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マネーパワー
これまで、いくつか確認したいことがあった。
経験の浅い僕が確認しなくてはならない、実際に体験しなくてはならないことは沢山ある。
もうあらかた確認し終わった。
僕の想像をはるかに上回る結果だった。
コロナのことはいいきっかけだったのだろう。
母も亡くなり、僕も今日々が通常通りではない。
数年前からの予定通り、また師の進め通り、僕は教えていくだけに専念して行こうと思う。
今後は、オンラインの配信や書くことが中心になるだろう。
僕は神経症というものがどんなものなのか、実際に体験しなくてはわからなかった。
僕自身が正反対に向かう人格なので、全く理解できていなかった。
また、一般的にどう理解されているのか知りたいこともあった。
常識についても知りたかった。
何をどう誤解したのか知りたかった。
現実を直視すればするほど、心理的には健康になる。
また、社会的なこと。苫米地博士が言う、お金教信者。
世界一の拝金主義国家となったこの国がなぜここまでおかしくなったのか。
それも知りたかった。
なぜそこまで金に拘るようになったのか。
離婚できない奥さんの多くが、経済的自立が困難であることを理由に離れられずにいる。
本来ただの役割であるはずの力を、支配力として使われてしまうのだ。
マネーパワーである。
悪用することのできる力というものがある。
そのひとつがマネーパワーだ。
日本人は金というものの力に魅了されてしまった。
金さえあれば、という社会になっていくのは、金があることを支配力に変えてしまう人がいるせいだ。
離婚できない奥さんは、この見えるものが持つ「見えない力」によって支配されている。
金という力は、非常に簡単に欲求を満たすことができる力である。
だから恐ろしいのである。何もかも金ありきなのだから、一旦いい思いをしてしまうと、金が手放せなくなる。
日本は元々みな親切で温厚である。
海外の人が日本に来て、サービスの良さや親切心に感激する話はよく聞く。
だが、今はそれが強要になってきている。
お客様は神様という考えを、間違った方に使っているのである。
苫米地博士は宗教についてそれを指摘した。
金を出して神様に言う事を聞かせようとするのは、神様を奴隷扱いしているのと同じだ、という指摘である。
その通りである。
金を払ったら言う事を聞いてくれる、そんな神様はいない。
二十歳の菩薩道、と僕は呼んでいるある青年がいる。
ユーチューバーとして活躍している、スーツ交通という男性である。
どうしたらその年でそこまでの考えを持てるのか、と驚くほど、自らの経験からより良い発展を遂げている。
彼は鉄オタという立場で配信をしているが、サービスを提供する側に対して客があれこれとケチをつける行為について否定的立場を取り、お客様は神様、という言葉について、こう述べている。
お客様は神様だからこそ、神様は小さなことで腹を立ててはいけない。
神様はもっと寛容なものだ。
彼は、自分の立場についてよく理解している。
彼の言う事は最もなのだが、これがわからない人たちについて、なぜなのかを考えた。
「お客様は神様です」
というフレーズは、ただのキャッチコピーである。
サービスを提供する側の言葉である。
それだけの気持ちを持って丁寧に尽くそうという姿勢である。
しかし、これは受け取り側が「俺たちは神様なんだ」と受け取れば支配力にされてしまう。
悪用されればの話である。
スーツ交通と称する彼は、マネーパワーを全く悪用しなかった例である。
「金を払う」という立場を利用しなかったのだ。
金を払う、という立場。
それはサービスを受ける側であり、労働させる側である。
労働する際は、金をもらうために働く。
それだけが理由ではないが、金という代償が発生するから職業なのであって、それがないとボランティアになる。
この場合、立場としてはサービスを提供する側であるが、形の上では一旦集まったお金を上から配分される形になる。
万が一、職場で身の程を弁えぬ輩が頂点に立ってしまったならば、集まったお金を自分一人のものだと勘違いしてしまうだろう。皆で得たものを配分する役目にいるだけである。
そのマネーパワーを使い下の者たちに服従を強要するならば、それは労働者の奴隷化である。
ちなみに、サービス業でなくとも何かを生み出し、人々に提供することに変わりはないのだから、立場としては同じである。扱うものの違いがあるだけで、本質的には社会のためになんらかの役割を担っている提供側である。
そしてその労働を経て賃金を得ると、今度はサービスを受ける側として金を払うことになる。
金を払う側になることで、マネーパワーを使える側になるのだ。立場上サービスを提供する側より優位に立つ「ことも可能になる」のである。
お店では「社長さん」と呼ばれるかもしれないが、それはあくまでもサービス内での話である。
マネーパワーによって納得がいかない労働に堪えている人は、この「サービスを受ける側になった際に感じる快感」がやめられなくなっているのではないだろうか。
我慢して労働していれば、金を払ってよい扱いを受けた時の快感はより強くなるだろう。
これが悪循環を生んでいるのではないか、と僕は考える。
マネーパワーによる奴隷化の加速を生んでいる。
強い力を持つ者は、その使い方を誤ってはならない。
そのような教育が、昔はあった。
少なくとも武士の教育の中にはあった。
お百姓さんの方が偉いんや、という僕の家で受けた教えもそれである。
士族にも色々いて、それは藩によって違う。優秀な一人がいて、一代限りの雇われ武士の場合もある。加賀藩においては、勘定役に雇われ武士が存在した。
僕の家は勘定役ではなく、「武士が金勘定をするな」とよく言われていた。物事をなんでも金銭に換算することは、品性下劣と教えられてきた。
その中でも「力を維持する状態」を継続していた一族には、少なくとも「力を持つ側の態度」に関わる教育があったと推測される。
僕の家がそうだったからである。
それなりの立場にあれば、この教育は徹底しなくてはならないと僕は思う。
力あるものが弱者から吸い上げる真似をすると、全体は一気に衰退していくからである。
江戸時代を成り立たせていた社会の教えは、全体の繁栄のために今も必要なものである。
西洋貴族化された社会になると、この思想は一気に崩れる。
それが問題だ。
僕が確認したところ、そもそも家庭内教育を全く受けていない家の人が多いようだ。
僕が教わってきたものは、一般的に「家訓」と呼ばれるもののようだが、親が子供に家の中で教えることを「家訓」だと思うことはなかった。
昔からそう教えているのだとだけは知っていた。
だが、その内容には「家と外の区別をしろ」というものが多くあった。
「家の中でなら何があっても生きてはいけるが、人様に恨まれるようなことになれば一族が滅ぶ」
そして、現代社会の多くの人は、一族を解体し、人様の恨みを買い、マネーパワーなしでは生きて行けない生き方を選んでいる。お金の奴隷である。
「外に出てからの作法」を学んでいない。
これは家の中で子供の頃に徹底的に教育されるが、一族が生きるためなので、外部に漏れていくことはない。外に出れば全ての人が「よそ様」であるのだから、他人の前ではただその教えを実行し、自分の身や一族を守るのである。
身を守るとは、「人様と敵対しない」ということである。
自らが敵対しようとしないのである。戦うという姿勢は万が一対立してしまった際に必要なだけで、敵対することがなければそれは必要ない。
他人は自分次第で敵にもなり味方にもなる。だから徹底的に「他人と敵対しない生き方」を教えていくのである。
万が一の時のために、誇りを守る覚悟も決めさせる。
切腹の覚悟である。
切腹の覚悟は、同時に戦う覚悟でもある。
武士が刀を抜く時は、死を覚悟した時だけである。
できるだけ抜かない武士の方が、強い武士なのである。
敵対しないためには、己の中での戦いに勝利している必要がある。
そのための精神鍛錬、精進である。
金という力は、使いようによっては支配力になってしまう。
相手の生活を揺るがすからだ。相手の生命の維持に関わることである。
それを使って行うのが、上司のパワハラであり、夫の経済的DVであり、また客の過剰なクレームや要求である。
「金を払わないぞ」
という力を支配力に変えるということだ。
人の命を軽んじる行いである。他人のライフラインを握ろうとするのだ。
なんらかの要求と共に、金銭のやり取りが打ち切られる結果を提示する。
これでハラスメント成立である。
この時が「戦わなくてはならない時」なのである。
ここで精神鍛錬の成果が発揮されるのである。
僕はこのマネーパワーを使った支配が嫌いである。
武士の生き様が正しいと思うし、それで世の中は良い周り方をすると既に知っている。
昔から続くやり取りをほんの少しだが、幼児期に見ていた。
あちこちの店に行き、買い物をする際に話をする。
買う側が頭を下げるのである。
お百姓さんの方が偉いんや、という考え方では、「売ってくれる人がいるから買えるのだ」という考えになる。
労働しているのは、売っている側である。
だからこそ、買う側は低姿勢なのである。
上に立つ者、この場合は買い手側が頭を下げるのである。
マネーパワーを使っているのだから、自分たちが頭を下げなくてはバランスが取れないのである。
横柄な態度で接したり、また媚び諂う態度で売ってもいないものを要求すれば、それは支配の意図となり対立を生むだけなのである。
前者は泥棒の家の者、後者は乞食の家の者。僕の一族の中ではそう分類される。
どちらも「力を持つ器ではない」のである。
金を払うことは、株を買うように「その店を応援している力になるのだ」ということを理解する必要がある。
その考えがない、力を持ったことが一度もない家では、金というものの力を誤解してしまったのだと思う。
元々九割が農民層である。
誤解している人がいるが、だからと言って残り一割が今僕の言っている「武士」ではない。
その中の一部。つまり全体の数パーセントだけが実際に上と下を繋ぐ維持を教えられた人々である。
僕の一族自体は、僕が残ったものから確認するに、最低でも加賀藩に利家公が入城した当時から続いている。少なくとも、そのくらいの長期の維持を可能にした教えだったと考えられる。
家庭内教育は現代社会で言うところの「エリート教育」ではない。
外に出てからの作法を身に着けさせるものだ。
そうしたものさえ、例えば僕がたまたま士族の家だからそれを受けたと言えば、「偉い人の家だからだ」と思うような思い込みをして、自分が思う「すごい人がやってそうなこと」を連想するかもしれない。
内側を知らないからである。
その立場はなってみないとわからない。
なったことがない人は、外側からの勝手な想像で中身を決めつけるだろう。
元々、力があるという立場を知っていた家の人間の中に、今もその力を持つ家、そしてない家が。
その立場を知らない家の人間の中に、今は力を持つ家、そしてない家が。
大きく分けるならば、四種類ある、と言えるだろう。
僕の家では、外に出た時に金をケチるな、と言われていた。
人との交流の場の話である。
人様と席を同じくする時は、その場での交流が大切。
人前で金勘定をするような真似をして、場を台無しにするようなことがあれば、人間としての品性を疑われ次はもう呼んでもらえない、という話だ。
一時の微々たる金を惜しんで、人様の信頼を損なえば後々の損なのだ、という教えである。
こんなものは自分の家で教わると「教え」とすら思っておらず、やはり「常識」と考えていた。
だが、このような「すっかり忘れていたけどよく言われた、人様から教えられるようでは困る常識」を、一切教えられていない人もいるのだと知ったのだ。
よく見る光景のひとつがある。
この教えは「僕が少しだけ分けるもの」なので、覚えておいて欲しい。
人様が会計や手続きで何かを書いている際に、近づいてはいけないというものである。
これは「疑わしい行い」なので、してはいけないのである。
人様が内内のものを出す場である。そのようなことは、作法なのである。
疑われることを避けるためにそうするのであって、疑われることをしているかしていないかとは、全く関係ない。
これが、「身を守るための作法」というものである。
会計の際ならば、人様が財布を出す場面である。
そのような場に近づかないようにするのは、人の財布を覗き見るような輩だと誤解されないためである。人様の大切なものである。そのようなものを出す場にやたらいることは「危険」なのである。
相手の財布に大事な何かが入っているかもしれない。
人様の懐をやたら気にするような真似は、無礼な行いである。
近づいておいて疑われたら「そんなこと思ってない!」では泥棒の行いになってしまうのである。
盗人猛々しいという言葉がある。万が一疑いをかけられた際は、そのような行いを取った自分に非があるが、それでももしそんなことになったならば、猛々しく反発することで更に疑われることになる。
そんなことにならないよう、トラブルを避けるため作法を身に着けるのである。
また、そのような疑いをかけられた時は、即非礼を詫びるのである。
これもまた、トラブルを起こさないためのものである。
自分の行いが無礼かどうか区別もできないならば、それは論外である。
「他人に教えてもらえることですらない」のだ。だから家庭内で教えるべき教育なのである。
他人様と争って良いことはない。
自分は悪くない!と相手を批難すれば、人様の恨みを買う。
恨みを買った人間は、その後仕返しをされるか、されなくても良くしていただくなどあり得ないのである。
ここで自分の「可哀想な事情」をダシに許されようとしたら、それは「乞食の家の者」の所業である。卑屈になることで免れようとする、人としての誇りを捨てた行いである。
「既に他人様の中に一人でいるのだ」という区別が必要なのだ。
家族の中では家計も同じであるが、人様が相手の場合は違う。
一人で外に出ることになれば、争いを起こさないように生きねばならない。
一族の命運にかかわるからだ。
そのようなことを教育するために、家の中でもその作法を実行させる。
それが、「家庭内教育」なのである。
明るく羽目を外したり、冗談を言って笑い合うことも大切だが、それ以前に守っていなくてはならない「他人様と付き合う時の作法」なのである。
そのような当たり前のことを知らずに、ただ形だけ「優等生」になっていても意味はないのである。
内と外の線引きもわからないような人間は、「人様の内側に入れてもらうことはできない」のである。
既にできているから、「この人は安心だ」と信用を得られるのであって、現にできていないならば、どんな理由があっても人様に安心していただくことはできないのである。
人としての品性を磨くためには、家庭内教育は絶対必要なのである。
外では決して教えてもらうことができないことなのだから、家を出て自分の家の看板を背負うからには、外に出た時既に「〇〇家の人間」として振舞うのは当然なのである。
僕は、そもそも日本の階級制度について、専門家であっても誤解して語っている人が多いと思う。
正しいと思えることを言う人には、武田邦彦先生や、苫米地英人博士がいる。
「家の中にあったもの」を知らない、つまり「無かった人」は、外から見て西洋と同じだったと誤解しているようだ。
書物で学んだとしても、実際それを経験している家の人間かどうかで話は違ってくる。
歴史は常に、勝者のもの。残される記録は強い者にとって決して都合が悪いものとはならない。
だからこそ、記録だけいくら学んでも「想像できるだけの経験」が無くては役に立たないのだ。
人様が自分の家で行うべき教育をしてくれると思うのは間違いだ。
そもそも自分自身が他人に信用されるだけの振る舞いをしていないならば、自分自身が警戒されるだけである。
「自分がどんなつもりか」は関係ない。
やってしまったらお終い、ということがある。
知らなくても責任がないわけではない。
だから家庭内で教育されるのだ。
「知らなかった」で済むのは、「親が責任を取ってくれる」からだ。
これが通用するのは、保護者同伴のうちだけだ。
身の程を知らぬということは、大変なことなのである。
身の程を弁える、という意味を誤解している人は、偉い人の言う事を聞くのが正しい、と思っている人である。奴隷根性である。
それは上に対しても言えることで、例えば会社は皆の力で成り立っているのに、自分が社長だからなんでも許されると思っているような輩にも言えることだ。
下の者の恨みを買いながら服従を敷いて働かせるような会社は、栄えない。
一国一城の主となるには、それなりの人徳が必要である。
稲穂は実るほど頭を垂れるもの
それは、上に行けば行くほど謙虚な姿勢が必要であることを指している。
労働者にはした金を拾わせて雇うような真似は、労働する者に対する侮辱であり、下の者たちから誇りを奪う行いである。
このような真似をする上の者は、自分自身が未だに支配欲を満たしたい誇り無き人間なのだ。
支配欲を満たしたい人は、とかく傲慢である。
自分の都合で優遇されようとすることを「諦めない」のである。
世を乱す行いである。
差別は良くないが、区別はしなくてはならない。
区別が無いならば、違うものを同じと扱い、誰かが迫害されたり虐待されたりする結果となるからだ。
昔の農民は、金を持つということは殆どなかった。
誰もがマネーパワーを使うようになったのだから、誰もが上に立つ人間になる場合があるのだ。
自分が如何に自信がなかろうが、客として行けば自分はサービスを受ける側である。
提供する側には提供する側の、サービスを受ける側には受ける側の、作法というものがある。
いつまでも子供でいたくとも、現実には子供ではない。
親もそうだが、先生と言う名を小学生の頃と同じように扱う人もいる。
義務教育時の先生は、僕のような先生や塾の先生たちとは違う。
また、医者も弁護士も先生と呼ばれるが、それもまた違う。
大人になれば自分の目的に合わせて必要なものを得に行くのだから、自分が不要だと思うならばやめるだけでいい。
僕は常にいくつかの店を選び、付き合いを続けている。
ご機嫌伺いに行き、世間話をして品物も買う。
これが応援である。
この人は良い女将さんだと思った店で長く通い良くしてもらっていたが、いつも少し多めに支払っていた。個人経営だからできることである。心づけである。
昔からの習わしだ。
マネーパワーを使う方が強い立場になる。
カウンターの向こうにいる時、女将さんは僕には気を使ってくれる。
それを見越して「この人は良い人だ」と思うから通うのだ。
「金が無くて困った時は、これで飯を食わせて欲しい。」
と言って少し多く支払う。そうしないと、向こうが受け取れないからだ。
それを支配力に使い、「こんなにしてきてやったんだから」と言い始めたら「泥棒の家の人間」なのである。親切に対して見返りを要求したら、それは脅しである。
これを人様にやれば、信頼は失墜するのだ。
女将さんは、あくまでも飲食店の女将さんである。
その代わり、急遽場が必要になった時に電話一本ですぐに用意してくれたことがあった。
その時はその時で、僕は別の集団の中にいて、その時の集まりのために力を尽くさなくてはならなかった。
そうして協力を得て成り立っているのだ。
後で「助かった、本当にありがとう。」と礼を言った。
「いつも良くしてもらってるから、いいのよ。役に立てて良かった。」と快く力を尽くしてくれた。
女将さんには女将さんの家族がいて、店の女将さんをやっているのは社会的役割である。
要求できるのは、あくまでも「相手の社会的役割の範囲内」である。
それ以上をしてもらえるのは相手の親切心でしかなく、施しと同じなのである。
施しの強要をすれば、それは脅迫となる。
金を持つ人間は、マネーパワーを知らなくてはならない。
近年では仏教や寺の在り方もおかしくなってきた。
拝む方も信心はなく、仏や坊主を崇拝することで「だからなんとかしろ」という強要になってきている。
恐ろしいことである。
「お前ならできるだろ」という脅迫は、よくあるいじめである。
他人に完璧を求め、その代償として先に何かをする。
泥棒の家の人間の行いである。
バレたら自分の致し方ない事情をつけて逃げるのが、乞食の家の人間の行いである。
そして、そのような下卑た生き方をしないよう、「人間に教育する」のが家庭内教育である。
人は放置すればただの動物と同じである。
言葉も教えない、なんの教育もしない、で放置すれば、人間であるという行いさえできない。
人間社会に送り出すのだから、人間として教育するのは親の役目である。
それは決して自分たちだけが社会で優遇されるためでも、偉くなるためでもない。
いずれは他人「だけ」の中で生きていくのだから、人様と争うことないよう、協力して幸せに生きていくためなのである。
苫米地英人博士の言う事は、最もだと僕は思う。
例えば離婚できない妻は言いたいことも言えずにいるが、実際に離婚に至るかもわからないし、生きて行けないということはない。
お金さえあればすぐに離婚する、という妻は多い。
夫を恐れているのではなく、お金の力を恐れているのだ。
人が本当に恐れているものはなんなのか?
現代社会では、お金である。
お金さえあれば幸せになれる。
なぜならば、自分が服従しているそのマネーパワーを使って、人を黙らせて優遇された立場を維持できるからだ。
金を払う立場にありながら、弱者になろうとする。
それが脅しなのである。
「良い人を装いながら、人を支配する」のである。
金を差し出す以上、「そんなつもりはありません」では済まない。
それこそ、悪徳商人のような真似なのである。
この資本主義社会にならずとも、金を払う立場になる意味が、理解できている人は理解できている。
マネーパワーに支配され服従を強いられた人間も、他でその力を使うならば同じ穴のムジナだ。
向こうでの被害を理由に、こっちでの支配をしようとする。
それが卑怯な輩である。
そのような人間は、まず人としての在り方から考えねばならないだろう。
その時その時、自分の立場は変わる。
「私」という存在は社会にいないので、常に自分はなんらかの立場を獲得している。
その立場の力をよく理解し、上に可愛がられ、下の者を大事にすることで社会は平和になるのだ。
「お金なんてあっても」「自分はお金にはこだわらない」
言葉としては格好がいいのかもしれないが、本当にそうなれている人間など殆ど存在しない。
支配とはなんらかの力によって強い立場を獲得し、人間の自由を奪う行いである。
人は自由を奪われれば、確実に不幸になる。
自分が人間を好きに使いたいと思えば、必ず誰かを不自由にしようとし、人を不幸にするのだ。
自分の中でどんな綺麗ごとを理由につけようが、人間の自由を奪おうとして天国に行く人はいない。
親の教えはともかくとして、自分が今置かれている立場、つまり自分自身が今社会に対してどんな立場でいるのかくらいは、自分で考えて自覚していないと困る。
お客様は神様です。という姿勢でサービス提供側にいることを悪いとは思わない。
だが、サービスを受ける側が提供側の誇りを損なうような真似をすれば、サービスをする側も提供をやめてしまうのだ。
「そこにないと困る」からこそ、買いにいく側も相手を応援する姿勢で感謝をして頭を下げるのだ。
快く働きたいならば、快く働けるような場を用意するのは客になった時の使命である。
客になった途端に我儘になり、丁寧な対応をしてくれる店で無いものを当たり前のように要求する。
それはもう金の支払い外の話である。
そこでサービス提供終了である。
そのような人が多いほど、大きな力を栄えさせ、個人の力を消していくことになるのだ。
個々にやっていることは、大きな力には敵わないことも多い。
だがそれは応援する側の責任でもあり、人を育てるのは個人だけではなく、社会そのものでもあるのだ。
提供側の際の誇り、提供される側の際の誇りがある。
配慮しなくてはならないのは、相手の誇りを貶めないことであり、人の誇りを貶めながら満足する人は、傲慢さが増すだけなのである。
モラハラをしている人は、本当に良いことをしているつもりなのだ、と加藤諦三先生が書いておられた。
「良いとされる言葉」を言えば良いことをしている人になれるのではない。
その言葉を使う時、自分が一体何をしているのか、それすらわかっていないのがハラスメントを当たり前にやりながら、自分が正義だ被害者だと妄想している人である。
一言で言えば、バカなのである。
「人様にはこうしろって言われたのにね!」
と他人様に言いながら何をしているのか。
「人を思いやらなきゃいけないんだよ!」
と他人様に言いながら、自分は今誰に何をしているのか。
教えは身に着け実行するのみ。親に教わったならば、自分の子供に教えるのみ。
他では実行するだけなのだから、人様がそれをできていない時は「できていない人を見た時、やられた時の作法」に乗っ取って、自分がまた実行するのみなのだ。
自分が存在していない時はない。
「存在しない時間はない」のだから、一人の時以外には常になんらかの立場としてあることを肝に銘じ、常に自分が自分として誇りを持てる行いを実行しなくてはならない。
自分自身の価値を誰が一体高く扱ってくれているのか。
誇りを大事にしてくれる人が誰なのか。
真実を見抜かなくてはならない。
金銭的価値が気持ちを換算しているわけではない。
僕の場合ならば、有料会員として遠方でも長くご支援くださる方々を最も価値を高く扱ってくれている方々と考えている。
至らぬこともあり、自分でも教わることなく挑戦していることなので、どうか長い目で見てご支援いただきたい、と最初に述べて始めたことである。
ご支援くださる方々の住む土地にできるだけ足を運びたいと思っている。
同じ立場の全員にできないことを求められるのは、価値を安く扱われている時である。
願望が要求化するのが神経症者ではあったとしても、それがビジネスの一部である限り、マネーパワーを使った脅しになるのだ。
現代社会の人々は、黙って金を渡し、その力の威力を無意識に自覚しながら支配と服従を繰り返している。
これはその昔日本が行っていたやり取りではない。
融合されて、悪質なものとなった。
このやり取りをするならば、アメリカ人のようにハッキリ何かの際に「いくら?」と即金銭の話をするべきだ。
それを良しとしないならば、見えない力を使う立場をよく理解することだ。
人は弱者の時は被害者にもなるが、立場が強くなった際の態度の方が重要なのだ。
「文句を言わせない立場」になった時、その人の人徳が如何なるものかは発覚する。
そしてそれはどこに行っても誰であっても、この社会では必ずなるものなのだから、自分自身の行いに気をつけねばならないのである。
僕は何年も前に、恋愛的要求をされ「僕はホストではない、そのような要求は他のところでしてくれ」と仕事の場で述べたことがある。
今は家の中で夫に虐げられた妻が、ホストに入れ込むことがよくあるのだと聞く。
ホストクラブで親切にされて「お金のためにやってたなんて!」と嘆くのもどうかと思うが、実際、キャバクラに行きそこでの対応の良さに「恋人になれるかも」と勘違いしていたオッサンが早朝のレストランで「色よい返事が来ない、あんなこと言ったら期待するに決まっている」と男友達に嘆いているのを聞いたことがある。
男友達は呆れたように諭していた。
「お店の女の子なんだからさあ。」
男は納得がいかないようで、「でもこんなこと言った」と期待できる言葉を女の子が述べたことを理由に、たかが二十歳の娘が言ったことを酷い冷たいと批難していた。
たかが二十歳、と述べたのは、それを嘆いていた男がどう見ても六十代だったからである。
僕はその時、隣の席で精神分析学の勉強をしていた。
聞きながら立場と勘違いの内容、人格を分析していたので、よく覚えている。
このような男は「妻だから言えない」がわからない男なのだろう。
「その立場なら今の自分にどう対応するか」がわからない。
区別がないのだ。
すごい夢を見ている男がいたものだ、と横で聞きながら呆れていた。
僕たちの先輩は、このような発想のまま社会にいるのか、と思うと、若輩として今後の困難に気が重くなったものだ。
幼いころから、「この子はできる子だから」で押し付けられてきたものの、流石に社会でそれは困る。
天才ほど一人ではなんの役にも立たない人間はいない。
最初の一点を生み出すことはできても、それ以降ができないのだから。
だからこそ、聞いて理解できる人、それを形にする人、形にするため実行するひと、と役割があるのだ。
ナルシストの「欲しい」はおもちゃを欲しがる子供と同じである。
外から見て価値あるものを、自分のものにしたがるのだ。
だが、相手が人間であれば人間として扱わねばならない。物ではない。
そして物や金も、どこから来てそこにあるのかを知らねばならない。
「今いきなり目の前にきたんやない。なんもかんも、全部お前の目の前に来るまでに色んな人の力があってそこにあるんや。」
幼い頃教わったことである。
しかし、如何にそのような教えを受けた人々でも、自分が誇りある扱いをされなければそのうち嫌になるだろう。
だからこそ、誇りある人間の社会を望む人は、断じて屈してはならないし、人を貶めてはならないのだ。
侍の魂は、風前の灯火である。
僕も時々諦めそうになるが、遠くで頑張っている人々を見るにつけ「俺もやらねば」と思えるのだ。
人に服従しないためには、「諦める」ことが必要である。
自分に服従を強いる人は、必ず何かを同時に差し出してくる。
それを諦める。
あらゆる欲を諦める。
「その人から得ることを諦める」のだ。
屈してしまい惨めになるならば、何かが無い不安を突かれたのだ。
自分自身の弱点を突かれたのだ。
自分自身の弱さを知り、不安と向き合うことで自尊心を保っていけるのだ。
現実の世界では、見えるものと見えないもの、全てセットで「渡されているもの」だということを忘れてはならない。
誇りを貶めない受け取り方は簡単に教えることはできないが、よくわからないならばとにかくトラブルを避け、自分の誇りを貶めない生き方をすることだ。
とはいえ、その作法たるものも教わったことがない人が多いと知ったので、人として生きる作法を僕も教えて行こうと思った。
コロナのことがあり、僕も予定をだいぶ変更しなくてはならなくなった。
今はみな困っているが、この社会に対してどう生き残りながらお役に立っていくかは常に考えねばならない。
形態を変えていく際は都度前もって告知をするが、オンラインについては今まで通り、またはそれ以上にしていくので会員の方は安心して欲しい。
侍はここにいる。まだ残っている。
侍は魂を受け継いでなるもの。
例え社会のかたちが変わっても、受け継がれる教育も魂も、変わることはない。
なんのためにあれが存在していたのか。
その本当の理由を知る人が、想像がつく人がいなくなった時に、侍の魂も消えるだろう。
僕は社会の仕組みや政治的なものに強い関心を持っている。歴史は真っ先に関心を持ったことだった。
なぜかわからなかったが、お役目を考えれば政治を行っていた家の人間の一人なのだから、それも当然なのかもしれない。
神経症的行いの中には「他人に優越したがる」というものがある。
しかし、これほど危険で損な行為はない。
張り合う限り、自分が完璧でなくてはならない。
親の教育も完璧でなくてはならない。
戦いになることは必至なのだから、戦う覚悟もしていなくてはならない。
勝つ、ということは「負かしてしまう」ということなのだから、その行いが相手のためになるわけでもないならば、必要性のないものだ。
日本国中が、その昔の「負けた」という悔しさと恨みを背負っている。
だがそれは決して内側に向いてはいけないのだ。
内側でやり合うように仕向けられたとしても、それをやってしまうことこそ思う壺だと知らねばならない。
人としての品格
自分だけ特別でありたい、と思うことは誰にでもある。
最初はみな思うが、段々と諦めていくものである。
僕も当初そう思ったが、それはただ「ちやほやされたい」というだけの話であった。
しかし、本当に特別な場合がある。
僕は子供の頃から学校でもしょっちゅうイライラしていたが、ある時先生に呼び出されこう言われた。
「お前は他の子とは違う、特別な子だ。皆と同じことをしているのがお前にはバカバカしく思えるだろう。」
でも今は耐えろ、と言われた。
「学者」という職業があるから、それになれば毎日お前が好きなことを勉強していられるぞ、と教えられた。だから今は基礎をしっかりやって、友達と仲良くする協調性を身に着けろ、と。
家も特別であった。
特別酷かった。
家の話をしたら、児童相談所に連絡されそうになった。だから話すことも無くなった。
本当に特別稀な境遇の人が、たまにいる。
僕のところにも来る。
それがどんな理由であっても、「自分だけが違う」という疎外感を覚えて育っている。
僕は言葉もわからなかった。
小学校に入ってから、「おかしい」「間違ってる」と散々指摘され、言葉遣いも矯正した。
あれもこれも、皆と同じになるように矯正した。
だが、そうならない部分もあった。
できない、なれない。
「みんな違って、みんないい」
とかいう綺麗ごとを述べる人間は、人の考えが違っていると矯正しようとしてくる。
言葉は間違っていないが、本人がその言葉を利用して自分のやりたいことをやっている。
それを世に偽善と呼ぶ。
そんなこともわからない人を、僕はバカ、と呼んでいる。
最初から違う境遇にいた人は、少なからず疎外感を覚え育っている。
引っ越しをしてきたとか、自分の家が他とは違う珍しい家柄や稼業だとか、色々な理由だ。
そして、そんな人たちの多くは僕と同じように「普通になろう」とする。
だが、それは無理だ。
それは結局「理解してもらいたい」から、自分が真似をするという理屈の行為だ。
多数の真似をしたら、逆に自分も同じだと思われるのだから理解されることは難しくなる。
本当に「みんな違って、みんないい」ならば、そのままであることだ。
「理解されよう」とせず、「理解しよう」とすることだ。
「違う」というものを、理解しようと努めることだ。
皆と同じになって受け入れてもらおうとする行為は、既に「同じでなくては許されない」と認めてしまった行為なのだ。
違ってもいいと思うならば、違うままでいればいい。
少なくとも、違うままで生きている人たちは、そのままでも気にしない。
ちやほやされるかされないかは、感情的問題だ。
それ以上に、「どう生きていくか」を僕は考えた。
現に違うから。
需要ある人間にならねばと思った。
世の中は結局需要と供給で成り立っている。
より需要が多い人間になれば、自分が必要とされる。
僕自身が何も持たず必要とするものが多いならば、特別な存在がいない以上、より多くの人から求められる人間でなくてはならない。
現に、少数派なのならば、皆と同じことをすればするほど不利。
結論として「理解する側」に回ることが得策であると僕は考えた。
更に「好きになる側」に回ることにした。
僕自身が、好きになってくれて、理解してくれる人が好き、と思っていたからだ。
何よりも、人は何かをしてあげるにせよ、誰かを求めるにせよ、好きな人から選ぶ。
「好かれている」は「必要とされている」かどうかだ。
だが、何か別のもので必要とされることもある。
自分の何を必要とされているのか見極める目も身に着けなくてはならない。
そんな風に、考えた。
昨日あたり、Twitterで論語を引用していた方がいた。
似たような教えがあるものだ、と思った。
家庭内教育と僕が呼んでいるものである。
人様の前で金勘定をするな。
微々たる金銭を失うより、人様の前で気分の悪くなることをして信頼を失うことを損だと思え。
使って困る金は持って歩くな。
今そこで人様といる時間をどう過ごすかで、次も呼んでいただけるかどうか決まる。
金より人を失う方が遥かに損になると知れ。
まして金があることをひけらかすなど、品のない成金風情のすることだ。
僕はこのように教わったのだが、似たようなことを書いておられた。
教えてきたのは母で、母もかつてはそう生きていたはずだった。
だが、父をはじめ都会の人の多くはそんな生き方をしていなかった。
人より金。如何にして他人を蹴散らして優越するかの競争。
人としての品位に関わることだ。
このような生き方は、一時何かを得てもすぐまた失う。
本当に金がある人はなぜ金を持っているのか?
人脈を持っているからだ。
人を得ずに得られるものはない。
他人より優越して何かが得られると思うこと自体、奴隷の考えだ。
「褒美をもらう」という生き方しかしたことがない。
つまり、持ったことも維持したこともない、ということだ。
「なんてはしたない」
かつてあれこれもめていた女が言った。
彼女だけは助けてやりたかったが、致し方ない。バカだから助けようがなかった。
いくら自分だけ何かを守っていても、周りがわからなければ無駄、ということが理解できない。
それが神経症者である。
「泥棒の家のもんがすることや」
よくそう言われる行いがあった。
僕は幼い頃にそれをしてしまっていたので、やらないようにした。
「人を問い詰める」という行為である。
あれこれ質問する。探りを入れる。
個人的事情を聞こうとする。
考えていることまで聞き出そうとする。
人に説明を求めるのは、人を泥棒扱いする無礼千万な行為である。
「あなたはこうなの?」
「これどういう意味なの?」
尋問である。
この無礼千万な行為を、泥棒でもない、怪しい行いをして罰されるわけでもない人に対して、平気な顔をして行うのが
「泥棒の家のもん」
なのである。
そして、「質問されるとなんでも答える人」がいる。
疑われないように、なんでも正直に答えなくては、とビクついてしまうのだ。
そんな人のために、ハッキリ言っておく。
そのような無礼千万な輩に対して、正直に答える必要はない。
人にものを尋ねる時には、まず自分から。
「私はこれこれなのですが、あなたはこうですか?」
自分がなぜそれを聞きたいのか、まず自らが知らせるべきなのだ。
知りたいことはなんでも探る。
それは何かを隠している人間のすることだ。
相手の何かを聞き出そうとする。
それが「泥棒の行い」なのだ。
後ろ暗いところがない人間は、そのような行いをしない。
そして、聞いたところで答えてもらえると思わない。
寧ろその尋問により不愉快になるのが当然と思うのが、まともな感覚だ。
人としてのマナーを守っているかどうかで、人としての品格が決まる。
いくらお行儀よくしたところで、普通にしたところで、人間性の品格が問われるようでは問題外なのだ。
人様が自分に話したいと思えば、向こうから聞かせてくる。
人様が自分を呼びたいと思えば、向こうから呼んで下さる。
黙って結果を受け入れるものなのだ。
僕の母でさえ、その昔は色々と教えてきた。
そのうち故郷のことを話さなくなり、ある時からピタッと一族の話もしなくなった。
「そんなこと言った覚えはない」
と全く違うことを言い出した。
あれほど楽しそうに子供時代の話を聞かせていた母に、一体何があったのかと疑問に思っていた。
方言をバカにされ、昔ながらの知恵やしきたりをバカにされ、「皆と同じ」になって行った。
だが、少数派だからと言って臆してはならない。
苫米地博士のようにハッキリと物言える方がまだいるのだから、臆してはならない。
僕は加賀藩士の末裔である。
我らが加賀藩、そして前田家の殿にお仕えしてきたことを今でも誇りに思っている。
資本主義社会の奴隷ではない。
加賀藩のために力を尽くす前田家にお仕えするのだから、力を尽くすのは加賀藩の領民たちのためなのである。
全体がひとつなのであり、「一番偉いのはお百姓さん、武士はなくとも人は生きられる」の考えの元に武士は精進するのである。
時に、何某かのコラムなどで、かつての日本の考えがとか、階級制度がとか、昔の古い間違った考えと述べている人を見る。それなりの有識者とされる地位の人が述べている。
だが、僕はそうした人を見て思う。
「この人はそうした家の人ではない」
知らないからだ。事実を知らないから。
歴史なんて教わらなくても、家の中に残っていたから知っている人もいる。
極僅かだが、知っている人もいる。僕も出会うことがある。
その伝統は、教育の中に受け継がれる。
武田邦彦先生が述べる日本の誇り、江戸時代の日本の良さなどは、殆どの人が「ふーん」でしかないのだろう。
他で聞いた情報と照らし合わせるだろう。
だが、僕は知っているので彼が言うことは本当だとわかる。
幼いころから教えられた様々な教育の中に、常識の中に、その善き文化が残っている。
「何が正しいのか」
を論じる際、まず「自分自身はどうなのか」が無くては話しにならない。
つまり
「あなたの家ではどのような教育であったのか」
というところだ。
外で教えられることは、他人の家の話である。
自分の家ではどのような教えを受けているのか。
人としての生き方、こと人の見分け方や人付き合いなどの「作法」については、家の中で教えられるものだ。
自分の家は必ず何かの職業である。昔は武士は生まれてから死ぬまで武士なので、代々その家業に相応しい生き方を教えられる。
「家が滅ぶことのないように」
「子々孫々が栄えるように」
そのためにはやはり、「周りとの協力」が大切なのだ。
人様を蔑ろにして、栄える家はない。
愛情ある家の人は、それを教えられずとも知っている。
人様のことを考えれば自然とやることが殆どなのだが、親が学んだら次は子に、と伝授されて行く。
それが教育だ。
一度どこかの代でうまく行けば、その方法は必ず親が子に伝えてくる。
勿論、よく考える誰かが先の論語のような教えを知り、自分自身で身に着けていくことが最も大切だ。
「並みより成長する人間」
がどこかで生まれると、そこで一族は飛躍的に成長する。
成長の動機で生きる誰かがいてくれれば、子孫はそれだけ助かるのである。
家庭内の教育は家を守るためのものなので、基本的に門外不出で外に出ることはない。
「外に出てからの作法」
なのだから、他人の前ではそれを実行するのみで、教わることはないのだ。
時に、どなたかがこっそり指摘してくれる。そんなことがある。
「この人は知らないのだな」と思った時に、誰かが自分の身を捨てて教えて下さるのだ。
そのような場合に、「ケチをつけた!」と敵意を持つか、「教えてくださったのだ」と感謝できるか、それもまた人の品格である。
指摘されると傷つく場合が多いだろう。
そんなわけで、僕も若い頃からわからないことは教えていただけそうな方に聞いて、教わってきた。
「聞くは一時の恥」
僕が恥をかくことにより、後の代が助かるのだと子供の頃から思っている。
僕が知らないという事実は、変わらないことである。
誰かが恥を忍んで身につけなければ、次の代もまた恥をかくことになる。
母は知らないくせに適当なことを教える人だった。
この人に聞いても無駄だと思ったので、自分に必要なものは自分で身に着けて行かねば、と思った。
それでも、生きる姿勢や態度というものが最も大事である、と教えられたことは正しいと思う。
坊さんもそうだが、教えている人は「伝道師」であって、「導師」であるとは限らない。
導師は本人自身が導くことのできる人である。
今聞いて、今見て、本人が考えて結論を出せる人である。
伝道師は「これこれなんだって」と教えてくれる人である。
言い方は悪いが、本人が理解していてもしていなくても、できるものである。
親鸞聖人と、寺のお坊さんは同じではない、ということだ。
言っていても本人が理解しているかはわからないのである。
わかっている人に聞いただけでも、伝えることはできる。
伝える人の中には「自分は伝えているだけ」と自覚している人と、「自分はわかっている」と見せかけている人がいる。
伝道師はあくまでも伝道師であり、本人自身も理解するために努力しているのである。
していない場合もある、と知っているが、それは「できる人」だと思われたいからである。
「既に実行している」
それが身に着けている人である。
口に出して説明している人は、実行していない人である。
「教え諭す」が言葉の説明ではなく、そのように現実を動かしてしまうことなのだとわかっているのが、導師である。
本当に道理を理解していれば、自分自身が動くことにより現実の流れを変えてしまえる。
自らがその道理に沿って動くことで、その道理が正しいことを証明する。
ただ、現実の結果を出す。それが導師の役目である。
親は子にとって導師たる存在である。
子は必ず親の教えに従い、真似をする。
だから親が導師なのである。
親は親で、導師としての格を上げるために、自分自身も学び、精進し続けなくてはならない。
自分の成長は後の代に続く成長となるのだから、知らない、わからない、できない、は恥だと思わないことである。
次の代までそのままにしてしまうことこそ、恥じるべきことなのだ。
やたら自分の思い通りにするために周りを否定し、自分が知っていること、やっていることこそ正しい、と威張る人は、そのうち滅びる。
「私は間違っていない!」
と人を批難するために言えるような輩は、ひとつも知らないことのない人でなくてはならない。
この世の全てを知り尽くしてでもいない限り、人様に対して「自分は正しい!」と断言はできないのである。
普通は!一般的に!
と大威張りの人は、普通と一般的にを真似して生きてきたからこそ、強気なのである。
自分は間違っているのかも…と自信無い態度になっている人の方が、遥かに多くを知る機会を得ているのである。
人生において、知るチャンスを逃す、ということがどれ程取り返しのつかない損害になるか、それもまた知らない人は知らないのである。
天才を殺す凡人

天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ (日本経済新聞出版)北野唯我日経BP2019-01-16
このような本がある。今回はこの本をお勧めしたい。
内容より、読んでみて思ったことを書く。
予め書いておくが、僕はこの本に出てくる天才、凡人、秀才、の中で言えば、確実に天才である。
それを踏まえた上で、この「天才を殺す凡人」の内容は非常にわかりやすく、的を射ていると思った。
とても簡単に読める会話形式のドラマ仕立てなので、難しい本は読みたくない人にもお勧めだ。
この中に出てくる「サイレントキラー」が僕は気になった。
天才を殺す秀才。
憧れと嫉妬。
まるで映画アマデウスのアントニオ・サリエリだ。
天才に憧れるが、同時に憎い。天才さえいなければ自分の天下なのに、と思う。
サリエリそのままだ。
世の中の小難しい理論を展開しては、それっぽい会話で人を納得させてしまう。
僕はこの手のやり取りが、子供と親の間でも行われている、と思った。
まだ何もわからない子供に、社会的にそれっぽい理屈を並べながら言う事を聞かせてしまう。
子供はみな天才。好奇心の塊なのに、それを殺してしまう。
「日本は天才を凡人に変える天才」
と言ったのは、東大の某先生だった。
僕は天才を見抜く。
「人の中の天才」を見抜く。僕が天才だからだ。
「社会で教えられた真似事」ではない、自然に発揮しているその人の何かに気付く。
気付くだけだが、それすらできる人も少ない。
子供の頃から「人間」に好奇心を抱いて観察し、研究し続けてきた。
故に、個々の人間の違いや、その人にしかない特徴に気付く。
本人が好奇心を呼び起こすかは、如何に偏見や他人に対する嫉妬、敵対心が取り除けるかだろう。
天才は才能だけではなれない。
好奇心を内側から生み出せなくては、才能などあって無いようなものだ。
そのためには、偏見に対する恐れ、そして他人に張り合って優越したいという劣等感の解決が必要だ。
他人に勝とうとした時、天才の才能は死ぬ。
他人に認められようとした時に、好奇心を捨てる。
まあ、今回はそんなことはどうでもいい。
「それぞれが必要としている人がいる」
と先の本に解説がある。
僕自身の場合は、と考えると、確かに書いてある通り「秀才」の中の「スーパーエリート」のような人が必要だと思った。
僕は発想はできる。思考はできる。
「再現性」を持った人が欲しい。
天才宮崎駿監督に、久石譲が曲を提供するようなものだ。
久石氏曰く、如何にも天才らしく「こんな感じのやつ」的な指示があるらしい。
それを再現するのが彼の仕事だ。
彼は天才じゃないの?彼だってすごい才能だよ。と思うかもしれないが、少なくとも「宮崎駿映画」を作る際は、天才宮崎監督率いる集団の中の、音楽担当「再現性の天才」久石譲なのだ。
もし、僕自身が「こういう感じのもの」と説明し、それを再現する秀才がいたとしたら、僕は天才を見るより感動すると思った。
天才を見た時に、例えば苫米地英人博士の教えを聞いた時に、僕は「すごい!」とも「意味わかんない」とも「こんな天才になってみたい~」とも思わない。
「わかるー」
である。
「それ面白そう!ようし、俺も!」
と好奇心や意欲が湧いてくる。
「なに!そんなものがあったのか!」
と驚いて、やはり自分も何かやりたくなる。
だが、再現性の天才みたいな人がいたら、僕は感動するだろう。
その時は
「こいつすげえ!」
と思うだろう。
天才の説明を聞いて、それを理解した。イメージできた。そして再現した。
天才より多く必要な人だ。
宮崎映画でもそうだ。音楽だけでは駄目。他にもいろいろな担当の「再現性の天才」が必要だ。
そして、先の本には更に「共感できる凡人」が挙げられていた。
天才の心の闇を支える、共感性の天才である凡人。
本人は何も生み出さないし、特に優秀でもないが、天才の心を支えると言う。
「あげまん」のことだ。
人の心だけよくわかる人。
天才は本人が天才なのだから、他人にすごい才能を求めない。
寧ろ求めない。他のものを持っている人がいい。
張り合われた途端に相手の価値は無くなる。
僕は、天才福田雄一監督の妻は、この手のあげまんだと思う。
ムロツヨシさんという俳優さんがいる。通称福田組のエースだ。
彼は福田監督の妻が見つけた人だと聞いた。
「あの人はあなたに必要な人だから、一度会ってほしい」
と妻が進言してきたので、会ったのだという。
福田雄一監督の作品、ドラマの「勇者ヨシヒコ」。
あの作品の冒頭で毎回盗賊が出てくるという前振りのようなミニドラマがある。
登場するのは毎回神経症的な人だが、彼の目から見て解釈すると、こうなるのだなと思った。
参考になるので、僕はこのドラマも何度も見ている。
僕は面倒くさいので、もう頑張って作ってくれた天才が生み出してくれたものを利用しようという、怠け者である。
再現する人がいないのだ。
それが一番の悩みだ。
あるところに師の推薦にて行った際は、故あって話が流れた。
師は「あそこでは君の才能はわからなかったか」と言った。
僕の先生は偉い人だ。だからみな先生の前ではへりくだる。
だが、見えないところで僕が言われたのは
「加藤諦三はふたりいらない」
であった。
そして僕の文章を直された。
だからもうやめた。面倒くさいからだ。
僕は加藤諦三ではない、とか、加藤諦三がふたりいてもいいじゃないか、とか、あれこれもめた末、僕が嫌になってやめた。
僕は僕が思うことを書いたまで、僕は加藤諦三ではない。
そんなに爺さんではない。
そして加藤諦三先生は、もっとナイーブでカッコいい文章を書く。
情緒あふれる詩のような文章を書く。そこにちょっとした笑いもある。
だからカッコいい。
話が逸れたが、先の本「天才を殺す凡人」は、「自分の中の天才」を発見し育てるためにも良書だと思った。
そして様々な人とのやり取りや、役割分担を考えるにも役立つと思う。
僕は人と張り合う気が全くなく、発見する気しかない。
発見し、生み出すことにしか興味がない。
故に、勝ち負けを競える時点で全て負け、と考えている。
「優劣で並べられるラインに他人が存在している時点で全て負け」
それが僕の考え方である。
他人と優劣を競うためには、他人が生み出した何かを実行するしかない。
そんなキリのないことより、僕は原点を生み出す人間でいたい。
面倒くさいからだ。
優劣を競う方が面倒くさいからだ。
発見も創造も、自分だけいればできる。一番楽だから、そうしているまでだ。
あげまんに創造力は無い。
だが、想像力があるのだ。
人には役割分担がある。
天才の才能を再現性の天才である秀才が支えるならば、心は共感性の天才が支えるというわけだ。
勿論、他にもそれぞれに必要な人、そして役割がある。
結局、天才だろうが凡人だろうが秀才だろうが、全てにおいて必要なものは「想像力」なのだとわかった。
再現性の天才になるには、話をきいて想像する能力が必要。
共感の天才になるには、様子を見て想像する能力が必要。
そうなると、前者は男子で後者が女子である場合が、思考形態から考えてもちょうどいいのだろう。
そして、どれになるにも不要なものは敵意。人を信用できなければ、その全ては発揮できない力だ。
持って生まれた力は、全部ドブに捨てる。それがまさしく神経症的才能だ。
共感力がある人は、「わかってあげる」ができる。
共感力がない人は「わかってあげて」と強要する。
時々、あげまんなのにさげまんになっている、という人を見かける。
あげまんの力があるのだが、自分がなくなっているからさげまんになっているのだ。
さげちんにくっついて生きている、またはさげまんを親友にしている。
使われている、と言った方がいいのだろう。
その共感力は、自分に都合のいいことを言う人に使わせてはならないのだ。
自尊心が低いと、褒めてくれる人、優しいことを言ってくれる人、が素晴らしい人に見える。
だが、自尊心が低くなければどんな態度にでてくるかわからない。
困っている、自信がない、という素振りがなければ、近寄っても来ない人たちかもしれない。
同じ人でも全く変わってしまうのだ
(・Θ・)あげまん!
(・Θ・)さげまん…
このくらい違うのだ。
だが、天才の苦悩は僕にはよくわかる。
共感なんてしなくても、よくわかる。
ジョブズは生み出した基板を、部下に再現させた。
「美しくない」
と言ってやり直させた。
それについて理解できる人はおらず、根拠なく厳しいとか、我儘だとも言われていた。
完璧主義だとかなんとか。
だが、そうではない。
俺にはわかるぞ。
「それでしかない」だったのだと。
その形は完璧で、そうでなくてはならなかったのだ。
なんとかなっていればいいものと、他では駄目だというものがある。
「美しい」つまり、それ以外にない、だったのだと僕にはわかる。
ジョブズは早死にした。心の支えがなかったのだろう。
あげまんは天才にとって命そのものというくらいの価値がある。
そして天才はよく早死にする。
ジョブズの若さで死ぬことを考えたら、僕もあと十年がせいぜいだと覚悟して生きなくてはならないだろう。
俺をわかってくれ!私をわかってくれない!
この手の人は他人の寿命を食っている。
当たり前だが、他人に理解してもらえた人は理解してくれた相手以上になんらかの能力を発揮しなくてはならない。
二人前の価値を一人で生み出せないならば、他人に理解してもらった意味がない。
自分には意味があった、では、搾取になってしまう。
自分の望むことをする意味が、他人の側に最初からなくては意味がない。
私、という特定の個人に他人は望みなどない。
何かすることで他人に気に入られたいならば、他を凌駕するだけの能力などがなくてはならない。
私、の考えや、私、の自然な姿で生きていない限り、「私」が必要とされることは、無い。
他人にちやほやされたくて社会的理想に沿うなど、結局は「あんなものあったらいいな」を叶えてあげるだけの、魔法使いである。
理想の人になってやれば、その姿を見た人は「わー」と喜ぶだろう。
それを見て「自分が期待された」と勘違いしてはならない。
自分ではなく、先に情報で知っていた何かを見たから、「きっとこの人はあれこれだ!」という期待を寄せたに過ぎない。
延々と期待に応えるつもりでもないなら、そんなことは早めにやめた方がいいのだ。
現代日本人は勘違いしている
現代の日本人は、「生きる」ということを勘違いしている。
自分が完璧になるまで、何か漠然とした期待される存在になるために生きていると思っている。
人生はもう始まっている。
足りないところだらけで始まるものだ。
例えば、毒親と呼ばれるような子供を苦しめる親。
子供を自立させない親の元からスタートする場合もある。
たった一人で始まってしまう人生だ。
自分がちゃんとできているか、できていないかを気にする人がいるが、実際には自分の問題に直面できない。
自分にはまだ育ててくれる親がいる気分で生きている。
それが三十代になっても、四十代になっても、五十代になっても、まだ教えてくれる人がいると思っている。
自分の理由で、大人ではない存在で生きられると勘違いしている。
「何が起きているのか」を誰かが説明してくれると思っている。
自分は知らないから。
自分が知らなくても、他人も知らない。
「何が起きているか」など誰も説明できない。
「全て起きていることだから」だ。
自分が教えてもらうつもりで聞いた。だから答えは自分の知りたいことを教えているのだと勘違いする。
そんな存在がいるわけがない、と気付いていない。
もう人生の本番が始まっている、とわかっていない。
まだ練習のような気分で生きている。
起きたことが全て。
説明されたのではない。
なんらかの話をしたから、質問をしたから、それについて自分に返答する人がいた、ということが「起きた」のだ。
自分が何かを「起こす」
すると他人は自分に反応するから何かが「起きた」
のだ。
周りに反応して動いている人は、周りに守られているような気分でいる。
周りに反応するから、周りと一体化しているような感覚で生きている。
自分が周りに反応して動いたから、周りが自分を見てくれると期待する。
他人に反応して言動を行うから、他人が返答をすると期待する。
ここが現実の世界だとわかっていない。
他人に過去を話す。すると他人も自分の過去がわかったと思う。わかるわけがない。
他人に自分の記憶を移すことはできない。他人は聞いただけで体験はできない。
「自分は過去の話をする」ということを「起こした」のだ。
それに反応した相手が動いた。それだけだ。
Aさんと出会った。
Aさんは過去の話を沢山した。
だが、あなたが知るAさんは、過去から続くAさんではない。
出会った時からのAさんだ。
過去の話ばかりする、Aさん、という人がいるだけだ。
二人の人がいる。
二人の関係を作るには、互いに「一緒に過ごした時間」だけで関係を作らなくてはならない。
一緒にいる時間で関係が作られるのは当たり前だ。
つまり、互いに共にいる時間には、「今まで二人で過ごした時間」以外のことは起きていないことだと自覚していなくてはならない。
二人の関係は二人の時間で作られる。
「この相手と共にいた時間」のことだけしか思い出さない。
二人でいる時に起きたことしか、二人の現実にならない。
だが、ナルシストは違う。過去を沢山話す。
すると、自分の過去が二人の過去になってしまう。
体験だけで作られるのが本物の関係だ。
過去を話しても相手は自分の過去を体験できない。
だから話したところで「昔話をした」という体験にしかならない。
「二人でいる時に、私は自分の昔話をしたね」という体験にしかならない。
その昔話を聞かせている体験が、どんな時間であったのか。
楽しかったのか、嬉しかったのか。
その時に起きた体験により、二人の関係は作られる。
昔付き合った彼女は、父親の話と過去の話ばかりした。
一緒にいてつまらなかった。
過去の話を聞いては、慰めのために何かをしてあげる繰り返しであった。
「彼女の昔話を聞きながら、昔の辛い体験を癒すために時間を使う」
全ては彼女の過去のためにある付き合いだった。
二人の間にあった体験は「彼女が昔話をする」というだけのつまらない体験だった。
彼女はそんな過去があるから、私はこうなのだ、と今の自分の自信のなさを吐露した。
そこで彼女が自信を身に着けるために、何かを提案し手伝う時間を過ごした。
実際には、過去の自信のなさを生み出すきっかけは僕が作ったわけではない。
よって僕が何をしたところで過去が変わらない限り、または彼女が諦めて内面の強さを磨かない限り終わることはない作業であった。
そう、彼女との付き合いは、過去の体験によって生まれた彼女の感情を支えていく作業だった。
彼女の過去なしにあった体験はない。
彼女が昔話をしなかったら、共にいた時間に起きたことは全てなかっただろう。
彼女は僕には無い体験についていつも思い出していた。
僕は彼女との時間に起きていないことは、思い出さない。
彼女に失礼だからだ。
彼女がわからないことを考えながら、彼女の目の前にいるのは失礼だ。
相手は生きた人間である。
彼女と共に過ごした共に思い出せる現実のみ考えている。
そこだけが彼女と作る関係だからである。
そこにいる僕がどんな人間であるかは、僕自身の生き方によって、全体像によって決まっている。
というより、僕がどんな人間であるかで全体像が決まっていると言った方がいいだろう。
僕しか知らない僕の過去の世界の話など、思い出しても彼女が現実に置いてけぼりになるだけだ。
彼女が寂しい気分になるので、思い出さない。
彼女は父や母に言われて傷ついたことが沢山あった。
僕にはそうは見えないと思えることばかりだが、それでも彼女は過去の記憶を覆す人間になりたかった。
だから僕は彼女に協力した。過去の記憶を見返せるだけの、今の自分になるように。
僕は彼女の父ではない。だから彼女の父と同じことは思わない。
だが、彼女が認められたいのはあくまでも「過去の」父親だったので、彼女が記憶の中にいる父親に認められる人になれるよう、協力した。
そして、そんな彼女は僕に取って疲れるだけの、つまらない女だった。
彼女の父を見返すために、僕にとっては疲れるだけの女を続けていく協力をしている時間は、つまらなかった。
そのうちこの疲れる女が、過去を諦めてくれるのではないか、という気持ちだった。
僕は彼女が好きではなかったのだ。最初は好きだったが、段々と疲れる作業をするうちに嫌になってしまっていた。
僕は思っていないことなのだから、もし彼女が記憶の中の父を見返すだけの女になれても、僕はどうでもいい。「あー疲れた、良かったね」で終わりだ。
一緒に居る時間が楽しいかつまらないかだけが、彼女との付き合いを左右する。
「俺はそうは思わないけど」と言っても、「でもお父さんはそうは言わない」と言う。
彼女は記憶に存在する父に認められるために生きていた。
過去の記憶にいる母を守るために生きていた。
母を守り続け、父を見返す人間になるために生きていた。
だから「恋人ができたら協力してもらう」ことにしていた。
段々嫌になってきた時に、他の女とデートしたら、そっちの方が断然楽しかった。
普通に楽しい時間を過ごせた。相手の記憶を消去する作業が無いので、楽だった。
彼女といる時のように、彼女の記憶の中にだけ存在する誰かを見返すための時間にはならなかった。
今起きていることが楽しかった。
何より、彼女は感情が無かった。
笑う時も、軽い調子で笑っていた。へらへらしていた。
真剣になる時がなかった。
自分自身の人生についても、軽い調子だった。
僕ならそんなに軽い問題にはならない、という自分自身の将来についても、重大な問題についてもへらへら笑っていた。
「ひどいよねー」とへらへらしていた。
言葉では辛いとか困っているとか言うが、へらへらと笑える程度の問題にしか思っていなかった。
僕が真剣に取り組んでいるのは、バカバカしくなった。本人は笑っているのだから、大変なことのよように言葉では言ってはいるが、どうでもいいのだ。
「この女はダメだ」と思った。
恵まれている人だった。
うつ病になり高校を中退していた。それすらへらへら笑って言っていた。
この人にとっては、へらへらと笑って話せる程度の問題なのだ。と思うと、段々と軽蔑する気持ちになってきた。
子供の頃東京に来た際に思った。
東京の人たちは、なんでも軽いノリでこなすのだなと。
僕は違った。
もっと真剣に生きなくてはならないと思っていた。
一度きりの命だから、軽い調子で生きたくない。
一生懸命やっていると笑われた。
彼らにとっては、懸命に生きていることは「マジになってる」と笑うようなことだった。
軽いノリで生きていても困らない家の人たちには、負けたくないと思った。
僕にとってカッコいい生き方とは、真剣に考えて少しずつ努力で何かを身に着ける生き方だった。
他人にOKしてもらえれば、どうでもいい人生は持っていない。
「人生をパロディ化している」と加藤諦三先生が著書に書いていた。
彼らの人生はパロディなのだ。だから軽いノリで生きているのだ。
人生は一度間違えたら、もう元に戻ることはできない。
一度選択して進んでしまったら、もう元の道には戻れない。
本人の自分への態度。それが本人の人生の重さだ。
パロディなのだから、どうなっても構わないのだろう。
どうなっても構わない人生でなければ、他人にOKしてもらえればいいやと思わない。
使ってしまった人生は、どうにもならない。
何歳になっても、それは変らないようだった。
言っていることはまともだが、態度はおかしい。
感情はない。
自分の人生を半分使ってしまって、それが親に操作された人生だったと知っても、「わー!こわーい!」とへらへら笑っている。その程度の人生なのだ。
人生の重さは、これまでどれ程自分の人生に真剣に取り組んできたかによって決まる。
母親が愛情をこめて接していないと子供がちっとも大事に思えないように、自分自身の人生も自分が大切に丁寧に生きるから重要になってくる。
僕は親のために犠牲にした人生の部分は、口惜しくて仕方ない。
だが、人生がパロディになっていると違う。
「なぜあんな時間を過ごしてしまったんだ」と悔やまない。
「すごい後悔してるー」と笑って言えるくらい、悔まない。
笑える人生ならば、それでいい。今も笑っている。
困っている、どうしたらいいのかわからない、というが、そんなに困っていない。
自分の人生ではないからなのだろう。
そしてそれなりにかたちはちゃんとできているから、満足なのだろう。
「彼女にとっては「かたち」とセックスが大事だった」
”マディソン郡の橋”の心理学、加藤諦三先生の著書だ。
かたちさえなんとかできていれば、うまく行っている。
気持ちなんてない。愛されないことさえも大袈裟に嘆くか、軽く笑える人生だ。
本物の人生だから、もうどうにもならない。
見えないところで努力している人はしている。
結果が出せるのはそうした人だ。
彼らはなぜ困っているのかわからない。
過去は完璧にできあがっている。かたちだけは。
彼らは理想的なかたちさえ作れれば、気持ちのことはどうでも良かった。
彼らにとって「人格」とは、「立派なことをしているかどうか」のようだった。
社会的に良い肩書を持っているようなことが、彼らにとっての「良い人」だった。
だからこそ、「自分がちゃんとできているかどうか」の基準は、全て社会的に理想的なことをしているかどうかだった。
思いやりとは、気持ちの話ではなくかたちの話だった。
楽しんで生きる、ということも、「楽しんで生きている」というかたちの話だった。
それっぽいかたちさえ作れば、皆に見せることができれば、自分自身が実際感情を体感しているかどうかは、気にしていなかった。
彼らは親から愛情があるかないかは考えなかった。
彼らが言う親の愛は、自分が気に入る言葉や説明をするか、必要なものをくれるかどうかだった。
感情は五感の更に上である。
感情を感じる能力が失われると、五感もおかしくなる。
五感を感じる能力をおかしくしてしまうと、感情も感じなくなる。
感情を抑圧した人は、五感の方もおかしくなる。
アレジー症状などによく見舞われる。
感情的レベルの内部表現を洗脳によって書き換えられた。
そこから問題は発生し始めた。
この話は、長くなるのでやめておく。
そしてどうもこの手の話は難しいらしい。
僕が初めて加藤諦三先生の著書を読んだとき、すぐに理解した。
即実行すると即結果が出て、みるみる意欲が湧いてきた。
「これさえ読めば人生は変わる、魔法の方法だ!」と思い友達にもどんどん進めた。
だが、誰一人僕のように読んだ人も理解した人もいなかった。
僕は加藤諦三先生の本は、いつも大部分を笑いながら読んでいる。
面白いからだ。表現がうまいからだ。カッコいいからだ。
そして時に泣かせる。本物のドラマを生んでいる。感動させてくれる本だ。
こんなすごい表現をする人がいるなんて、とすっかりファンになった。
そして魔法の方法が載っている。
僕はその魔法の方法を学びたくて、精神分析学を始めた。
心理学のベースは大学の心理専門課程内容だけ学んでいたが、人間性心理学に特化したいと思った。
これは魔法だ、悟りを開く方法だ、とワクワクした。
とにかく、その内容を学び、僕自身が自分の能力で即座に分析できるようになりたかった。
そして、一応なれた。まだ言語化のスピードが遅い。感覚で認知して、結論はわかるが表現を作るのに時間がかかる。まだまだ鍛錬が必要だ。
だが、なぜかその魔法の方法を読んでも理解できなかったり、また間違っているかのように思う人たちばかりだった。
間違ってない。そのままのことが書いてある。
真実が書いてある偉大な著書だ。
自分が人間なのだから、真実であることはわかる。確認できるから。自分が人間だから。
僕には理解できなかった。
苫米地英人博士の本は、更に難しいようだった。
あれほど高度なことを結論だけ単純に書いてくれる本はない、と思う。
だが、IQ200超の理解力はけた外れなようだった。
理解したら実行する。即結果が出る。
こんなに楽しいことはない。みるみる自分が力強く感じられる。
と思うのは、僕が稀だかららしい。
なので、僕自身も体験を重ねながら地道に方法を探している。
真剣に取り組んでいるが、悩んでいる人は真剣に取り組んではいない。
軽いノリ、という態度の人は多い。
昔、「常に軽いノリでやる」という男友達がいた。
軽いノリでやっているのに、こんなにできちゃった、がやりたい小学生のような男子だった。
既に高校生だった。高校生だが、軽いノリでやって、言葉だけスラスラ言いたい、小学生っぽいやつだった。変なあだ名をつけられていたが、致し方ない。本人はカッコいいつもりなのだ。
常に格好つけている奴だった。態度が変な奴だった。
「漫画キャラ」とも呼ばれていた。何かになり切っているからである。
普通、軽いノリで笑っているならば、当然笑っていられるだけの実力を備えているはずだ。
笑っていても平気な人しか、笑ってはいない。
実力を備え、真剣に考え、そして必要なことはしているから、笑っていられるのだ。
娘に言った。
「俺が笑って冗談ばかり言っていられるのは、必要なことは真剣に考えて決断し、実行しているからだ。笑って冗談を言いながら必要なことができるわけではない。お前も真剣に自分自身のことについては、自分で考えろ。」
勿論、言うだけではない。必要なことはやらせる。教育だ。
そして僕自身がどんな方法を取っているのか教え、必要なものを渡す。
精神鍛錬術の伝授だ。
こうした方法は、親から子にしか伝えられない、門外不出の教えとなる。
普通はそんなものだろう。
親から子にしか伝授されないものがある。
生きるため、子孫繁栄のためだ。
勿論、僕も人にその全てを教えるわけではない。当然だ。
まず我が身、そして我が子の身、そして親しい仲間たち、優先順位がある。
勿論、我が身を優先しても、子供は自分の守る枠の中にいるのだから、その間に育っていけば問題ない。
彼らは自分の人生など考える必要がない。
真剣に考えている人は別にいる。
僕は僕の人生を真剣に考えるが、娘の人生は娘自身が考えなくてはならない。
「俺が生きているうちだけだ。いつ死ぬかなんてわからない。いつまでも親がいると思うな。」
そう娘に申し伝えてある。
友達を大事に、仲間を大事に。
人をよく見るよう、社会をよく見るよう。
そして男をよく見るよう。
「どんなことがあっても生き延びる男を選べ。何があっても自分の力で考えて、決断できる男を見つけろ。仲間の中で頼りにされているような、生存本能が開花しているような男を選べ。」
そう言いつけてある。少なくとも僕以下は絶対に選ばない。子供は父以下の男は選ばない。
そして「あのような男だ」と見つけると教えてきている。
心理的に健康な家族にしても、見つける度教えてきている。
どこの誰がまともで頼りにしても安心か教え、何かあった時のために僕自身があちこちで縁をつないできている。
自分が消えても人間関係が財産として残る。人間こそ最大の財産だ。
人生は常に新しいことの連続である。
僕自身も常に新しい問題に直面する。
その都度真剣に考えなくてはならない。
どうなるかわからないのだから。
その人にとっての重要性がある。
父親に認められたい彼女は、僕に認められるかどうかはどうでも良かった。
記憶の中の父親を見返せる自分になった時に、僕は父親の代理として「すごいなあ」と喜んであげればいい。そういう流れだった。
そして父親の代わりに彼女が父親にしてほしかったことをしてあげる。
それで彼女は満足だった。
目の前にいるのが本物の父親であれば、彼女は更に嬉しかったのだろう。
既に子供ではないから、うまく行かない過去の再現をしているのだ。今度こそ成功させるために。
ただし、僕が何度それを繰り返したところで、家に帰れば本物の父親がいる。
何度となく似たような体験をするから、僕のところでやり直しをして成功させるの繰り返しなのだ。
父親は彼女にとって本物だが、僕のところでは全て再現なのだ。
「ごっこ遊び」である。
彼女にとっては自分にしかない記憶を中心に作る関係が欲しかっただけなので、僕との関係ではなく父親との関係なのだ。
その程度の、恋愛としてはごっこ遊びのような体験だった。
僕自身も二人の関係を作っているという実感はなく、大切につくっているのが彼女の過去の話なのでそんなに大切には思えなかった。
人生の重さもそう。
その問題の重さ軽さは、本人によって扱いが違う。
大した人生ではない。それがよくわかる。
死ぬまで生きても大した人生ではない、と本人がもう決めているのだ。
個々に自分が決めたことだ。
だからそれは個々の自由だ。
親の人生を生きる人は、真剣に人生など考えなくてもよい。
必要性がないから。
親が自分のために何をさせるか、真剣に考えてくれている。
だからあんなにみな軽いノリなのだ。
どうせ自分が生きる人生ではないのだから。
「自分の人生を生きられない病」加藤諦三
親の人生の付属品を生きているならば、確かに親の気持ちが一番大事に決まっている。
親の心の世界を生きるのだから、親の思い通りの人間として親の中での事実に相応しい感情を持たなくてはならないだろう。
とはいえ、他人の脳内の世界を現実を使っていきるのは、大層困難な話だ。
最後までそれは現実を利用した非現実の世界なのだから。