、他人が手伝って解決することも可能です。
しかし人格の場合は別です。
今のままの人格では幸せになどなり得ない矛盾した人格をしているならば、誰にもどうにもできません。
本人が自力でなんとかするしかありません。
人格は親子のコミュニケーションによってつくられます。
みな無自覚にいつの間にか「自分はこんな人だ」と思っている、なんらかの人格になっています。
しかし、それが他人から見てどのような人格なのかもわかりません。そしてそうなるつもりでなったわけでもありません。
その人格は、「親に与えられたもの」と言ってもいいでしょう。
生れた家庭の中で生き抜いていけるように作られたものです。
自ら生み出したと言えるでしょう。
子供は親に100%依存した状態で生まれ育ちます。親にくっついて生き続けるためには、その親とうまくやっていける人格になるしかありません。
親離れする勇気がなくては、その人格を変えるわけにはいきません。
その人格を手放すならば、一旦ひとりになる恐怖を乗り越えなくてはなりません。
自分一人で考え、決め、実行するのです。
誰にも責任を負わせることなく、自分の責任で自分の行動を操るのです。
自分一人で決めるという自由が、怖いと思いませんか?
誰にも聞けない、確認させてもらえない。
誰かに保証してもらえないのです。
怖いと思いませんか。
しかし、それが自由であり、それが心理的に自立するということです。
何が起きても「誰が言ってた」なんて言い訳ができないのです。
それは誰にも何も聞くことなく決めるという意味ではなく、誰かに意見を聞いてから決めたとしても、自分の決断は「自分の意思です」と主張し、責任を持つということです。
怖いと思う人もいるでしょう。
今までずっと他人に責任を押し付けてきた人もいるでしょう。
責任を持っていない人は、選ぶ権利を失ってしまうのです。
しかし、誰かに責任を押し付けて、誰かに責任を押し付けられて生きている人もいるでしょう。
言葉で人のせいにしたかどうかではありません。責任を取って生きているかという問題です。言っていることとやっていることが矛盾している人もいますから、口先では「自分のせいで」と言いながらも責任を取らずに生きる人もいます。
無関係なところに話をしては、逃げも隠れもできるようにしてコソコソ生きる人もいます。
心理的に自立する時、背後にいるのが自分を受け入れている親であればたった一人孤独な世界を旅立たなくても済むでしょう。
徐々に自分の責任を感じ、反省し、勇気を出し、親から離れていくことができるでしょう。
しかし、親子関係が矛盾している場合はそうではありません。
子供は「親子関係が矛盾していた私」をわかってくれる人を見つけようとし、親から離れて自立していく私を迎え入れてくれる親の代理となってくれる他人、を求めます。
その関係が作られた時、人生は終わります。先が無くなってしまうのです。
我慢し続けて未来などない今を送ることになります。
行き詰まったならば、救いなど人間に求めないことです。
自分自身の中にこそ必要なものがあるのだと信じ、恐れることなく自分の核を自分自身の心の目でよく見ることです。
自分自身を見ることを、決して恐れない。
自分の味方となるためには、どんな自分でも直視する勇気が必要です。
どうか自分を見捨てないように。
あなたのためにたった一人与えられた唯一の人間ですから。
それがどんなものであっても、内なるものの全てを無視して嫌うことのないよう。