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他人にできることはたかが知れているけれど、自分の役目は何か

 他人にできることはたかが知れています。

 他人を救うなんてことはできませんし、ブッダの言う通りこの世に救いなんてものはありません。

 ただ、「あの時は本当に救われたなあ」と乗り越えていってから思うことはあるでしょう。

 僕も子供の頃に救われたと思ったことがあり、慈悲深い家族に出会い自分だけの意思で生きねばと思いました。

 そのように「救われた」と思った体験があるならば、今度は自分が同じことをしてあげる番です。

 なんでも順番に、してもらったらしてあげる、なのです。

 最近、娘が中学生の頃の友人に久々に会ってきました。

 もう十年は前の話ですが、その子は親に虐待されていました。

 「家族でキャンプに行かなきゃならないんだけど、キャンプは嫌い、行きたくない。」

 うちに遊びに来て、そう言っていました。

 嫌いな理由はあれこれ述べるのです。

 虫が嫌いだから、朝が早いから、など、いくつも出てきます。

 父親がアウトドアが得意らしく、父親指導のもと家族みんなでキャンプをするのが恒例だったようです。

 僕は話を聞いて、「もし友達と一緒に行くとしたらどう?」とその子に聞きました。

 すると、その子は想像してみて、「だったら行きたい!みんなで行ったら絶対楽しい!」と嬉々として答えました。

 そして自分でハッと気づいてこう言いました。

 「そうか、私は家族と行くのが嫌なんだ。メンバーの問題なんだ。」

 我慢しているということに、これほど気づかないものなのかと思うほどでした。

 既に小学校低学年の弟は臨床心理士のカウンセリングを受けていると言います。

 母親は怒鳴り散らしたり暴力を振るったりするようで、家にいる時はできるだけ自室に閉じこもっている、という話でした。

 「父親の接待をしているような家族」だったのです。

 ある日、明日キャンプだけど行きたくない、そっちに行ってもいい?と深夜0時過ぎに娘にLINEが来ました。

 さすがに今から来ていいよというわけにもいかないので、話を聞いて宥めていましたが、翌日は母親に抵抗して「行きたくない」と言うと、

 「お父さんはあんたたちを楽しませるために連れて行ってくれるんでしょ!」

 そう母親に怒鳴りつけられ、殴りつけられ、車に引きずり込まれて無理やりキャンプに連れて行かれたそうです。

 「私たちを楽しませるためじゃないよ!お父さんを喜ばせるためでしょ!」

 うちに来て怒っていました。

 お父さんすごーい!お父さんこれやってー!

 そんな風に、「頼りになるお父さんをちやほやするため」にいつもいつも家族恒例の行事があったのだと、その時その子は気づいたのです。

 うちに来て気づいてからは、うちに来ても家族の不満を普通に言うようになりましたが、その子自身も気づいてから抵抗していたようです。

 先日、その子が言っていたそうです。

 「あの時が一番ヤバかった。あの頃ゆうきさんに話を聞いてもらって救われた。何も知らずにあのままだったら本当にマジでもっと大変なことになってたと思う。」

 今は、母親とはすっかり仲違いしているものの、家を出て友達と暮らしているそうです。

 とてもこの家にはいられない、というほどの大げんかもあったようです。

 親とは不仲なものの、元気でやっているようで、話を聞いてよかったと思いました。

 その子は、ずっと我慢していて「うちの親はおかしい」と気付いていなかったのです。

 自分が悪いんだと思って、我慢して父親に感謝しなくてはと思っていたのです。

 「あんたたちのためなのよ」と言われて我慢を強いられてきたので、いつもいつも楽しくなくても言う事を聞いていたのです。

 僕はかつてしてもらっていたように、娘の友達をよく家に呼んで食事をさせていました。

 「救われた」と聞いて、これで僕も少しは恩返しできただろうかと思いました。

 僕のだいぶ年上の親友が、色々面倒を見てくれた時にも言っていました。

 「俺に恩返しはしなくていいから、後から続く下の子にやってあげてくれ」

 若い頃はよく食事をごちそうしてくれて、代わりに話を聞いて欲しいとか、少し頼まれごとをしてほしいとか、そんなことがよくありました。

 僕は日常的に沢山の友達の話を聞き、代わりに食事をごちそうになるとか、何かもらうとか、そんなことをしていました。

 貧しかったのですが、そんな風に友達がいればお互い様で助けてもらえるものだと思っていました。

 最近も、近所の居酒屋か食事処かという場所で出会ったばかりのおじいさんに、ごちそうになりました。

 色々他人様にしてもらってきていますが、僕自身の人生を変えたと言えるほど感謝しなくてはならない大きなこともあり、やはり自分もしてあげるようにならねばと思っていました。

 「なんでも順繰りなんや」

 亡くなったばあ様に幼い頃そう言われました。

 人のことは、どうにもできません。

 娘が中学生の頃は、友達にも間違いなく虐待されている子が何人もいました。

 日本では当たり前のように起きていますが、親が子の人生を決めている家庭が沢山あります。

 子供たちはみな苦しんでいました。

 ある時は本当に深刻な子がいて、娘に「助けてあげて」と頼まれました。

 しかし、僕が他人として手出しできるのはほんの少しのことです。

 病院にいるプロと、学校にいるプロに任せるしかないことです。

 ただ、僕自身は社会のプロに救われたなんてことはありませんでしたから、こうして自分がしてもらったようにしてあげて、子供が奮い立って強く生きていてくれればそれで十分だと思っています。

 社会の役目は「社会的にきちんと活動できるようにすること」です。

 個人の人生は個人の話なので、そんなことはどうすることもできないのです。

 個人的な関わりの中でしか、個人的なことはできません。

 社会的な立場で関わるならば、社会的な目的でしか関われません。

 それでも、自分自身の個人的な人生の中では、生きている中で他人に救われたり、救ったりすることがあるものです。

 既に過去に受けた沢山の恩を返し続けて生きねばと思っているので、娘からその子の話を聞いて、本当に良かったと思いました。

 あの子もこの子も、みな苦しんでいて、嫌だ嫌だと言っているのに親に無理やり行きたくない方に進ませられる。

 そんな光景を見ていてとても辛い気持ちだったので、一人でも元気にやっているとわかった子がいて僕も嬉しく思いました。

 皆さんも、過去を振り返ってしてもらったことは、自分もできる力を持ったならば返して行かねばなりません。

 何もできないうちはもらうばかりですが、できるようになったらまた次にお返ししてこの世を去っていかねばなりません。

 僕もこのままでは返しきる前に死んでしまうのではないかと思えますから、今後も精進して進まねばと改めて思いました。

親に受け入れられなかった人が出会う運命の人 ~無料記事~

 神経症の人は、自分を受け入れてくれる人に出会っても親代わりにしてしまいそこで成長することがない、と言われています。

 親に自分を受け入れてもらえなかった人にとっては「運命の人」と呼べるわけですが、なぜそこで変わることができないのでしょうか。

 自分を受け入れてくれる「他人」は、「親」ではありませんが、一体自分を受け入れてくれるとはどういうことなのでしょうか。

 これは理屈で説明するより、実際に体験するとどんな感覚になるのかを話した方がわかりやすいと思います。

 

 自分を受け入れてくれている人に出会うと、自分を嫌っている自尊心の低い人でも自分がいつもより「良い存在」になったような気がします。

 他では、人と話す時にどう話せばいいかわからずおどおどしていたり、盛り上げるつもりで失敗して気まずい空気になってしまったり、周りの冷ややかな反応に傷付いても平気なふりをしていたり、嫌われたかもしれないと思い後で気に病んだりしていた人も、自分を受け入れてくれる人といると、自分は好かれている、うまく仲良くできている、という感覚になります。

 一緒にいても、「嫌われないようにしなきゃ」と相手の様子をいちいち気にしてご機嫌を伺うことなく、緊張して作り笑いを浮かべることもなく接することができて、いつもならほんの少しも関係が良好に進んでいる感覚などないのに、その人とだけは関係がうまくいっている感覚があるのです。

 他の人に対しては「許されない」と思うからやらないことを言ったりやったりしても、相手は態度が変わりません。気を使わずに、自由にしていられるのです。

 そこで「この人は平気なんだ」と思うのです。自分が何をしても許してくれる、それでも好きでい続けて仲良くしてくれるんだ、と思うのです。

あなたが救った人 ~無料記事~

 あなたが救った人は誰か?

 あなたが悪いのではなく、悪いのは別の誰かだった。

 そう誰かに教えてもらい、救われた気持ちになったなら、あなたが誰かに悪者にされた時にあなたはその人の心を救った。

 あなたが恩知らずの裏切り者となった時、あなたは相手を救う。

 そして、あなたが恩知らずの裏切り者として扱う相手に、あなたは救われて生きる。

 あなたが期待に応え続けなくては裏切り者とされてしまう誰かの元で、期待に応え続けようと努力する限り、あなたはその相手を救い続けることができる。

 救い続ける代わりに、誰かに救いを求め続けて生きる。

 救い、救われ、いつまで経っても終わらない「人ならざる特別な存在の人生」は続く。

 

 

陰キャと陽キャ・真の仲間を知らない人たちへ ~無料記事~

 気に入らないやつをやっつけるかどうかは幸せには関係ないです。

 本当に心通う、絶対の安心がある仲間には必ずルールがあります。

 それにしても、「陰キャ、陽キャ」って言っているのは陰キャ(自称)の人ばっかりですね。

 今回はいじめと、いじめがない仲間についてのお話です。

 

 

独りよがりな世界を脱せるか?金持ちの方が我儘な件 ~無料記事~

 独りよがりな世界を脱せるかどうか。

 これは簡単な問題ではなく、社会的に成功している多くの人は独りよがりな世界を脱していません。

 今日、丁度世界のビリオネラと呼ばれる超富裕層たちが、なんでも手に入れているのになんにでも文句を言う、というニューヨークタイムズの記事を読んでいて、さもあらんと思っていました。

 欲しいものがなんでも手に入ると、独りよがりな世界は脱せ無くなっていきます。

 言う事を聞いてくれる人がいてもダメです。

 独りよがりな世界に居続けるには、他人が望みを叶え続けてくれる必要があります。

 そのため、「この人なら許してくれる」「この人ならなんとかしてくれる」などの依存心が強い人は、いつまで経っても相手に依存して独りよがりな世界を脱しないのです。

 独りよがりな世界とは、一体なんなのか?

 自分の頭の中だけに作られた世界であり、完全に空想妄想の世界です。

 人間は最初はその世界を生きていますが、ブッダの教えにもある道理を考え、見えなくてもわからなくても、人のことも尊重し、我を捨てて行けばやがて脱することができます。

 ただ、そこにたどり着く人は限られた人であり、誰もが心が感じる幸福になれるのかと言うと、なれるのにならない人が殆どなのです。

 今まで自分が生きている、と思っていた世界そのものが「なかった」と自覚するには、相当な恐怖心との戦いに打ち勝たねばなりません。

 今までの継続をしている限り、何も変わらないのです。

 しかし、深く考えることがなければ、今まで生きていた世界がないなんてことは到底信じられないことでしょう。

 とにかく「深く考えさえしなければ」今まで通りに生きていけるのです。

 他人のせいにし、他人に何かを要求し、常に他人ありきの世界を生きていけるのです。

 今までの経緯を考えれば、自分が幸せになるためには誰かが我慢しなくてならなかったり、誰かが悪者になったり、自分以外の人の幸せがどうでもいい世界になるというのに、他人が不幸になる世界を思うより平気で人間は生きて生きます。

 結局は「自分さえ良ければいい」の考えなのです。

 誰かを悪者にすることで、自分を良い方にする。

 自分で勝手にそう決めつけているのですが、「だから自分には特別な何かがやってくる」などと思うのです。

 取り返しがつかないことをしてしまった時、もうそれは「取り返しがつかないこと」です。

 僕も人生では序盤でそのような体験をしましたが、もう取り返しはつきませんでした。

 取り返しがつかない、ということは、もうどうにもならないということです。

 何がどうなるかというと、「もう自分が良い人として生きることかできない」ということです。

 理由を言おうが詫びようが、自分が良い人にはならないのです。

 最初から人のことを考えずに生きてきたならば、それは当然です。

 とはいえ、往生できない人はなんとかして「自分の自我イメージ」を守ろうとします。

 なんとかして「いい人」になるために、他人に我慢を強い、他人のせいにし、自分は今まで通りの「いい人」で生きようとするのです。

 これは「いい人」ではありませんが、自分の頭の中で「今まで通りで大丈夫」にするために、他人に手伝ってもらって脳内の世界を維持するのです。

 現実は一度過ぎたらおしまいです。

 後から自分の気持ちをどうしようが、意識をどう変えようが、過去は変えられません。

 自分が他人の過去の体験や、他人の意識まで変えることはできないのです。

 僕は本当に親切な友人とその家族に出会い、一度の失敗で往生しました。

 最初は「今までのストーリー」の続きを生きるために、友達に謝りに走ろうかと思いました。

 しかし、それは相手に我慢を強いるだけになります。

 僕が慌てようが、相手の過去は変わっていません。

 自分自身が「もうおしまいだ」と絶望の淵に立たされた時に、慌てて友達に縋りついて、「今までの無し」にしてもらいたくなったのです。

 友達は、最初から僕をいじめるような子ではありませんでした。他の子よりずっと優しい子でした。

 僕が謝りに行っても、友達は諦めて許してくれるでしょう。

 僕が諦めないために、嫌な目に合い尊重もされなかった友達が、過去の犠牲を諦めなくてはならない。

 それはおかしな話です。

 僕の場合は、自分がやろうが他人がやろうが、道理が通らないことは許せないという考えでした。

 自分の時だけ許されるならば、僕自身がそうであって然るべき特別恩恵を与え続ける存在でなくてはなりません。

 そんなものはないどころか、こっちの方が世話になってばかりでした。

 僕の一族の哲学では、そのような時は切腹です。

 言い訳をせず腹を切り、命を持って償うのです。

 よって僕は精神の世界で腹を切り、これまでの自分を自ら滅して心を入れ替え新しい自分に生まれ変わりました。

 「今までの続き」は、今まで良い目に合ってきた自分だけが進みたい道です。

 これまで通りの目的を持ったまま、何度友達に許されても何度でも同じことを繰り返すだけです。

 仏教においても、往生際は大切です。

 今まで自分が生きているつもりの「自分が主人公の世界」などはなから存在せず、自分一人でその気になって生きてきただけなのだ、と自覚するしかないのです。

 起きていたことは何もかも当たり前。

 「悪人は自分であった」

 観察と分析を繰り返して冷静に現状を把握し、自分のあらゆる行動を自分の責任として判断で動かなくてはなりません。

 迷惑をかけただけで、ただ迷惑だった人、で終わる時もあるでしょう。

 本当にただの「嫌な人」で終わりということもあるでしょう。

 しかし、それもおかしなことではないのです。

 自分だけが特別な存在だ、と思って生きている人が、他人を尊重などできるわけがないのですから。

 やるかやらないかではなく、本人的にはそれで当たり前だったのですから。

 ただ、自分の存在を勘違いしていただけ。

 この世は私のためにはなかった、というだけなのです。

 そして一般的に形ばかりで人を推しはかるので、「社会的に成功している金持ち」は心理的にも成長していると考えがちです。

 というより、内面を気にせず物理的なものだけしか考えずに生きている人が多いようです。

 人間性、魂、精神、という存在については、考えないのでしょう。

 金持ちほど庶民には理解できないほど我儘です。

 なんでも思い通りにしてもらえるとなったら、ここまで酷いものかと驚くくらいです。

 内面的に成長するよりも、物理的に思い通りに動かす力を得てしまった。

 そして内面的には成長していないので、いつもいつもイライラしていて不幸な人なのです。

 なんでも手に入る代わりに、あれもこれも気に入らない。

 細かいことがいちいち気になって仕方ない。

 結局、何をどんなに得ようが、満足できない人はどこまで手に入れても満足できないのです。

 今あるものに満足できる人は、人間性の向上によって幸福に到達できたのです。

 向上の道は死ぬまで続きます。方向性の違いでしかありませんから、終わることはなく進んでいきます。

 だからこそ、より幸福になって行く人と、より不幸になって行く人に分かれてしまうのです。

 僕も少しばかり「金持ちの我儘」を実際に知っていますが、お母さん相手に我儘を言う子供レベルに我儘なことを言います。

 庶民ならば発想すら出てこないような内容です。

 内容については実際に接してきた人が故に話せませんが、とにかく、「そんなこと頼む人がいるのか」と驚きました。

 しかし、バカにすることなどできないのです。

 内面的に成長に向かわない人たちは、身近な人、当てにした人に対して、「子供レベルの我儘」を言っているからです。

 欲しいものをどのくらい手に入れているかの違いはあっても、内面的にはなんら変わりないのです。

 庶民だから我慢するしかないとしても、金持ちになったらみな同じことをやるでしょう。

 なにせ「いくらでも我儘を聞いてもらえる」のですから。

 その代わり、いつまで経っても「満足しない」餓鬼の地獄が続くのです。