月: 2023年12月

遂にわかりやすいことを言った、と思いました

 加藤諦三先生が、遂にわかりやすいことを著書に書きました。

 「今の社会が老人を尊敬しない、大事にしない」

 老人が言う場合

 「もっと尊敬しろ!大事にしろ!」

 という意味です。

 彼は最初から、本人が成長していない人でした。

 当初は僕も驚きましたが、そこは当然言うべきことではありません。

 それが配慮です。悪気があるわけではないのですから。わざとやっているわけではないのです。

 ただ、ここまで矛盾してしまうとどうにも庇いきれないですね。これ以上は僕が一生矛盾して生きる覚悟でもしないと、なんとなく話を合わせてはいけないですね。

 こんなにわかりやすく言いきるとは。

 簡単に言うと、

 「うちのおじいちゃんはすごいんだぞ!」

 「僕はすごいんだぞ!」

 「お前らはもっと感謝しろ!」

 こんな感じのことが言いたいのだなとよくわかりました。

 これは本人が他人に向かって言ってきたことですが、今まで散々人にやってきたことに、本人は堪えられないでしょう。

 堪えられる人は人を攻撃しないです。断罪されることを恐れない人は、断罪しないです。

 逆なのです。攻撃しないから、人を恐れない。断罪しないから、罰されることを恐れない。この順番なのです。

 彼の場合、自分自身は心理的問題をズバッと斬ってきましたが、恐らくあれで正義の味方気分になっていたでしょう。

 僕は到底似たような気持ちになれなかったですが、彼は「ダメな人」をやり込めていくことに快感を覚えているように見えました。

 あの人はわかっていない、この人もわかっていない、自分はわかっている。

 このスタンスでした。

 申し訳ないですが、仕方ないので今回はハッキリ言います。どの道いつかは言わなくてはならないことです。

 相手は人間なのに、悪者扱いしてきました。彼の個人的恨みが過去にあるからです。

 しかし、本当に悪いことをした人であっても、本当に性格が悪くても、人前でやってはいけないというより、他人が言ってはいけないことを言ってきました。

 でも、自分はちょっと指摘されると憤慨する、そんなおじいちゃんでした。

 僕としては、感覚でわかる人は僕のところに居続けるだろうから、そのうち、僕の予定では彼が亡くなった後に正否を覆すのでまあいいやと思っていました。生きているうちに人が生き辛くなることをするものではないと思いますので。

 言葉の方が大事な人は、そもそも違いがわからないから意味ないですね。

 恐らく、今までも彼の話に何か違和感があった人はいると思います。

 なにせ、矛盾していましたから。

 しかし、何がどうおかしいのか言えない。この感覚が何かわからない。

 そんなところでしょう。

 それでも、今まで自分が彼の「言うこと」に賛同してきてしまうと、彼自身が全く成長していないと知った時に、何か後ろめたいような、恥ずかしいような気持ちになり認めがたくなるでしょう。

 これが矛盾した人を信じた場合に起きることなのです。

 自分が矛盾したことをしてきてしまった。

 だから正しいことを認めて納得したいのに、それだと今度は今までの自分が間違っていることになりそれはおかしい、と思える。

 こうして説明していてもおかしな話ですが、矛盾していると受け入れる時にそのような気分になるのです。

 「そうだ!それが正しい!そうだったんだ!…でもそうだとすると、恥ずかしい!情けない!」

 こんな感じです。

 これは、「間違ったことを正しいと信じている人を神様のように信じてしまった時に起きること」です。

 今回は、僕のところにい続けてくれる人たちに対してお話します。

 皆さんは、気にせずただ事実を受け入れてください。

 本来であれば僕が全て先に説明していてもいいことなのに、僕自身も言わずにいましたから僕が誤解を助長してきたと言えます。

 それでも最後にはオセロのようにひっくり返ることを想定していましたので、僕自身は「間違った状態」を特にどうにかする気はありませんでした。

 今までの自分を思うと「恥ずかしい!」「間違えていた!」と思える部分があるかもしれません。

 自分がしてしまったから、みっともないと思えるのです。

 無意識と意識が解離して別々のことを認識していたようなものです。

 違和感を感じ、罪悪感を抱える自分。

 確かに正しい!と同意して肯定している自分。

 否定すると同時に肯定している。意識の上では肯定の方を取りたい。

 そんな状態です。

 皆さんが誤解するのも、また意識の上で同意してきたのも、僕のところにいてくれる皆さんについては、本当に優しさや仲間と仲良くやっていきたいという気持ちがあってのものだと思います。

 僕自身が彼の味方になっていましたからね。

 別に今も敵ではありませんが。

 親の矛盾もこうして乗り越えるんですよ。

 敵にはならないです。でもいつか親を否定しなくてはならない時が来ます。

 親は過去の人であり、自分は未来を行くものだからです。

 これが発展というものです。

 複雑な気持ちがあると思います。しばらくは思い出す度じたばたしたくなるかもしれません。

 しかし、必ずいつか癒えていきます。

 僕も信じたかったですけどね、目の前で見ちゃったのでしょうがないですね。

 彼の最新刊が出ております。

 「人生、こんなはずじゃなかったの嘆き」 加藤諦三

 本人の気持ちですね。

 これこれになりたくない!というマイナスの動機は、そうなる予告みたいなものです。

 後悔したくないそうですが、後悔した方がいいのです。

 彼の祖父は悔いがないと言って死んでいったそうですが、悔いた方が良かったのです。

 皆さんは、子供の頃から虐げられたらどうでしょうか?

 せめて今際の際にでもいいから、「自分は間違っていた」と認めてもらいたいと思いませんか?

 「私が間違っていた、お前には可哀想なことをしてしまった」

 と泣きながら後悔してくれた方が、生きている人間は恨みを捨てられないでしょうか?

 後悔を口にする時、人間は心を開いています。

 本人もそれで救われるのです。

 本当の意味で人を救えば、自分の心も救われるのです。

 

 彼は、やはり最後には御爺様と同化しましたね。

 彼の家の神様であり、支配者ですからね。

 普通に考えても、自分のお爺ちゃんをフルネームで、社会的偉人として扱って本に書かないです。

 孫の感覚ではないです。

 彼の中には、息子としての彼も、孫としての彼もいない。

 縦のつながりがないのだなとよくわかりました。

 

 念のため、なんだかわからないけれど名前だけで崇拝する人に言っておきます。決してバカにする気持ちにならないようにと念押しして言います。

 彼の一族は、元々現埼玉のある村に生きていました。

 江戸には幕府の直轄であった領地の、ひとつの村です。

 彼の著書を見ると昔のこと、日本のことが出てきません。普通の家の人だと思います。

 御爺様は大変色々なことをなさっていましたが、票取りのために外にいい顔ばかりしている父親を、彼自身の父親が批判していた、と本人から聞いています。

 しかし彼は、祖父が如何に立派な人であったか、若者たちに「心の中が大事なのだ」と教えていたか、そして「人生に悔いなし」と言って死んでいけたすごい人だったのかを今回の著書に書いていました。

 完全に今までと矛盾しているのですが、彼はもう85歳です。

 本人はやってるつもり、わかってるつもり、それが老人です。

 今さら他人に何か言えることなど、何もないのです。

 そのように老人に敬意を払い、配慮して「なくてもある」とすることは必要だと思います。

 実際のところは、見ればわかります。聞けばわかります。

 それがわかればいいのです。

 間違っていても、そんなことはこっちにはわかるので、別に言わなくていいのです。

 彼は既に命を燃やし始めました。

 残りの命をです。終焉を迎えようとしています。そのままでいいのです。

 僕たちは、もし信じてきたものが間違っていた時も、なにひとつ騒ぐことはないのです。

 

 彼のような人をその昔は「出羽守」(でわのかみ)と呼んだそうです。

 「アメリカ では」「西洋 では」

 いちいち日本と比較して外国を知っていることをひけらかすので、そのように揶揄されたそうです。

 日本しか知らない人たちは、何も言えないですよね。

 「向こうではこうなんだぞ」と言われたら、日本しか知らない人々はよくわからなくてもそうなのかなと思って、知らないものを知っている人に従っていまいますよね。

 それは、相手が自分たちの味方だと思うからです。

 ただ、そんなことが繰り返されると、みな自信がなくなりますよね。

 しかし、今の日本を他所の国と比較しても、では昔の日本はと言えば何も出てこない。

 そんな人が殆どではないでしょうか。日本人がなぜこうなっているのか経緯も考えずに、アメリカや西洋と比較して良いとか悪いとかそんなことばかりです。

 まるで外国人かのような感覚で生きている、完全に自分が何人なのかがわからなくなった人たちがいます。

 それは「日本人の視点じゃないよね」と言い切れるほど、他国の人の視点で日本の是非を考えるのです。

 まるで他国の話のように、日本の話をします。

 

 僕たちは日本人ですから、日本を捨てては生きていけません。

 日本人であるということを忘れずにいれば、必ず無理をしなくても開ける道があります。

 それについては、僕も今後少しずつ説明していきます。

 今回は僕も驚きました。

 ここまでわかりやすくなるとは思いませんでした。

 「我が人生に悔いなしと言って死んでいった加藤政之助は、「心清く、気高く、人のために生きられる律儀な青年に育て」と若者に説いた。すべて「形」ではなく「心」であった。 
~「人生こんなはずじゃなかった」の嘆き 加藤諦三著~ より

 この一文を見て、よくわかりました。

 彼の思う「見えないものがわかる人」は、「お金をできるだけ儲けるだ!」と言う人ではなく、「心を大事にするんだよ!」と言う人なのです。

 つまり、どちらを「言うか」なのです。説明の中での話なのです。

 しかし、その加藤政之助は息子に批判されていたのです。

 「票集めのために外にいい顔ばっかりして、政治家なんてものはろくなものじゃない。あんな風になってはいけない。」

 そのように父親は祖父を批判していたと、本人から聞いています。

 しかし、親子のつながりがなかった家ですから、孫である彼は「他人の目線」しか持っていません。

 「祖父、加藤政之助」が存在しなかったのだとわかりました。

 いないのは、父や祖父のせいではないのです。

 彼は親が敵だったことを連呼します。

 それはわかりますが、本人が親の敵なのです。だからこうなりました。

 親が敵でも、子が親の敵にならなければこうはなりません。違う人生が始まります。

 誰に見せたいのか、もう父上は亡くなられているのに。

 他人に認めて欲しくて「かなりの年まで」生きてきたと本人が語りますが、そんなにいい年まで褒められたくて生きてきてしまったら、もうそうそう治るものではありません。

 彼の著書には僕が思う難点があります。

 あまりにも、「ルールが多い」というところです。

 これは間違い、これが正しい、が多すぎるのです。

 気になってしょうがないです。

 成長に向かう時、人間は楽しくなります。

 意欲が湧いてくる、わくわくしてくる。

 そんなことが起きます。

 そして「気が楽になる」が起きます。

 その時に「誰かを悪者にして気が楽になった」ならば、それは紛い物の極楽です。

 教授は、後悔した方が幸せになると僕は思います。

 

 「まるっきり心理的に成長していない」

 しばらく前に、イエール大学の若き学者の発言に対して、こう批判していました。

 自分より若い人に対して、公然とこの仕打ち。理解する姿勢ではなく、理想的でないものに対しては人前で評価して恥をかかせることしか考えていない。

 だから、今回はもう誰が見てもわかる形になっているので、僕も言おうと思いました。本当はこんな風にならない方がありがたかったのですが…。

 彼は、心理的にはまるっきり成長していないです。

 それは目の前にいたので、わかります。

 彼は自分の時だけ、心理的に成長していない、なんて表現をしません。

 親のせいでこれこれだから、しょうがない、それでも頑張った、などの表現は全て自分のことを言っています。

 全て、彼はずっと自分のことを語っているのです。

 人の気持ちを、今目の前にいる人のことを考えていない、と思いました。

 いくら何をしたとしても、相手は人間なのだから、という慈悲がない。

 慈悲深い人風なのに。

 彼の態度や言葉に傷ついた人たちは沢山いると僕は思っています。

 もしそれが本当であっても、間違っていても、良くないことであっても、他人の口から言っていいことと悪いことがある。

 そして批判する時は嫌われる覚悟だけではなく、傷ついた相手を受け止めるだけの安心も用意しなくてはならない。

 矛盾していると感情的には複雑になるので、どう受け入れていいのか難しいでしょうけれど、

 「私がそんなに悪いのか!確かにそうだけど、いくらなんでも自分にだって理由があるのに…。」

 と思える点があった人は、それが悪いかどうかは関係なく、何もしていない相手にそこまで言われる道理はないのだと思い、罪悪感から解放されて欲しいと願っています。

 勿論、直接自分に対して言われた人に限ります。著書は知らない人に向かって言っているものではありません。自分が勝手に読むだけですから、関係ありません。

 漠然とした罪悪感を抱えていた人はいるかと思います。関係のない話で罪悪感を抱えないことです。

 そして、「何も悪いことをしたわけでもない優しいだけの人」に対して、実際に自分に害を加えていた当事者たる誰かの責任を取らせようとしないように。

 そして、今回の著書を読んでみる人は、「背表紙の煽りの部分も、内容も、全部本人が本人自身に言わなくてはならないことを言っているのだとしたら」という視点で読んでみてください。

 また違う見解が現れてくるのではないでしょうか。

 

 道理が通らないことは、必ずいつか覆ります。

 目先のことばかりに執着して人から奪うような人に出会っても、決して慌てることなく、先のことを見据えていきましょう。

オンライン講座「ティータイムでストレス解消」

 

 オンラインで一緒に同じ体験をしていくワークショップです。
 既に体験いただいた方からもご好評いただいております!

 教材込みですので、普段あまり親しみがないという方も、お茶やアロマを一緒に楽しんでいただけます。
 最上が都度厳選してお茶等ご用意させていただきます。フレーバーティーを使用しますので、ちょっと変わったお茶が体験できるかも。(主にルピシア、ベノア等お茶を専門に扱うお店の物から、個別パックになったもののみお送り致します。)
 最上がブレンドした精油も一緒にお送りしますので、ちょっと優雅なティータイムを楽しみたい方は是非お申込みください。

 内容的にはストレス解消をする体験講座です。
 ただ体験するだけですので、難しいことは一切ありません。

 考え事をしながら食事をしてしまう、ぼんやりしながら移動している、そんな方にぴったりの「現代病予防講座」でもあります。

 今回はちょっぴりですが、精油による芳香浴も体験いただきます。アロマテラピーインストラクターでもある最上が、日常に役立つアロマテラピーをお教えします。
 自身、またお子様の「香育」についてご興味がある方は当日ご質問ください。

 体験した皆様からの声

 オンラインでご予約いただけます。

 詳細はご予約ページにございますので是非ご覧ください。

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加藤諦三先生と僕は正反対です

 加藤諦三先生は、僕が精神分析学を教わった先生です。

 一緒にラジオに出演させていただいていたこともあり、殆どの方は僕と彼が同じ見解を持って生きていると思うようですが、違います。

 彼の最新刊が出ました。読んで確信しました。

 有料会員向けには以前既に話していますが、予想通りの展開になってきました。

 親子三代を抜けることなく、「自分はこんなに頑張った」の点の存在で終わるでしょう。

 なかなかこの三代を抜けるのは簡単ではないようですね。

 有料会員向けには動画で配信もしますが、僕は彼とは正反対です。

 例えば、こんな違いです。

 「人は誠実に生きるべきだ」

 この言葉を聞いて、百人が百人同意します。

 正しいかどうかで言えば、それが正しいと思うからです。

 しかし、正しいと思うかどうかと、自分自身がそれが正しいと思うかどうかは違うのです。

 本当に本音で「人は誠実に生きるべきだ」と思っている人は、その言葉を口にする時に既に体験した過去を思い出し幸せな気分をよみがえらせます。

 過去にあった嬉しい体験などを思い出しながら、その幸せな感覚で言葉にします。

 「やっぱり、人は誠実に生きるべきだよね。」

 込められた感情が幸福なものなので、とても幸せそうな様子になります。

 一方、正反対なのに同じ言葉を口にする場合があります。

 過去に許せない人がいて、その恨みが晴れていない人です。

 自分はちゃんと誠実に尽くしたのに、相手が誠実にしてくれなかった!

 そのような恨みを抱えた人が言います。

 「やっぱり、人は誠実に生きるべきだよね!」

 この言葉には他人に同意を求める憎しみが込められています。

 同じ言葉を言いますが、内容は全く違います。

 本音でそう思えているのは、前者のみです。後者の本音は違います。

 「損した!悔しい!許せない!」

 要は、憎しみです。

 「人は誠実であるべきだ」

 これを他人に強要するのがべきの暴君です。

 「自分はちゃんとやっているのに、あいつらがちゃんとしない!」

 自分も我慢してやったのだから、皆も我慢しろ!

 傲慢であり、我儘です。内容は関係ありません。

 それが社会的に望ましいことであれば、他人を貶めても構わないと思っているのが「社会的理想教」の人々です。

 社会的に良くないことはやらないのが当然だ!と言う。

 望ましくないことなんだから、やめる方がいいに決まっている!

 この考え方は、自分一人で社会に生きているつもりの人が思うことです。

 バラバラに存在して、それぞれが「最高の人間」になるために生きているつもりなのです。

 共同体を生きている人は違います。

 まず「社会的に良いことは確実にやるべきこと」と思っていません。

 人間は良くないことをしたがります。人間だからです。

 望ましくないことはやめた方がいいのではなく「望ましくないとわかっているからやりたくなるもの」です。

 やりたいことをやるように、やめたくなったらやめます。

 「良くないことだからやめる」

 これは、良い人だと思われたいという自己執着です。

 そのあたりが理解できないと、正否が逆転した世界に行って自由になれないのです。

 僕は、体験があって後から言葉を知り、気づいた人間です。

 加藤諦三先生は、知識が先にあり、後から知識に基づいて体験を得たつもりになった人です。

 一緒にいたのでそれはわかっています。

 知識を先に得過ぎてしまうと、所謂「勝ち組負け組」のような差別を自分の中に作ってしまい、自分がなんとしてでも「勝ち組」になろうとしてしまうのです。

 先に優劣の区別を知ってしまうことで、自由を失います。

 知らない方がいいこともあるのです。

 彼は、85歳になるお爺ちゃんです。

 本人は若い頃と同じようにこうして本も書けている、と述べていますが、実際には思うよりできていません。

 できていないというのは本人の能力の話ではありません。

 一緒にいて、耳が遠くなりよく聞こえないまま、相手が述べたことを誤解して返答をしていると気づいたことがありました。

 その時、もう御年なのだなと寂しく思ったものです。

 もっとお若い頃にお会いしたかったものだと思いましたが、学んだことを次の代のために活かさねばと思いました。

 老人は、よく間違ったことを言います。

 仕方のないことです。

 ある大手飲食チェーン店の接客マニュアルには、

 「老人が間違っていても、決して間違いを指摘したり間違いとして扱わない」

 というものがあります。

 理由は、

 「本人はできているつもりで話しているから」

 幼い頃と同じです。できているつもり。

 実際にはできていないのに、子供ができたつもりですっかり威張っている姿を可愛いとおもうものです。幼児ですから。

 聞けば聞くだけなんでも教えてくれるのだから、聞いていて面白いと思えます。

 同じように、老人になるということは衰えるということです。

 彼はいつまでも若さを保ち同じことをしたいようですが、言葉では否定していて既にかなり矛盾してきています。

 みなわかっているものです。

 彼の周りにいても、彼にみな気を使っているのはよくわかりました。

 本人は「できているつもり」でいる時も、みな色々思うところはあります。

 それでも、誰も否定などしないだけです。

 わかっていて、みな黙っているのだということに彼は恐らく気づいていないと思います。

 有料会員の皆さん、予想は当たっていました。

 遂に、加藤政之助の名が出てきました。

 埼玉で学校の先生をやっていた、後に実業家そして政治家になった、彼の祖父です。

 やはりここに落ち着きますね。

 今まで一切出さなかっ名を、今になって連呼し始めました。

 道理なんですよ。こうなるのです。

 最後の最後まで、過去に向かって進んでいくその先が心配ですが、致し方なしです。

 最後の最後まで、「立派な人間」になろうとしているのだから、気の毒に思います。

 間違いを認める「ちゃんとできる人」

 過去を反省して受け入れている「成熟した大人」

 字面で先に知り過ぎてしまったのです。

 間違った方に進むので、この方法はやってはいけないんです。

 体験が先になくては駄目なんです。

 しかし、相変わらず引用している学者たちの話は正しいものです。

 本当に心理的に安心を得るために、最も大切なことは「人と親しくなること」。

 アメリカの心理学者シーベリーは、「仲間と一緒に和気あいあいと、朗らかに食事をすることで大抵の悩みは解決する」と言います。

 食事、一番大事なものです。本当にその通りです。

 僕も心理的に健康な家族に混ざり食事をし続け、前向きになることができました。

 話は聞いてもらえないです。愚痴や悪口は絶対に言わないのが健全な人々なので、不幸話は聞いてもらえないです。

 話がいつの間にか笑いに変わってしまうので、「酷い目に遭っている僕」を中心にした世界になりません。

 しかし、それでいいのです。

 自分のことは自分で解決するしかないのです。

 大切なことは、今ここに仲間がいて、食事を楽しくしているということです。

 「ただ仲良く楽しく、和気あいあいと食事する仲間」がなかなか見つかるものではないと知っているので、僕は意図的にそれを生み出すように努力してきました。

 教室で、どれだけ皆と一緒に色んなものを食べてきたか。

 あれでいいのです。

 わからない人にはわからないでしょうけれど、本当にただそれだけでいいのです。

 恨み憎しみをなんとかするために、憎い人を中心に作った人生にはたどり着くことができないゴールと、辛い道のりしかありません。

 「復讐を諦めること」

 立派にならずに死んでもいい、ダメな奴でもいい、そんなことは大事なことでもなんでもないと気づけるかどうか。

 字面でこうして読んでしまうと、「自分はできてます!」「もう気づいた!」とみな言いたがります。

 しかし、本当にわかっているのかどうかはその人の表情を見れば明らかです。

 幸せな人って、わかりますよ。

 笑顔が違います。

 デフォルトが笑顔です。

 仕事をこなすように「きちんとやれた人」から幸せになるわけではありません。

 「これでもう幸せになれてますか?」と聞いて確認してもらうものではありません。

 しかし、そのくらい深刻に病んでいる人たちが多いのです。

 学術的に証明されたもの、権威が正しいと言うこと、そんなことに縋りつかないと生きていけないカルト教団信者たちです。

 母親より、社会的に証明された科学的見解が大事。

 そんな人が本当にものすごく多くなりました。

 祖母のしてくれることは、ただの優しさなので科学的根拠がないから意味がない、と思うのです。

 今、そんなこと私は思いません、と思っている人が、実は思っているのです。

 裏を返せば、科学的根拠があるかないか、社会的に何が正しいと言われているかどうか、海外では今どうなのかなど、それらを確認して「正しい」とわかったことしかできない人は、権威主義の信者たちなのです。

 宗教二世の人たちを、奇異の目で見ている人がいると思いますが、彼らの方が余程現実に近くまともなのではないかと僕は思っています。

 おかしいものをおかしいと自覚できる人は、そんなにおかしな人ではないです。

 当たり前のようにおかしなことを当然だと思っている人の方が、おかしいでしょう。

 そしてそれが「普通」になっている社会もおかしいですね。

 さて、僕はこれから「遊ぶ」「皆で食べる」などの体験をする教育をしていきます。

 僕自身がタバコをやめたので、やっと精油関係のこともやれます。

 完全に喫煙をやめるまでは、香りの関係のことはやらないと決めていましたので、やっとできるようになりました。

 今後は「理屈じゃない世界」を中心にやっていきます。

 理屈だけで押し通す世界の人たちは、人の優しさや思いやりを無下にするだけではなく、社会的に肩書を持たない祖父母や母親の存在価値を下げてしまいます。

 戦わずして勝つこと。

 僕は僕自身の一族の教えの通り、

 「最も強い武士は、死ぬまで刀を抜かない」

 という姿勢を守って今後も生きていきたいと思います。