月: 2019年2月
過去をやたら話すな
人間関係を円滑にするために、守るべきことがある。
今、そしてこれからに必要ない自分の過去をやたら話さないことだ。
やたら過去を話す人は、自分に気を使ってほしい。
黙っていたらしてもらえないことを、要求している。
笑い話にしてみんなを楽しませたいわけではない。
自分の過去に配慮して「私の過去に適応する努力をしろ」ということだ。
しかし、人は気を使わなくてはならないことは避けたい。
配慮などしなくてはならない人は面倒くさい。
今その人がどうかだけならば楽なのに、今に関係ない過去の何かに配慮して扱わなくてはならない。
それだけで、人は避けたがる。
自由を奪われる。
知らなければなんともないことも、知ってしまったら遠慮する。
だからやたら過去は話さないほうがいい。
過去の未練を断ち切るには、過去を利用しないことだ。
過去に思い残しや恨みがある人は、過去を利用して未来の人間関係を作ろうとする。
過去のためにこれからの人生を使ってしまう。
「過去にあれこれしたかった、してほしかった」
これを今からの時間で叶えようとしてはいけない。
今は今で、人間には必ず何かの欲求が生まれているから。
今の欲求を今満たせば満足するが、過去に叶えたかった欲求を今満たしても、満足はしないから。
まず、今の結果を受け入れることだ。
できなかった。
思った通りにならなかった。
「どうしたら思い通りになるか」を考えるのではなく、まず「できなかった」という事実を受け入れる。
そして、これからどうしたいのか考える。
例えば、結婚を失敗した人が何度でも同じことを繰り返す。
今度こそ、と繰り返すことはチャレンジ精神旺盛だと言えない。
なぜならば、その結婚自体後ろ向きな恋愛から生まれたものだからだ。
今の自分で生きようとしない人は、過去を利用する。
そして人に気に入られるために「将来の期待値」を上げようとする。
現実に今何かできるわけでも、結果を出せるわけでもなんでもない。
説明によって未来の期待値を上げようとする。
実際の自分より高値で人に売りつけようとする。
たった今の自分こそ、最も大切な価値だ。
たった今の自分の価値で生きることこそ、大切なことだ。
今の自分が、今の自分自身だけで今を生きる。
それが全員にとって当たり前のことなのだ。
自分と同じことをする人がいたら、ぜひ選びたい。
そんな自分であることだ。
過去は一度利用して味を占めると手放せなくなる。
過去を手放せなくなったら、今を生きられなくなる。
「今、ここにある自分」をそのまま受け入れる。
そこに是非など必要ないのだ。
そうなのだから。
理由はどうあれ、そうなのだから。
そして他人には理由など関係なく、今どうなのかだけしか必要ないのだから。
過去を語らなくなれば、人は自分に対して勝手な想像で接してくる。
その勝手な想像の中身に、相手の人格が出る。
だが、過去を利用せず、自分の価値を底上げせず、ただそこに今ある自分として接してもらえた時、人は「受け入れられた」と感じるのだ。
どんなに相手が受け入れてくれる人であっても、自分が今の自分で勝負できない限り、受け入れられたとは感じない。
自分として生きている人をいくら受け入れることができても、自分を今のまま出せなければ、今の自分の意思を伝えられなければ、受け入れられたと感じることはない。
理解しあうということは思うより遥かに難しく、一方的に受け入れるだけではだめなのだ。
互いが自分の自然な姿を出していて、初めて成り立つものだ。
今の自分じゃなくて、これからの自分を見て接してほしい。
今の自分は過去のせいだから、今の自分だと思わないでほしい。
そのようにして、今の自分を存在させないならば、誰も受け入れることはできない。
自分が受け入れない限り、誰にも受け入れてはもらえないのだ。
そこにまず自分が存在することが必要なのだ。
過去を語り過ぎれば、相手のすることがいちいち許せなくなる。
知らなければ許せたものも、許せなくなる。
だからやたら過去は語らないほうがいい。
過去は今の自分に必ず関係している。
過去があって今があるのだから、いちいち語らなくとも今の自分でいればいいのだ。
それが現実の結果なのだから。
絶対に何があっても受け入れる他人がいない人が、他人に絶対の安心など求めるものではない。
出会った時からが勝負だ。
過去は決して変えられないし、消せない。
だからこそ、黒歴史の過去など残さないことだ。
自分の人生でやり直しは聞いても、相手との人間関係に「やりなおし」はないから。
一度経験したら、二度と忘れないから。
今の関係があることも、過去があるからだ。
過去にあったものを無いものにするために努力することは不毛だ。
無いものにしたい過去ならば、自分が作らなければいい。
言い訳したいような過去ならば、やらなければいい。
しかし、その時はそれしかできなかったのだ。
それが、自分の実力なのだと受け入れることだ。
過去の失敗は、失敗であっても自分にとっては最大限の自分だ。
後悔はいくらでもできるが、実際にやったことはひとつなのだ。
言ったこともやったことも、ひとつなのだ。今はひとつしか残せないから。
そのたったひとつの今を、どう生きたか。
それこそが、自分の価値だ。
それが自分なのだ。
あらゆる理由があったうえで、どうしたかなのだ。
過去をこれから作るなんてことはあり得ない。
たったひとつの今にそれを選んだことそのものが、自分にとっては意味あることなのだ。
自分がそのたったひとつを選んだのだから、結果がどうあっても過去の自分を責めないことだ。
そして他人を責めないことだ。
誰が悪いかなんてどうでもいいし、決められない。
ただ、「そうだったのだ」という事実があるのだ。
過去を繰り返そうとせず、完璧に叶うまで何度でも同じ夢を追わず生きることだ。
失敗した過去も、今を生きればやがては輝く軌跡となる。
振り返った時に、過去が輝く軌跡に見えるような今を生きることだ。
今を生きるしかないのだから。
言葉を聞くんじゃない
味方は自分で決めている
まだ見ぬ友人へ
取り急ぎ書きたくて仕方ないことがあるが、そちらは体力と時間が必要なので、今は少々君に伝えておく。
良い兆しあり、これは役立つ経験となりそうなのだ。
神経症が完治した瞬間を見た。
それはほんの一瞬で、見た目には何も変わらない。
この瞬間に何が起きたのか、それすら殆どの人がわからないだろう。
その経験を得て、君にひとつ伝えられることができた。
味方と敵は、自分で決めているのだ。
「自分が人に対してどのように接するか」で決まる。
例えば僕は、人を敵として扱わない。
「どう扱うか」なのだ。
自分への扱いが他人への扱い
自分を味方にしている人は、他人を味方として扱う
自分が接する時の扱いしか、選べない。
自分が相手に対してアクションを起こすときに、どのように接するかなのだ。
相手をなんとして扱うか、それで「自分にとって相手が味方か敵か」が決まる。
この人は味方にしておいたらいいな、と思う人には味方として接する。
相手を味方として扱うということだ。
自分から誰も敵として扱わなければ、自ら敵を生むことはない。
自ら敵を生むためには、自ら敵意を持って人に接すれば良い。
非常に簡単なことだ。
自分で決められる。
もちろん、自分からは味方として接しても相手が味方として扱ってくれるかは決められない。
自分から接するときに相手をどう扱うか、そして誰かが接してきたときにどう扱うかだ。
非常に単純なことなのだ。
人は大勢いるが、直接接点を持つことはまずない。
全人口のうちの、どれだけの人と人生で出会うだろう。
そしてどれだけの人と実際に接するだろう。
損をしないためには、この人は優れている人だとか、話を理解する人だとか、何かあらば助けてくれる人だとか、そう思える人には特に味方として接することだと思う。
人は実際に目の前で接してみないとわからない。
僕は超一方的に母親に批難されることがあったが、僕には僕の理由があるのに聞いてももらえなかった。
故に、今何をしていても、また過去に何をしていたとしても、本人には本人の理由あってのことだと考える。
大切なことは、自分に対してどう接してくるかであって、これまで何をしていたかではない。
僕が弟と呼んで可愛がっている少年も、ネットの掲示板で炎上しては喧嘩になっているような子だった。
だが、弟には弟の理由があったし、一度は学校を辞めたもののがんばって模索しながらあれこれと努力はしていた。
今も可愛い弟だ。
まず世間から見ればあまり良い子ではないだろう。
だが、それなりの理由があるのだ。
どんなにまずいことをしていたとしても、本人には本人の理由がある。
まずいことはまずいことに代わりないが、それなりの理由は誰にでもあるのだ。
僕は自然の流れを大切にしているので、僕が選べない他人からの扱いについてはこう考える。
もし相手が好意的に接してきたならば、僕が何かしてあげられることのある人だろう。
もし相手が敵意を持って接してきたならば、僕にしてあげられることはない人なのだろう。
ある時期になると、いつも考えることがある。
多くの人が権威や役職を絶対のように考え、「~が言ったから正しい」なんて思いこむものだ。
しかし、社会的には僕より遥かに良い経歴と役職に就く方々の中に混じるにつけ、師の仰った「どんなに学歴があっても地位があっても、その見えないものを見る目だけは滅多に持つ人がいない」という言葉を思い出す。
彼自身「心理学者でありながら…」というくだりを著書に書き記していたが、確かにと納得したのは自ら経験をした時だった。
話を聞いていると、治療にあたる人の息子が完全にノイローゼ。
何をしたいかわからないと言い出すのだ。
それをどうしようもなく困ったことのように扱いながら、「どれだけの金がかかってると思っているんだ」とこぞって社会の理想に倣わない子供たちを批難する。
そりゃあそうだなと思う。
それなりの地位や学歴を持った人々からすれば、せっかく援助してやるというのに言うことを聞いて「感謝しない」など恩知らずなことだ。
僕のように自由にして良いと思う人間は少ないし、とても正しいことだと言えないだろう。
だが、正しいかどうかではない。
本人がどうしたいかなのだ。
かつては僕も「治療者でありながら」と思った。
しかし、そうではないのだと思いなおした。
僕より遥か経験ある先生方のこと。
差し出がましい考えだ。
何よりも、人々が求めるのだからそれでいいのだ。
神経症は遺伝の病。
全体がそうなのだから、権威や役職を信じる人たちとて、自らの親たちと同じだと思えばなんともないことだろう。
何よりも、理屈で間違ったことはしていない。
きちんと必要なことはやっている。
神経症の人は心を見て欲しがっているようで、実際のところは誰かの判定を欲しがっている。それもできるだけ強い権威からもらいたい。
なので、別に権威ある人々に従ってうまくいかなくとも、怒ることもないだろう。
何を信じるかは自分が決めたのだから。
あまり医者や学者を絶対だと思わないでほしい、とハーバード大学心理学者のランガー教授は言う。
私たちにもまだわからないことは沢山あるし、絶対とは言えないのだからと。
そりゃあそうだ。人間がやっていることだ。
仕事でも問題が発生したら、今できる限りのことをするしかない。
わからなくとも、どうなるか知らなくとも、今最善を尽くすしかない。
失敗したらしたで、しょうがない。
困ったことに応じて必要なものがわいてでるわけではない。
困った困ったというならば、誰かができなくともなんとかしなくてはならない。
できなくとも、なんとかしなくてはならない。
心理学は奥の深いものだ。
学んだだけで自分自身が変わるならば、全員が悟りを開いている。
僕は僕で正しいと思うことをするが、今の世には必要ないと思うこともある。
決まったことを一番できるかできないか、それはどこまで上に行っても同じことなのだから。
そしてそれが悪いわけでもない。間違ってもいない。
悪意もない。
どこまでも利権が絡んでくることも、この社会を考えれば当然のこと。
奉仕活動ではないのだから。それはみな重々承知だろう。
権威主義の父を恨んだような人は、社会に出て外面の父親のような人を絶対視する。逃れられない連鎖だ。
僕が不思議なのは、権力が絶対、社会の理想が絶対になってきたら、自分がそうなれていない人から劣等になるのに、自分がそうでない人がなぜそんなものを崇めるか不思議だ。
自分が絶対に持てないものを持つ人を崇め、その力を使うからには
自分がその分、価値を低くすることは当然のことだ。
比較して上にしているのだから、比較して自分がより下になっていく。
ある社会心理学者の先生が、生徒たちにこう聞いた。
「タバコは実のところ絶対に癌になるという根拠はまだ見つかっていません。
可能性が高くなる、というだけで、そうなると決まったわけではありません。
なんとなく「危険性が高まる」と書かれればそうなるように思いこむだけです。
そして今、この話を聞いてどう思いましたか?」
まあ、色々な関連性を考えればリスクが高まることは間違いない。
しかし、似たようなリスクで言えば酒も同じことだ。
更に酔っぱらった人は事故を起こすこともあるし、暴れることもあるし、依存症にもなる。
養老先生が皮肉るのもわかる。
そうすれば、欲求不満の人々が叩く的も作れるし、電子タバコも売れる。
世界的シェアの98%が日本だ。
つまり、日本人から企業が儲けられる。
僕たちは基本、休む間もなく働いて企業に金を落とし続けていればいいだけなのだから、別に問題ない。
僕のように流れに乗らない人間は、非国民だ。
良い学校を出て、高い学歴を持って、良い企業に入り、一般的理想の人生をいかにして送るかの競争なのだから。
その競争がしたい人だけが、そこからはみ出して劣等感を持つだけだ。
僕は自分がその流れに乗りたくないので、はみ出した人をなんとも思わない。
だがはみ出した人をなんとも思わないようでは、立派な大人とは言えないのだ。
好き好んでやりたい人だけがやっている競争なので、僕は気にしない。
そんなことよりも自分が楽しい時間を過ごしていることの方が大切だ。
仲間と共に苦楽を共にする人生の方が大切だ。
僕のような書き物をしていれば、僕が気に入らないので敵になりたい人もいる。
同時に、「どうしたらいいでしょう」と相談をしてくる人もいる。
最近は、相談してくる人々が次々良い流れに乗っていくのでうれしい限りだ。
味方、敵、スパイ、というものはスパイ家族に生まれてしまうと区別がつかないようだ。
自分に好意的に対応してくれるのが味方。
自分に敵意を持って接してくるのが敵。
自分の味方のように接しながら、実際には無関心なのがスパイだ。
いきなり噛みつく人もいるが、それが敵だ。
初っ端から支配と服従の関係にならねば、始まらない。
とはいえ、味方にしたいか敵にしたいかは本人が決めることなので自由だ。
争いを少なく生きるためには、自ら誰かに敵として接しないだけでも十分だ。
なので、自分から相手に直接アクションを起こすときには、好意的に接する方が得だろう。
他人は自分のことを知らない。
過去も、今も、全く知らないところから始まる。
だから初めにどう接するか、そこからどう接していくかで相手との関係性は変わるのだ。
自分次第。だから他人は良いものなのだ。
親なんて自分がどうあろうとも、変わらないものなのだから。
それにしても、最近はこと良い兆しだ。
春めいてきたことだし、良い流れが来そうだ。
君がもし、今不満な人生を送るならば、良い流れに乗っている幸せな人たちの中に入れてもらうといい。
幸せなんて、即なることも可能だ。
何かが起きてなれるものではないのだから。
何かが起きないと幸せになれない、と思っている人は
それが幸せではなく腹いせであることに気づいていないのだろう。
勝ち誇った時には、誰かの恨みを買っている。
ある外科医師は
「生きたい」というのは嘘で、それは「死にたくない」なのだ。
と言ったそうだ。
その通りだと思った。
「幸せになりたい」という人も本当は「不幸だと気付きたくない」と言っているのだから。
君よ、つらいことがあろうとも、苦を捨てることのないよう。
苦しみがなければ、喜びというものは存在しないのだから。
最上 雄基
「矛盾してない?」「してるよ」
千田先生の著書にあった文句だ。
「矛盾してない?」
「してるよ」
自己実現している人は正反対の視点を持っている。故に、視点がひとつしかない神経症者には矛盾していると思えるのだ。
神経症者は自己実現している人と会話していると、混乱する。
ひとつの世界しかないからだ。全部同じ視点の話に聞こえている。
「あなたは矛盾している!」
「常識的に考えておかしい!」
必死になって僕の視点をひとつにしようと、何時間でも僕がどんなにおかしいか怒りを撒き散らして説得にあたる人がいた。
おかしい!おかしい!
そう言い続けながら、二年。
普通の人でも、他人が何を言っていても間違っていると思っても、それを正には行かない。
自分が正しいと認めさせるため、自分と違う人を排除に回っている人だ。
が、それは突如起きた。
僕も瞬間を目の前で見たのは、まだ二度目だ。
神経症が治ったのだ。
気付いた。
何を言っているのか。
世界をふたつに分けた。
教えられた正しい世界に囚われていた彼女は、私の実際の世界を取り戻した。
気付くと、驚きに涙を溢れさせた。
二年間、散々「きちんと説明してちょうだい。あなたの言っていることはおかしい!」と繰り返してきた。
これだけでも、権利無視の行為である。
わからないから教えろ!私は納得出来ない!
別にこっちは納得してくれと頼みに言っていない。向こうからやってきた。
母親でもない、保護者でもない、指導者でもない。権利はない。他人には他人の自由がある。
彼女はパニックだった。
心理的に混乱するので、僕に安心させてもらいたいのだ。
自分のこれまでと一致しないと、安心できない。一時はブログを見張っていたと言う。
私生活を費やして、二年。
僕は脱力したが、彼女は一気に開けた視界に涙して、言葉も無かった。
脳内で記憶のドミノ倒しが始まった。
一気に記憶が塗り変わる。
「初めから…」と過去の記憶を振り返りながら彼女は言った。
「私はずっと勘違いしてた。」
泣きながら僕に詫び、ありがとうと言った。
世界は拓けた。
自分の世界を取り戻した。
普通は時間も手間もかかりすぎるから、完治を目指さない。
だが、僕は常に完治を目的にしている。
自分の知る世界と一致しないと、自分のこれまでの生き方を肯定するべく違うものを排除しに行く生き方。
本人の世界は既に無く、最初に親に取り込まれているので親の正しいとする世界の生き方を守っている。
守ると安心。
彼女は世間では!常識では!みんなは!と連呼していた。
「あなた、今、すごく重大なこと言った。私は常識的である事が第一なんかじゃない。私にとって一番大事なのは…私がどうしたいかだった…。」
正しい人生をしっかりと歩んだ。
正しいと言われることをするために、ひとつの視点しか無く、他人と理解し合えず、誰とも心を通わせず。
時間の流れは彼女には無く。変化しないし、今は、もない。
人はその時の状況や、経験により考え方も言うことも変わっていく。
だが、決められたものを守り続けるため、成長の変化を拒んだ。
何も変わらないまま、人生は半分以上進んだ。
時が止まった家族と共に。
彼女は、気付くと10分後には、別人だった。
そのくらい、大変な変化なのだ。
視点が増えた、人の話が理解出来るのだから。何を見ているのかを。
もう、安心だ。
長かった。
僕は自分の人格を奪われないよう、彼女がどこかであったのと同じ目に合わされ続けた。
社会で「間違っている」 と思う人をひとりひとり追いかけて自分が支配できるまで戦っていたら、キリがない。
キリがないが、自分の変化を捨てた人に出来ることは、世界を自分のために変化させる事なのだ。
彼女はもうしない。
今は僕も過去を思い出し、言葉もない。
ただ、良かったと思う。
ラッキー、華、他のみんなも、ありがとう。
君たちが見えない力を貸してくれていたよ。
ありがとう。
あの人がおかしいことにならないと、私が間違っていることになる!
私と違うことを正しいと言うから!それは間違っていることにならないと、私は正しくならない!
この視点から脱した彼女はもう戻らない。
ようこそ、こちら側の世界へ。
これからが、楽しみだ。
彼女はこれからどんどん人生が楽しくなるだろう。
最近は、みんなが上手く行き出す話を次々聞く。
春到来。
いい年になりそうだ。
今、連日出先のホテルだが、早く書きたくてしょうがない。
治る。やはり治るのだ。