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弱点はそれぞれ違う 自分の弱点を知る

まだ見ぬ友人へ

 元気か。君よ。

 僕は、なんとか生きているぞ。

 君の弱点はなんだ?君は自分の弱点を知っているか?

 「こういうタイプやコミュニケーションに弱い」という傾向を知ることは大切だ。

 そして自分が一体何に一番苦労するのか知っておくことも大切だ。

 僕は自分の弱点を知っている。自分に似た人か?いいや。その場合、僕は自分に対するのと同じように、厳しくもできるだろう。

 人は親に似たタイプに弱い。そこが弱点になる。

 そして僕は、率直に言って女に弱い。女に苦労してきている。

 僕が書くことは、女子に厳しいと思わないか。

 知っている。自分が女に弱いことを知っているので、できれば恐れてほしいと願っている。

 これが、過剰な表現や誇示する表現は、その反対である表れという心理だ。

 ここまで冷静に自己分析できるのに、僕は女だけはどうにも苦手だ。

 嫌いなのではなく、この違いを理解していくことは最も困難だと考えている。

 僕は人生において、一方的に女子に好かれるたび一年から二年の停滞を余儀なくされる。だから警戒して生きている。

 ラジオに出た後は特に、自分ができれば70歳の爺でありたいと願った。

 「好きにさせたのはそっちなんだから、責任を取れ」

 という人に、何度となく出会うのはなぜなのかと思う。

 僕は好きになっていないから、責任は取らなくてもよい。

 教授が著書に「女は嘘をつく生き物だ」と書いているらしい。僕もそう思う。

 そして人間は自分にあるものは自覚すれば人を見てもわかるようになるが、自分にない部分は見てもわからない。

 女だけはどうにもわからない。

 高名な心理学者をして「恋愛だけは解明できない」と言わしめたほど、この垣根は高い。

 僕は男ならば相談者を怒鳴りつけることもあった。

 怒ったわけではない。つい感極まって涙を流して訴えてしまう。

 「そのままでいいのか!悔しくないのか!」

 そんな風に言いながら、涙を流して相手の目を見ると、相談者も目を赤くして涙を浮かべている。

 ということが、何度もあった。

 悔しいだろう。このままでは終わりたくないだろう。という男子の気持ちはわかる。

 女は苦手だ。

 わからない。そしてそこまで厳しくできない。

 僕は女系家族にいた。というか、男は早くに死んでしまった。女は長生きだなと思う。

 女は、束になると強い。なんなんだと思うほど、束になると強い。

 あの理解できない勢いというか、やり取りは、入っていけないものがある。

 時々、殴りたくなってくる。

 僕の一族は複雑で人数が多い。故に僕は祖母と呼ぶ人が何人もいる。

 僕の家の中では、「ババアは話を聞いてない」ものだった。

 そして「おばちゃんは勝手に決めつけて指示する」ものだった。

 男は…

 みな優秀なのに、口数少なく、大人しかった。

 気性が荒い男は、みな早くに死んだ。男が頂点から消えると、システムが変わった。

 完全年功序列。どんな理不尽にも耐えたが、ある時年上の姉さんを一発ぶん殴った。

 すぐに、うわーん!と泣いた。

 「力の差があるんだから!ケガさせるでしょ!」

 と僕が怒られた。

 僕は女に忍耐強いが、その分、殴りたくならない女が好きだ。

 「そこまで言ったら、誰でも殴りたくもなるよね」という女がいる。

 僕はつい情けを出してしまう。ついついズルズル行く。

 どうにかならないものかと思い、三十も後半になると、「そうか、もっと冷たく厳しい態度になろう」と決めた。

 ところが僕は、人間が好きだ。

 人間は好きなんだ。

 女子が「性的な目で見ないでください!」と言う。

 僕も性的な目で見ないでくださいと思う。

 なぜ、女はシャワールームの入り口で

 「おばちゃんが洗ってあげようか!」

 と言っても、許されるのだ。理不尽だ。男ならばセクハラで訴えられる。

 だが、世の中とは理不尽なものだ。

 少なくとも僕の個人的見解から言えば、女は浅知恵だ。

 感情で動く。

 だがそれでいい。それがなかったら可愛げがない。

 男が思う「かわいい」は馬鹿にしているわけではないと女にはわからない。

 話を区切れない。脳を分割できない。

 AVを浮気と言う。その区別が男にはあるから、理解できない。

 「私のことが好きなら、他の人に性的な魅力を感じないはず」が理解できない。

 性は性。という感覚が理解できない。

 R18として書いていいだろうか?内容に迷うことがある。

 読みたくないならば、引き返せ。

 

 これは、案外よくあることだ。

 何かで聞いたこともある。

 セックスが終わると、男は即切り替わっている。

 女はぐったりする。

 この違いに、女は怒る。好きじゃないとか、体だけとか言い出す。

 しかし、これは動物的な違いなのだと聞く。

 オスは生殖活動が終わった後、外敵や別のオスからメスを守るため、即切り替わらなくてはならないのだという。

 これを読んでいる中に、メンズがいることを僕は祈っている。

 性生活についてアドバイスするカウンセラーが、メンズに対してこう言う。

 「女性は上がる時も下がる時も、波がゆっくりなので、男性はそれを理解してそのまま一緒にいるように。」

 そうか、そうなのか。と思った。

 ずいぶん昔の話だ。通りで、怒られたわけだ。

 こうした違いについて、性に閉鎖的な日本では口に出さないことが多い。

 だが、違うのだからしょうがない。

 男から見て、女は頓珍漢だ。

 何を言い出すのかと思う。だが、それがないと可愛くない。

 そしてそれが大きなヒントをくれることがある。

 だからそのままでいい。

 

 おっぱいさえなければ…そんな悩みを抱えたこともある。

 僕自身、何がしたいのかわからないがフロイドの口唇欲求について調べ、自分は母親への愛着が終わっていないからこんなにおっぱいが好きなんじゃないかと思った。

 煙草も言えないくらい若いころから吸っていた。口唇欲求が満たされないと、喫煙するとフロイドは言う。

 満たされるわけがない。母親は不在だった。

 僕はただ、遠くから大人たちを観察していた。

 おっぱいについて書けば、本が一切書けると断言できる。そのくらい好きだ。

 尊敬する文筆家の千田先生が、おっぱいに全く関心がなく、「ブラジャーも外さないで終える」と知った際に、驚愕した。

 彼曰く、「母親が僕はおっぱいが大好きだったから、もう満足したのだと思う。」だ。

 その通りだろう。なんて羨ましい男だ!ならば俺はどうしたらいいのだ!

 喫煙の危険性を説くあれは、どうでもいい。

 「危険性を高める可能性がある」とかなんとか表記しているが、専門家たちはガンに結び付く根拠は何もないと知っている。

 血管の収縮など、可能性を高める理由はわかる。

 だが、アルコールも同じことだ。

 電子タバコを売りつけ、そのシェアは日本が98%。フィリップモリスはインドに市場拡大しようとしているらしいが、日本人向けに売りつけていることは明白だ。資本主義おそるべし。

 喫煙者を迫害し、叩きどころにしている間に酒税を緩和する。

 そこで真っ先に値下げを報じられた銘柄は、元締めがあの財閥。

 もう出来レースにしか見えないので、どうでもいい。こんな報道にいちいち右往左往して「これって良くないんだって!」とか「安くなるらしいよ!」とか、やっていられない。

 踊らされてやたら煽られてたまるか。

 資本主義社会では考えなくては生き残っていけない。

 予防接種さえ、仕込みが発覚した。なのにアメリカで検証し提出したあれこれは、こっちに来る前に揉み消される。

 だが、僕が知るある医師の娘で研究者でもある人が、その犠牲となった。

 彼女は今闘病しながら、新しい情報を懸命に得て分析を続けている。

 都合の悪いことは消されていく。何が正しいかわかったものではない。

 なんせ僕自身、正しいことは上の許可を通らないと広められないと知って驚愕したのだから。

 どういう政権かによって、世の中は変わるのだとよくわかった。

 ステレオタイプが多ければ、これが正しいと権威が流せばよい。

 自分が専門家でもない人たちが、検証したわけでもないのにそれを振りかざして思い通りに社会を作ってくれる。

 間違いを正しいと報じても、それを信じ込んだ無知な人たちが社会を理想的に変えてくれる。

 という方法は、ヒトラーが既にとっている。

 そして知らなかった、言われたとおりにやっただけ、だまされた、なんてことは許されず、ドイツ難民はナチスが倒れた後、迫害された人々、それまで自分たちが叩いた人たちによって、殺されていった。

 そしてそれを国連も、黙視した。

 今社会の正しいを振りかざしている人たちは、やがて同じ目に会うのだろう。

 だから自分の判断が大切なのだ。ナチ党がどうやってあの地位についたのかなど、学校に行っていればわかっていて当然。知らなかったでは済まされない。

 義務教育は義務。義務を怠って知らなかったでは済まされない。

 判断などできて当然。それが現代社会だ。

 材料を配られた以上、知らないなど許されないのだ。

 

 話は逸れたが、僕はいつもこんな話をしている。

 女には口が悪い。

 だが、結局は面倒を見ているのがよくないのだろう。

 人間が好きだからだ。

 口先で自分は悪くないとか、あの人がひどいと言う人が、誰の面倒もみないし、誰も救っていない。

 そんなことは、身を犠牲にして誰かを助けていなければ言うだけ恥だ。

 できてもいないことをやってくれないなど自分の格が「低いです」と訴えているようなものだ。

 僕は二年前、ある女性に入れ込まれてこう言った。

 「俺は勉強がしたいんだ。自由な時間は全部社会に役立つことのために使いたい。お前が何をしていても自由だが、社会のために身を投じる人が少ないこの国だからこそ、俺のような個人の欲を捨てた人間が減ってはいけないんだ。結果としてお前が生きるこの社会を良くするためだから、つまらない男だと思って嫌ってもいいから、この日本の精神衛生のために時間を使わせてくれ。」

 というと相手はこう言った。

 「私のこと嫌いなんでしょ!」

 こうして、自分の相手をさせるために社会のあれこれを放置できる人間を増やしたいのだ。

 自分の過去や家族の話をきいて、自分の毎日の愚癡を聞いてくれて、人生に付き添ってくれる人が欲しいのだ。

 社会のためにと考えない。放置してくれない。

 そしてそれが、なんの不自由もない超富裕層。

 そしてそれを庇う庶民。

 可哀想!と庇う。

 なんの不自由もない、可哀想と庇う庶民の女子たちを見て「ちょっと理解できないけど、それが家の格よね」という女子の一部分を切り取って、庇う女子たち。

 または、理解もしないで叩く女子たち。

 どうなっているのだ。

 と思うからこそ、僕はなんとかする人たちと協力していきたい。

 最近になって、自我が芽生えてくれた。本当に感謝している。

 五年前の予定を無駄にして、二年を犠牲にした。一人助けるのも楽ではない。

 人を助けるなど、楽ではない。

 知らない家の知らない人のために、自分がやりたかったこと、成し遂げたかったこと、人生で辿り着ける目標としていた希望を、捨てなくてはならない。

 この人に出会ってしまった以上、もうあきらめるしかない、と。

 好きな相手ならばいい。そうでないのだから、そこで涙を飲んで、これが運命であったとより小さな幸せを見つけ、少しずつの精進をし、低い目標に着実に進めるように、心を入れ替えねばならない。

 妻や夫を愛し、うまくいきたいと願う人はいい。

 僕は好きでもない異性だ。恋愛もしたくなかった。

 うまくいきたいと願う人ならば、僕がやられたことなど、耐えるに大したことだと思わないだろう。

 愛する人がヒステリーを起こして何時間わめいても、その心の痛みを受け取って愛があふれるだろう。愛する人でなくてもできるのだから。もちろん苦痛ではあるが、それでも愛をもって接することができるのだから。

 夫婦ならばまだいい。夫婦なのだから。

 他人では困る。付き合いたくもないのだから。

 選んだ相手でもないのに、その事態だ。

 これが僕の苦行だなと受け入れている。そしてなんのためかも知っている。だからそれはいい。

 出会った女性は、一人も嫌いになってはいない。

 思い出せば、楽しい思い出ばかり思い出される。

 相手が僕を疑ってきたとき、いつも終わった。

 後から嫌がらせにも来るが、それも受け入れるしかない。

 その痛みがあって、喜びを感じられる。

 嫌がらせに喜びは感じないが、それがあって他での小さなことに喜びを感じるのだ。

 僕は今、どうしたらいいのか悩んでもいる。

 加藤諦三先生の最近の教え方を聞いた。

 僕と似たようなことを話していると知った。

 やはり、離れていても似たようなことを話している。

 似たようなことに問題を感じるから。

 「加藤諦三は二人いらない」とある出版社で言われ

 「ふたりいてもいいじゃないか!」と教授。

 僕はもめたくもないし、目立ちたくもなかった。

 偉くもなりたくなかった。

 ブッダの導く道に生きるならば、僕は地位や名誉を得ないまま生きねばならない。

 持たない人間のままでいなくては、「何もなくても幸せになれる」と言えない。

 好きになってくれた人に「俺はつまらない男だから、一緒にいても面白くない」と言う。ほかにいった方がいいよと。

 誰か自分をわかってくれる女が、たった一人でもいてくれれば…と思う男の方が、君にあうよ。

 俺はそんな風に思わないから、大事にされないと感じて不満しか持たないよと教える。相手の時間を無駄にしたくないから。

 相手は、僕が「生きる目的だけ変えた自分に出会うために生きてきた別人」になればよいと考える。今の人格のまま、「実はあなたのような人を探し続けていた」という別人になってほしいと願っている。

 だがいない。そんな人間になったら、僕が別人になっている。

 僕はつまらない男だ。

 人のために何かはする。やりたいから。

 だが、誰かのためにやる必要がないならば、僕は普段案外質素に暮らしている。

 僕一人ならば最低限でいい。最低限では満足しない人のためにそうではないことをする。

 僕は情緒を知っている。違いを既に知っている。だからもういい。

 必要な時はやる。理解できればもういい。

 僕は時間を無駄にしたくない。

 集中するとインスタントラーメンばかり食べているので、愛する彼女は心配して叱りつけてきた。

 「体壊すわよ!だめよ!」

 と。

 今では、彼女に叱られないように一人でも一応気を使っている。

 子供が先日こんなことを言ってきた。

 小学生で特許を取った天才少女の話だ。
 何かを見てじっとしているとき、考えてるので背中に「声をかけないでください」と張り紙をするらしい。

 僕もやったらどうかと言われた。

 僕は合図を決めているが、娘には様子で察するように言ってある。

 「俺が思考しているときは、邪魔するな。邪魔されると自分でも信じられないほどの怒りが湧いてくる。」

 もう察することができる。思考の邪魔はしない。
 様子で見てくれる。慣れている。

 こんな状態に、耐えられる女はいない。

 いつもかまってあげるわけではないから、日常はともにできないだろう。

 僕の日常は、つまらない。僕以外の人には。

 大したことをしていない。

 ただ、最近は白黒の戦時中の映像を何時間でも見て、本を読み、調べ物をし、植物や魚の世話をする。

 そして仕事をしている。

 自由な時間に何をしたいかと聞かれたら、今ならば「本を読みたい」と言うだろうか?

 知っておきたい、興味があることは沢山あるが、遊びたいわけではない。我慢ではなく、欲求がもう変わっているからだ。

 大人は人生をかけて、社会で本番をやっている。

 真似事はもう終わりだ。

 手習いもしたいが、なかなかできない。困ったものだ。

 武士の子が剣術もできないのだから。

 乗馬も少々だ。

 そして世間に疎い。

 知らない。

 だが、人間は好きだ。

 人間が僕が何かを知らなくて馬鹿にしてきても、僕は人間を嫌いにならない。

 知らないから仕方ない。

 それは馬鹿にされるほど、知らねばならないことなのだろうと思うだけだ。

 

 なぜ、誰もが「自分と同じことを知っていて自分の過去も知っていて、同じものを欲しがっている」と僕を見るのだろうか?

 知らないし欲しくないし、知らない人のことは知らない。

 これが欲しくて当然!これがあったらすごい!

 と思うそれを、僕は欲しくない。

 悪い面も知っているから、欲しくない。

 教授も、情緒について話しているらしい。

 教育、教養の違いを。

 動物のような扱いをして子供を虐待する人がいる。ニュースになる。

 虐待そのものより、その扱いが信じられない。

 情緒的感覚が育っていないのだ。

 同じ虐待でも、家畜のような扱いはさすがにしない人もいる。

 「家畜じゃないんだから!」とよく子供のころ叱られた。

 だが、付き合った女子がその「家畜並み」をやっていた。そういうときは、心の中で驚いても黙っているものだ。

 何か理由があるに違いない。と。差別してはいけない。僕の家がすごくも偉くもない。今はみな同じ。社会的に地位ある父がいる彼女の方が今では上。

 彼女に学ばなくてはと思っていた。
 だが、そこに意味はないといわれた。

 何かの躾、教育ではないのかと思ったが、違った。理由がわからなかった。

 そこに家の教養が出てくるのだ。

 わかっている人は、言わずに黙って離れていく。それも知っている。

 本当に自分を「だめだな」と判断した人は、黙って離れていく。

 いいことだけ言って、離れていく。もう離れるから。

 いいことを言われて喜んでいる人はわかっていない。結果いなくなるのだ、という事実が重要なのだと。

 何が必要かはわかっている。

 自分が正しいと知ってもいるし、僕はわかっている数少ない人間であることも分かってはいる。

 目立つ前線に行くことを拒否した以上、何か独自のものをと思いはする。

 だが、どうすれば伝えられるだろうと思う。

 

 おそらく、教育によって身に着けた人は少ない。

 五感の教養を。

 そして身に着けない人にとってそれは「できると優位に立てるもの」なのだろう。そういう誤解した感覚なのだろう。

 感じることを、教育されていない。

 教育されていない、と書くと、また上か下かで差別したがる人もいるかもしれない。

 自分が下になれば、人を当然のように攻撃する口実ができるから。

 だが、安心した。

 僕が以前から書いている日本の階級制度について。同じことを考えている人がいた。その道の専門家、つまり歴史の方に。

 やはり似たようなことを考える人はいる。

 いきなり階級を無くしたことは間違いだった。というか、そうしろと要求されたのだが。

 そうさせられただけなのだが。

 どうしようと悩む。

 コミュニケーションをと教えることも必要だ。それは万人に共通だから。

 精神分析療法はある程度思考力がないと使えない。自己分析できない人は、ただ反発して終わる。意味がない。

 少数精鋭に通う人たちは、超緩い中でものづくりをしてお茶を飲んで、僕の話を聞く。時に授業のようにも話す。必要に応じて臨機応変だ。

 自分で言うのもなんだか、ここで教えているすべてが大切なのだ。

 あれを楽しめる、理解できるようになると、世界を見る目は変わる。

 家の中で教わる教育を、施している。

 都度生徒の悩みにも答える。

 全部必要。という意味が、できるようにならないとわからないのだ。

 教養、違いを理解する感覚。形ではない。

 それらを身に着けることで、他のすべてにおいて違ってくるものがあるのだ。

 

 それを代々受け継いでいる家と、そうでない家がある。

 内容にも段階があるが、より高められる素地。がなくてはならない。

 人の家の話は聞きづらいものだが、おそらく、家の中で一切教養について教育されていない家が多くある。

 それは、もう見えないところとなり、みな平等の立場になったので「習う」ことはなくなったのだろう。

 昔は違った。身に着けるため、教わるために奉公に上がった。

 ちなみに僕も武家の人間なので、格上に対する態度は教わっている。

 「最初から目指せないものがある」と知っている。自分たちが目指せる範囲を弁えているから、無駄に上を目指さない。

 やたら人を攻撃している人は、栄えない家の人だ。

 まだ投稿もしていないが、超、長文の、超、真面目な話の文章に書いた。

 武家や公家をうらやんでいる人は、えた、ひにん、という人たち、部落の人たちのことまで考えているのだろうかと。

 今もいる。

 調べれば、わかるようになっている。

 そこに違いがないのかと言えば、ある。

 同じになったという人たちは、王室で育った15歳と自分の15歳が同じだと思っていないだろうか?

 貴族の親と、農民の親、愛はともかく、教育が同じではないと気づいていないのではないだろうか。

 僕が思うに、教養を身につけなければ、どんなに勤勉に頑張っても、ある程度までで頭打ちになるだろう。

 そこから脱するには誰もが習ったことでは必ず足りなくなるから。

 なぜ、みんなと一緒にではないと困るのか?

 僕は少数精鋭で「君だけでも助かれ」というやり方でやっている。

 だが、神経症の人は特別扱いされたがるのに、皆と一緒になりたがる。

 みんなに配られないと、やらない。

 全員でやるのでなくては、嫌。

 みんなで同じことをしていながら、自分だけ選ばれたい。

 

 どうしよう、と悩む。

 教授の最近を知り、より悩む。

 お労しい。そこまで言わねばならなくなったのかと。

 すぐに「すごいね!」と言われそうなことをやりたいのが、神経症者だ。

 確かに、実力を身に着けるのは面倒だろう。

 だが、「楽しい」という気分を感じなければ、何をしても喜びはない。

 先日、名古屋でも楽しかったなと思い出す。

 僕は人に直接会うのが好きだ。

 最初は緊張するだろう。先日、ある家族と対面し、ああ僕はやはり坊ちゃんなのかもしれないと思った。

 僕が相棒をワイルドに感じたのと同じくらい、人は僕を坊ちゃんに感じるかもしれないなと。

 ものすごく細かいところに、違和感を覚える。

 言語化はすぐにできない。

 そこに、教養が出ているのだ。

 今、占いのように結果が欲しいのが褒められたい人だが、褒められたものかどうかなと言われなくても自分で判断できなくては困る。

 そしてそんなことはどうでもよく、今後のために身に着けるのだ。

 どこかで、誰がか謙虚になり身に着ける必要があるのだ。

 情緒を知る、という教育、そして違いを知る、という教育を。

 その人から、変わっていくのだ。子孫まで。

 それも少しずつ、少しずつ。代を重ねるごとに。

 

 話題は相手を選ばなくてはならない。

 この人にはどんな話題がいいかな、と。

 相手が知らない話をしても仕方ない。

 映画、音楽、芸術、僕としては、落語や歴史、茶道などの嗜み。

 話題についていける程度でいいから、身につけなくては話ができないだろう。

 「この人に話してもどうせわからないだろうな」という判断をされるときの方が、怖いのだ。

 できる人ほど、相手のレベルを見て合わせてくれるから。

 相手によって合わせられるほど、レベルが高いのだ。

 だからこそ、知らないことを教えてもらうためには本質的に「関連性までは及んでいる」程度の教養が必要だ。理解できないから。

 誤解ないように書いておく。

 名門と呼ばれる大学を出ているだけでは、足りないのだ。

 お勉強ができても、それが教養まで昇華しなければ、結局覚えたことを繰り返すだけ。

 それが身に付き、話題に出せて、冗談のネタになり、勉強とは呼べない範囲になって初めて教養だ。

 それが身につくと何がどうなるかも、身に着けてみなくてはわからない。

 とにかく、わからないからやるのだ。

 知らないから、体験するのだ。

 覚えるならば、形だけで済む。

 楽しむことまでできて、教養なのだ。

 

 来てみたい友人は、僕の教室に体験に来るといい。

 他ではやらないことをしていることは、間違いない。

 学校では決して教えないことだから。

 その分僕も、チバニアンとか漫画の名作とか、あれこれ教えてもらっている。

 

 さて、君は自分の何が弱点か知っているか?

 人生で何に悩まされる?

 僕は最初に書いた通り、女だ。

 「女難の相だな」なんて友人に言われたが、これは難ではないのだろう。

 必要あって、僕を成長させてくれているのだ。

 その分、心優しい人にも出会っている。だからイーブンだ。

 

 君も何かに苦労すると思うが、きっとそれは君の人生のための苦難だ。

 頑張れよ、友人。

 道は違えど、同じ世界を生きるのだから。

 

最上 雄基

 

 

 

 

 

 

本当にいるの?

まだ見ぬ友人へ

 メディアでは確かに存在しているのに、実際には身近で見かけない人がいる。

 例えば、それは男性と同じように働き結婚はしたくないという女性。
 そのような人たちが「沢山いる」という。

 ところが、僕はさっぱり見かけないのだ。

 僕の知る女性たちは、働いてはいても、正規雇用社員であったとしても、できれば良い恋愛をして、幸せな家庭を築き、可能であれば専業主婦になりたいとも言う。

 社会のために活躍したいと、日夜政治や社会について語り合い、より向上するための方法を探している女性にちっとも出会わない。
 一般的なところに沢山いるはずなのにだ。

 そうしたいのだ、と口では言う。
 そうなのか!と僕は嬉々としてこの国の未来について、また社会について共に考えていこうと話をする。
 だが、本人が「望んでいる」と言っているのに実際意欲的に情報や意見交換をしようとしない。

 僕は政界にいるある女性と交流をした際、確かに日本の未来を考えて社会について語り合う人を見た。そして語り合った。
 意欲をもって、知らないことを知ろうとし、それぞれの場についての問題に関心を持っていた。

 どのような場にいても、社会で活躍したいと願うならば社会のどんな問題を解決するため、どうやってなんの役に立ちたいか、日々考えて生きているものだ。

 ところが、「私もそう思ってる」と言う身近な女性の中には、そんなことより自分の過去の恋愛や、家族に対する不満、または流行りの遊興の話ばかりしたい人しかいないのだ。

 本当にそう思っているのだろうか?
 より広い場出て活動したいのならば、より向上したがるものだ。
 今いる場でより向上したくても、できるだけ多くのことを知り、また学び、体験していきたいと思うものだ。
 他人との意見や情報の交換は、大変役立つものとなる。

 男尊女卑を離れ、世界基準に近づくため、自分たちも早く活躍したいと願う女性が沢山いるはずだ。
 沢山いるからそのために、女性は育児や家事の問題を解決したいと願っている。

 全ては、働くためだ。
 社会で働くため。

 ということになっている。

 活躍、というが、要は、社会でより能力を発揮し働くためなのだ。それは決して悪いことではない。

 社会のため、国の未来のため、女性たちも同じように活躍したいと願うようになった、ということなのだから。

 そして働いたから偉いわけでもない。
 外での仕事と家庭内は別なのだから、同じように働いても家庭は家庭で別の問題として存在する。

 この区別ができないのは、権威主義の父親だけで十分だ。

 そしてなぜか、実際には僕はメディアで見るようにそのような女性を見かけないのだ。

 言われていても自分では見ていないので、僕はまだ「女性たちの望む生き方は変わった」と断定できない。

 恋愛したくない、と言い続けるのは、離婚した友人。
 結婚していたから不幸だったと言う彼女は、一人になってもいつも不機嫌そうにしているし、自由になれば幸せになれると言っていたのに自由になっても何もしない。

 うまくいかないことを人のせいにして、遂に周りから人を全員遠ざけてしまい、残るはこちらから声をかける僕一人になってしまった。
 彼女は他人のせいで不幸だと言うが、実際のところ彼女自身も誰一人幸せにしてはいない。

 それだけではない。

 あれの被害に会っているとか、本当はこうしたいとか、声を上げる人に続けという「非難の嵐」。それを社会では現在「正義」と呼んでいる。

 人を批難することが、正義となってきたのだ。
 恐ろしい時代になってきた。
 大衆がやめない限り、止まらないだろう。

 この形、あの頃に似ているではないか。

 多くのプロパガンダ映画が作られた時代。
 大戦前の時代だ。

 しばらく前から、僕はずっと、白黒の映像で過去の世界の歴史を確認している。人類の動きについて、確認している。

 このかつてに似通った形、また当時と同じ動きをしている大衆に、僕は危機感を拭い去れない。

 絶望による衝動に押し上げられ、猛烈な破壊活動で勝利する国民。

 その末路にあったのは、瓦礫の山と、争いは何も生まないという教訓だった。

 

 君が迷う時、何が正しいのか右往左往する必要はない。

 人を殺してはいけないし、人を悪にして攻撃してはいけないし、悪事と人は別のものとして考えなくては、失敗や過ちを犯す人を次々排除しなくてはならない。
 人の違いをバカにしてはいけないし、仲間はずれを生んではいけない。

 子供なら誰もがわかっている当たり前のことを、大人は全くできていない。

 そして失敗や過ちを犯さない人間はいないのだから、その考え方ではすべての人をいずれは排除しなくてはならない。もちろん自分自身も。

 今、なぜ苦しんでいるのか。

 その原因を自分の中に見つけることなく、外に答えを求めた人々は

 人間を排除するために生きることになるのだ。

 排除した人間は、排除された側に排除される。

 その繰り返しだ。

 いい加減、学ばないものだろうか。人類は。

 

 自らを排除せず、自らを自然のまま受け入れるというこの苦しみを乗り越えずに、外側を破壊しても天国にはたどり着けないのだ。

 違いを受け入れることで、共にそこにいることが可能になり

 平和な世界は生まれるのだ。

 

親愛なる友人へ

 最上 雄基

 

 

過去をやたら話すな

 人間関係を円滑にするために、守るべきことがある。

 今、そしてこれからに必要ない自分の過去をやたら話さないことだ。

 やたら過去を話す人は、自分に気を使ってほしい。

 黙っていたらしてもらえないことを、要求している。

 笑い話にしてみんなを楽しませたいわけではない。
 自分の過去に配慮して「私の過去に適応する努力をしろ」ということだ。

 しかし、人は気を使わなくてはならないことは避けたい。
 配慮などしなくてはならない人は面倒くさい。

 今その人がどうかだけならば楽なのに、今に関係ない過去の何かに配慮して扱わなくてはならない。
 それだけで、人は避けたがる。

 自由を奪われる。

 知らなければなんともないことも、知ってしまったら遠慮する。

 だからやたら過去は話さないほうがいい。

 過去の未練を断ち切るには、過去を利用しないことだ。

 過去に思い残しや恨みがある人は、過去を利用して未来の人間関係を作ろうとする。

 過去のためにこれからの人生を使ってしまう。

 「過去にあれこれしたかった、してほしかった」

 これを今からの時間で叶えようとしてはいけない。

 今は今で、人間には必ず何かの欲求が生まれているから。

 今の欲求を今満たせば満足するが、過去に叶えたかった欲求を今満たしても、満足はしないから。

 まず、今の結果を受け入れることだ。

 できなかった。

 思った通りにならなかった。

 「どうしたら思い通りになるか」を考えるのではなく、まず「できなかった」という事実を受け入れる。

 そして、これからどうしたいのか考える。

 例えば、結婚を失敗した人が何度でも同じことを繰り返す。
 今度こそ、と繰り返すことはチャレンジ精神旺盛だと言えない。

 なぜならば、その結婚自体後ろ向きな恋愛から生まれたものだからだ。

 今の自分で生きようとしない人は、過去を利用する。

 そして人に気に入られるために「将来の期待値」を上げようとする。

 現実に今何かできるわけでも、結果を出せるわけでもなんでもない。

 説明によって未来の期待値を上げようとする。

 実際の自分より高値で人に売りつけようとする。

 たった今の自分こそ、最も大切な価値だ。

 たった今の自分の価値で生きることこそ、大切なことだ。

 今の自分が、今の自分自身だけで今を生きる。

 それが全員にとって当たり前のことなのだ。

 自分と同じことをする人がいたら、ぜひ選びたい。

 そんな自分であることだ。

 過去は一度利用して味を占めると手放せなくなる。

 過去を手放せなくなったら、今を生きられなくなる。

 「今、ここにある自分」をそのまま受け入れる。

 そこに是非など必要ないのだ。

 そうなのだから。

 理由はどうあれ、そうなのだから。

 そして他人には理由など関係なく、今どうなのかだけしか必要ないのだから。

 過去を語らなくなれば、人は自分に対して勝手な想像で接してくる。

 その勝手な想像の中身に、相手の人格が出る。

 だが、過去を利用せず、自分の価値を底上げせず、ただそこに今ある自分として接してもらえた時、人は「受け入れられた」と感じるのだ。

 どんなに相手が受け入れてくれる人であっても、自分が今の自分で勝負できない限り、受け入れられたとは感じない。

 自分として生きている人をいくら受け入れることができても、自分を今のまま出せなければ、今の自分の意思を伝えられなければ、受け入れられたと感じることはない。

 理解しあうということは思うより遥かに難しく、一方的に受け入れるだけではだめなのだ。

 互いが自分の自然な姿を出していて、初めて成り立つものだ。

 今の自分じゃなくて、これからの自分を見て接してほしい。

 今の自分は過去のせいだから、今の自分だと思わないでほしい。

 そのようにして、今の自分を存在させないならば、誰も受け入れることはできない。

 自分が受け入れない限り、誰にも受け入れてはもらえないのだ。

 そこにまず自分が存在することが必要なのだ。

 過去を語り過ぎれば、相手のすることがいちいち許せなくなる。

 知らなければ許せたものも、許せなくなる。

 だからやたら過去は語らないほうがいい。

 過去は今の自分に必ず関係している。

 過去があって今があるのだから、いちいち語らなくとも今の自分でいればいいのだ。

 それが現実の結果なのだから。

 絶対に何があっても受け入れる他人がいない人が、他人に絶対の安心など求めるものではない。

 出会った時からが勝負だ。

 過去は決して変えられないし、消せない。

 だからこそ、黒歴史の過去など残さないことだ。

 自分の人生でやり直しは聞いても、相手との人間関係に「やりなおし」はないから。

 一度経験したら、二度と忘れないから。

 今の関係があることも、過去があるからだ。

 過去にあったものを無いものにするために努力することは不毛だ。

 無いものにしたい過去ならば、自分が作らなければいい。

 言い訳したいような過去ならば、やらなければいい。

 しかし、その時はそれしかできなかったのだ。

 それが、自分の実力なのだと受け入れることだ。

 過去の失敗は、失敗であっても自分にとっては最大限の自分だ。

 後悔はいくらでもできるが、実際にやったことはひとつなのだ。

 言ったこともやったことも、ひとつなのだ。今はひとつしか残せないから。

 そのたったひとつの今を、どう生きたか。

 それこそが、自分の価値だ。

 それが自分なのだ。

 あらゆる理由があったうえで、どうしたかなのだ。

 過去をこれから作るなんてことはあり得ない。

 たったひとつの今にそれを選んだことそのものが、自分にとっては意味あることなのだ。

 自分がそのたったひとつを選んだのだから、結果がどうあっても過去の自分を責めないことだ。

 そして他人を責めないことだ。

 誰が悪いかなんてどうでもいいし、決められない。

 ただ、「そうだったのだ」という事実があるのだ。

 過去を繰り返そうとせず、完璧に叶うまで何度でも同じ夢を追わず生きることだ。

 失敗した過去も、今を生きればやがては輝く軌跡となる。

 振り返った時に、過去が輝く軌跡に見えるような今を生きることだ。

 今を生きるしかないのだから。

味方は自分で決めている

まだ見ぬ友人へ

取り急ぎ書きたくて仕方ないことがあるが、そちらは体力と時間が必要なので、今は少々君に伝えておく。

 良い兆しあり、これは役立つ経験となりそうなのだ。

 神経症が完治した瞬間を見た。
 それはほんの一瞬で、見た目には何も変わらない。

 この瞬間に何が起きたのか、それすら殆どの人がわからないだろう。

 その経験を得て、君にひとつ伝えられることができた。

 味方と敵は、自分で決めているのだ。

 「自分が人に対してどのように接するか」で決まる。

 例えば僕は、人を敵として扱わない。

 「どう扱うか」なのだ。

 自分への扱いが他人への扱い

 自分を味方にしている人は、他人を味方として扱う

 自分が接する時の扱いしか、選べない。

 自分が相手に対してアクションを起こすときに、どのように接するかなのだ。

 相手をなんとして扱うか、それで「自分にとって相手が味方か敵か」が決まる。

 この人は味方にしておいたらいいな、と思う人には味方として接する。

 相手を味方として扱うということだ。

 自分から誰も敵として扱わなければ、自ら敵を生むことはない。

 自ら敵を生むためには、自ら敵意を持って人に接すれば良い。

 非常に簡単なことだ。

 自分で決められる。

 もちろん、自分からは味方として接しても相手が味方として扱ってくれるかは決められない。

 自分から接するときに相手をどう扱うか、そして誰かが接してきたときにどう扱うかだ。

 非常に単純なことなのだ。

 人は大勢いるが、直接接点を持つことはまずない。

全人口のうちの、どれだけの人と人生で出会うだろう。

 そしてどれだけの人と実際に接するだろう。

 損をしないためには、この人は優れている人だとか、話を理解する人だとか、何かあらば助けてくれる人だとか、そう思える人には特に味方として接することだと思う。

 人は実際に目の前で接してみないとわからない。

 僕は超一方的に母親に批難されることがあったが、僕には僕の理由があるのに聞いてももらえなかった。

 故に、今何をしていても、また過去に何をしていたとしても、本人には本人の理由あってのことだと考える。

 大切なことは、自分に対してどう接してくるかであって、これまで何をしていたかではない。

 僕が弟と呼んで可愛がっている少年も、ネットの掲示板で炎上しては喧嘩になっているような子だった。

 だが、弟には弟の理由があったし、一度は学校を辞めたもののがんばって模索しながらあれこれと努力はしていた。
 今も可愛い弟だ。

 まず世間から見ればあまり良い子ではないだろう。
 だが、それなりの理由があるのだ。

 どんなにまずいことをしていたとしても、本人には本人の理由がある。

 まずいことはまずいことに代わりないが、それなりの理由は誰にでもあるのだ。

 僕は自然の流れを大切にしているので、僕が選べない他人からの扱いについてはこう考える。

 もし相手が好意的に接してきたならば、僕が何かしてあげられることのある人だろう。
 もし相手が敵意を持って接してきたならば、僕にしてあげられることはない人なのだろう。

 ある時期になると、いつも考えることがある。

 多くの人が権威や役職を絶対のように考え、「~が言ったから正しい」なんて思いこむものだ。

 しかし、社会的には僕より遥かに良い経歴と役職に就く方々の中に混じるにつけ、師の仰った「どんなに学歴があっても地位があっても、その見えないものを見る目だけは滅多に持つ人がいない」という言葉を思い出す。

 彼自身「心理学者でありながら…」というくだりを著書に書き記していたが、確かにと納得したのは自ら経験をした時だった。

 話を聞いていると、治療にあたる人の息子が完全にノイローゼ。
 何をしたいかわからないと言い出すのだ。

 それをどうしようもなく困ったことのように扱いながら、「どれだけの金がかかってると思っているんだ」とこぞって社会の理想に倣わない子供たちを批難する。

 そりゃあそうだなと思う。
 それなりの地位や学歴を持った人々からすれば、せっかく援助してやるというのに言うことを聞いて「感謝しない」など恩知らずなことだ。

 僕のように自由にして良いと思う人間は少ないし、とても正しいことだと言えないだろう。

 だが、正しいかどうかではない。
 本人がどうしたいかなのだ。

 かつては僕も「治療者でありながら」と思った。
 しかし、そうではないのだと思いなおした。

 僕より遥か経験ある先生方のこと。
 差し出がましい考えだ。

 何よりも、人々が求めるのだからそれでいいのだ。
 神経症は遺伝の病。
 全体がそうなのだから、権威や役職を信じる人たちとて、自らの親たちと同じだと思えばなんともないことだろう。

 何よりも、理屈で間違ったことはしていない。
 きちんと必要なことはやっている。

 神経症の人は心を見て欲しがっているようで、実際のところは誰かの判定を欲しがっている。それもできるだけ強い権威からもらいたい。

 なので、別に権威ある人々に従ってうまくいかなくとも、怒ることもないだろう。

 何を信じるかは自分が決めたのだから。

 あまり医者や学者を絶対だと思わないでほしい、とハーバード大学心理学者のランガー教授は言う。

 私たちにもまだわからないことは沢山あるし、絶対とは言えないのだからと。

 そりゃあそうだ。人間がやっていることだ。
 仕事でも問題が発生したら、今できる限りのことをするしかない。

 わからなくとも、どうなるか知らなくとも、今最善を尽くすしかない。
 失敗したらしたで、しょうがない。

 困ったことに応じて必要なものがわいてでるわけではない。
 困った困ったというならば、誰かができなくともなんとかしなくてはならない。

 できなくとも、なんとかしなくてはならない。

 心理学は奥の深いものだ。
 学んだだけで自分自身が変わるならば、全員が悟りを開いている。

 僕は僕で正しいと思うことをするが、今の世には必要ないと思うこともある。

 決まったことを一番できるかできないか、それはどこまで上に行っても同じことなのだから。

 そしてそれが悪いわけでもない。間違ってもいない。
 悪意もない。

 どこまでも利権が絡んでくることも、この社会を考えれば当然のこと。
 奉仕活動ではないのだから。それはみな重々承知だろう。

 権威主義の父を恨んだような人は、社会に出て外面の父親のような人を絶対視する。逃れられない連鎖だ。

 僕が不思議なのは、権力が絶対、社会の理想が絶対になってきたら、自分がそうなれていない人から劣等になるのに、自分がそうでない人がなぜそんなものを崇めるか不思議だ。

 自分が絶対に持てないものを持つ人を崇め、その力を使うからには

 自分がその分、価値を低くすることは当然のことだ。

 比較して上にしているのだから、比較して自分がより下になっていく。

 ある社会心理学者の先生が、生徒たちにこう聞いた。

 「タバコは実のところ絶対に癌になるという根拠はまだ見つかっていません。

 可能性が高くなる、というだけで、そうなると決まったわけではありません。

 なんとなく「危険性が高まる」と書かれればそうなるように思いこむだけです。

 そして今、この話を聞いてどう思いましたか?」

 まあ、色々な関連性を考えればリスクが高まることは間違いない。

 しかし、似たようなリスクで言えば酒も同じことだ。

 更に酔っぱらった人は事故を起こすこともあるし、暴れることもあるし、依存症にもなる。

 養老先生が皮肉るのもわかる。

 そうすれば、欲求不満の人々が叩く的も作れるし、電子タバコも売れる。
 世界的シェアの98%が日本だ。

 つまり、日本人から企業が儲けられる。

 僕たちは基本、休む間もなく働いて企業に金を落とし続けていればいいだけなのだから、別に問題ない。

 僕のように流れに乗らない人間は、非国民だ。

 良い学校を出て、高い学歴を持って、良い企業に入り、一般的理想の人生をいかにして送るかの競争なのだから。

 その競争がしたい人だけが、そこからはみ出して劣等感を持つだけだ。

 僕は自分がその流れに乗りたくないので、はみ出した人をなんとも思わない。

 だがはみ出した人をなんとも思わないようでは、立派な大人とは言えないのだ。

 好き好んでやりたい人だけがやっている競争なので、僕は気にしない。

 そんなことよりも自分が楽しい時間を過ごしていることの方が大切だ。

 仲間と共に苦楽を共にする人生の方が大切だ。

 僕のような書き物をしていれば、僕が気に入らないので敵になりたい人もいる。
 同時に、「どうしたらいいでしょう」と相談をしてくる人もいる。

 最近は、相談してくる人々が次々良い流れに乗っていくのでうれしい限りだ。

 味方、敵、スパイ、というものはスパイ家族に生まれてしまうと区別がつかないようだ。

 自分に好意的に対応してくれるのが味方。
 自分に敵意を持って接してくるのが敵。
 自分の味方のように接しながら、実際には無関心なのがスパイだ。

 いきなり噛みつく人もいるが、それが敵だ。
 初っ端から支配と服従の関係にならねば、始まらない。

 とはいえ、味方にしたいか敵にしたいかは本人が決めることなので自由だ。

 争いを少なく生きるためには、自ら誰かに敵として接しないだけでも十分だ。

 なので、自分から相手に直接アクションを起こすときには、好意的に接する方が得だろう。

 他人は自分のことを知らない。
 過去も、今も、全く知らないところから始まる。

 だから初めにどう接するか、そこからどう接していくかで相手との関係性は変わるのだ。

 自分次第。だから他人は良いものなのだ。

 親なんて自分がどうあろうとも、変わらないものなのだから。

 それにしても、最近はこと良い兆しだ。

 春めいてきたことだし、良い流れが来そうだ。

 君がもし、今不満な人生を送るならば、良い流れに乗っている幸せな人たちの中に入れてもらうといい。

 幸せなんて、即なることも可能だ。

 何かが起きてなれるものではないのだから。

 何かが起きないと幸せになれない、と思っている人は

 それが幸せではなく腹いせであることに気づいていないのだろう。

 勝ち誇った時には、誰かの恨みを買っている。

 ある外科医師は

 「生きたい」というのは嘘で、それは「死にたくない」なのだ。

 と言ったそうだ。

 その通りだと思った。

 「幸せになりたい」という人も本当は「不幸だと気付きたくない」と言っているのだから。

 

 君よ、つらいことがあろうとも、苦を捨てることのないよう。

 苦しみがなければ、喜びというものは存在しないのだから。

最上 雄基