月: 2024年3月
自分自身をどう思っていますか?
僕は間違っているのかもしれない
ここしばらく、僕自身の行いが間違っているのかもしれない、と思っている。
僕は高い道徳性を備えている自信があるが、それが心理的成長に必要であることも知っている。
しかし、自分自身についてどう思っているかと言うと、僕は僕だけに限らず、愛されずに育った人について「生まれながらの悪」と考えている。
生まれた家や家族、環境は子供が選ぶことはできない。
不可抗力であるが、それはもう運命としか言いようがない。
「生まれつき」と言ってもいいだろう。
生まれつき、邪悪な存在と、そうでない存在がいる。
毒親の子は「生まれつき邪悪な存在」だ。
何もされなくても、元々(不可抗力の運命を元々として考える)根拠なく人を疑い、悪い解釈をする。
同じ場にいて、愛されて育った子たちの発想や解釈はもっと善良で優しいものだ。
わかるだろうか。この時点で、どう育ったにせよ子供たちは自分で選んでそうなっているわけではない。
それでもそこまで違いは出てくるのだ。
生まれつき、邪悪だ、と言っても差し支えないだろう。
だからこそ、愛されずに育った「存在そのものが悪」である人間は、人並外れて邪悪な精神を制御すべく努力しなくては、人間と共存すらできない。
というのが子供の頃からの僕の考えであり、僕自身が人を傷つけることのないよう、僕は「僕から他人を守るため」に自制するようになったのだ。
そのための修行や努力なのだ。
頭の中で考えているだけであっても、自分のことを傷つけるようなことばかり妄想している人は、いて欲しくない。
それは犯罪を犯す前の性犯罪者と同じで、元々の性癖が原因だから相手が嫌がることであっても、いつもいつも勝手に人のことを想像している。
そう、あなたのことも。
そのような人にいて欲しいだろうか?
自分を疑わず、信じてくれる人がいいのは誰もが同じだ。
自分が知ったら傷つくような想像ばかりしている人など、わざわざ選ばないだろう。
そしてそれが毒親の子である。
僕は、僕が人と仲良くしてほしくて、危険な人間であることをやめる必要性があった。
結局僕の場合は、「僕自身が人間の仲間になりたがったから」という理由で危険な存在であることをやめた。
しかし、殆どの人は人間そのものが嫌いになっていて、愛された子たちを前にしても「この人たちの仲間になりたい」と切実に思うことはないのだうろ。
仲良くなりたがっている人、として「いい人ぶりたい人」は沢山いるが、とにかく自己執着が激しいだけなのだ。
それはどうでもいいが、僕は僕の教えることを聞きながら、人の時間を無駄にすることが我慢ならないのだ。
皆さんの役には立たないだろう。
僕は存在するはずのない人格とされているわけだが、僕は「今すぐ愛し愛される人たちの仲間として生きる」と決断してそうなったわけで、恐らくそこが珍しいのだろう。
殆どの人は「いつかそうなりたい」という願望は持っているが、しかし今はやはり「自分を見て欲しい」「他人に優越したい」なのだ。
そっちで満足して、時間が余ったらまあ人と仲良くできたらいいよね、とりあえずは自分が他人にちやほやされることかな、そのために生きているからね。
そんな感じだ。
僕は「他人に優越することを諦めて、信頼し合う人たちの仲間になることを優先した」のだ。
だから、僕の教えていることは「自分が生まれながらに邪悪な存在である」と自覚して、死ぬまでそうであるのは変わりないから、人として生きるために精神の戦いをし続け仲間を守る覚悟をしている人にしか、役に立たない。
つまり、殆ど人の役には立たない。
そんなことしたい人が全然いない。
どうやら、自分のことを愛ある家族の子と同じような存在だと勘違いしているらしい。
僕は全く違う。
僕は生まれながらに邪悪だ。親も自分の一部であり、親の精神は自分の人格なのだから。
人は過去の経験から発想が生まれるのだから、生涯変わることはない。
それが自分なので、生まれた後から「いい人だと認めてもらう」なんてことは無理だ。
そうではないのだから。
そうではないにも関わらず、人間の「仲間」にしてほしいのだから自分で努力するしかない。
そのままでいれば、生まれたままの自然な姿は邪悪な存在だ。
自分の欲ばかりで、自分が得しないことはしたくない。
他人のために何かするなど損としか考えない。
何かしてあげたら自分が「いい人」になれた気がしていい気分。
そのくらい、微塵も心優しいところがない。何もかもに見返り要求がある。
その性根から腐ったような人間こそ、毒親の子ではないか。
それを「いい人だと認めてちやほやしろ」など、とんでもない話だ。
自分なんていない方が人間たちには安全で有難いと、なぜわからないのか。
剰え、言葉で「こんなの迷惑だよね」といちいち聞くような迷惑っぷりだ。
人間的に問題がある人は、どこまでいってもやることに問題がある。人の気持ちなど考えることは決してないのだ。
既に過ぎてどうでもいいくらいの時になってから、振り返って自分が反省しているかのようなパフォーマンスを見せる。優しい人を演じる。
だがしかし、常にたった今は、実在の自分は利己的なのだ。
そんな邪悪の化身みたいな人間なので、殆どの人はそのまんま生きるよというのが神経症者なのだろう。
僕の場合は、本当にたまたま、違った。
僕は自分にばかり都合がいい展開になっても、皆の前で引け目を感じる。
そんなことは望んでいない。
僕は、自分が母の立場になって小さな輪の中で人を支配したかったわけではないのだ。
偉そうな態度、なんでもできる顔。失敗してもそれを失敗だとすら認めない態度。
そんなクズとして生きるのがどうしても堪えられなかったが、どうあっても生まれながらに悪なのだからそれはしょうがない。
人の迷惑になる存在として生まれたのだから、まだこの世を生きたいと思うならばせめて迷惑にならないよう、他人が傷付くことを考えない程度の人間になるしかない。
そうでなくては、自分が生きていてビクビクしてしまうから。
バレたら困るような発想が出てこないよう、僕は小学生の頃からずっと精神鍛錬をしている。
今はもう、悪しきことを考えなくなった。
だが、元々邪悪なので、冷酷な発想も出そうと思えば出てくる。
それでも今はもう、人を傷つけるより守る方がいいと心から思っているので、特に大事な人達に対して悪しきことなど微塵も考えない。
人間の行動は、先に想像があって後から物理的行動を起こす。
脳内に何もイメージができていないと、人間は動かないのだ。動けないと言った方がいいだろう。必ず先の見当をつける。
よって、自ら悪しき事が起きているとか、起きると想像している人は必ずそうなるように率先して自ら動いていく。
そうなりたくてなっているだけなのだ。
だから毒親の子は危険なのだ。
そのまま生きていれば、他人に見せるのは地獄しかない。
「この人がいてくれるから、人を信じられるようになった。この人がいるから、希望が見えてくる。」
毒親の子はそんな存在になれない。なっていない。なろうとしない。
存在が迷惑なのは、心が汚いからだ。
一生どうにもならない病気みたいなものだ。
僕は毒親の子、自分も含めて、愛されずに育った人達を「生まれながら前科者、性犯罪者と同じ」と考えている。
そりゃそうだろう。
愛されて育った子も知っているが、まるっきり発想が違う。
毒親の子同士で群がる人たちは自分が好きだろうが、僕は発想からして天国に相応しい人たちの方が好きなのだ。
心優しい、疑いを持たないように精神の世界で戦う人。
親友も恋人も、そっちの方がいい。
一緒にいて僕は安心なのだ。だから彼らが安心できるだけの人間になった。
単純な理由なのだ。
そんなわけで、僕は恐らく「毒親の子」の役には立たない。
方向性が違うし、既に仲間ではない。
見ている限り、毒親の子たちは「いつかは救われる」という状態でいたいのだ。
まだできない、ついやっちゃう。
この状態でいる人は、甘えたいだけで今の自分のままで生きていくことにはなんら問題を感じていない。
要は、今の自分が結構好きなのだ。しょうがないという理由をつけて納得できるのだ。
残念だが、僕の場合はそんな甘い状態ではなかった。
他人に言い訳して、わかってもらえればいい、と自分で納得できるほど自分で自分を肯定できなかった。
だから変わるしかなかった。地獄に生まれている証拠だ。
もう地獄から出るしかない。そのくらいド底辺の地獄に生まれたのだ。
殆どの人は、まだ邪悪さも不幸も足りないのだ。
「もうこんなところはこりごりだ」とは思わず、今でもまだこれから都合がいいことが起きると思っている。
今の自分のままでも、欲しいものは手に入ると信じている。
それを信じられるだけまだマシだ。
そんなもの「この僕が手に入れられるわけないだろ!」と自分でも泣きたくなるような自分として生まれて、今の僕はある。
別に自分がすごいとも思わないし、毒親の子たちも理解はできるからそのままではいけないなんて思わない。
そうなるべき時にはそうなるし、なる必要がないならばならない。
それだけのことだ。
ただ、話を聞いてきた皆さんには申し訳ないと思っている。
僕が勘違いしていたのだ。
そういえば、救いを求めているのであって、今既に「愛されている世界」という展開は望んでもいないのだった。
今の自分をわかってくれる人が現れると信じられる程度の状態なのだ。
待つ姿勢でいるだけ、幸せに生まれたと言えるだろう。
それだけ自己肯定できる今なのだから。
なんにもないと、そんなに肯定することはできない。
だからいつも思うのだ「何もない方が幸いだ」と。
何もかも半端で、なんとなく嫌な気分がする程度の不幸だったら、そんなものは「普通」だからどうにもしなくていいのだ。
どうにかする必要が出てきた人は、幸いなのだろう。
今後のことを考えねばと思った。
決意して進む人には役立つことがあるだろうが、心の戦いをして仲間を守るなんてことをしたい人がいないだろう。
すごい人ごっこ、がしたくてしょうがないのだから。
僕は、来るべき時のために、今もこれからも、心の戦いをして生きていく。
今、ここでは過去の話ばかり。
そんな「自称素晴らしい人」で今の日本は溢れている。
おじいちゃんたちが「自分は誠実だ」と言いまくるから、みなも真似しているのだろう。
「私はこんな人です」と自分で言うのだから、やはり農民たちには難しいことだったのだろう。
ワイワイ、やいのやいの。群れて同じことをするのは、何百年も昔から変わらない。
群れないなら群れないで、大衆を守るでもない。率いるもの、導くもの、生み出しているわけでもない。
ただ仲間に入れなかっただけ。
まあ、こんなところだろう。
「いつかカッコいいヒーローになれる」と信じている今を送り続けていたいだけ。
もうなった、という今でなくては意味がないと思った僕の方が、変わらない人たちより遥かに強欲なのだろう。
人間の仲間になるために、心の中で悪と戦う邪悪な仲間がいるかと思ったが、その姿勢で生きる僕は結局愛された子たちの方の仲間にしかならないのだとわかった。
自分が稀なのだとわかってはいるが、同じような仲間が全くいないことに関しては残念に思っている。
僕はやはり、これからも愛や信頼の中を生きていくしかないのだろう。
僕は彼らが好きで、彼らの仲間である方が自分でも嬉しいのだから。
疑い、疑われる関係などいらないし、信じているふりをしている関係もいらない。
本当にそうでないならば、僕はもう要らないと思う。
四十代にもなると、もう今更偽物を見て生きようとも思わなくなるものなのだ。
「一回体験してみたいなー」なんて時期はもうとっくに過ぎて、体験したいものは一通り体験できたから、もう本物しかいらない、と思えるのだ。
勇気がない人は、体験しないまま分かったふりをして生きていく。それが一番憐れだろう。
その年に相応しい発達段階や欲求がある。一通り満足できるだけ勇気を出して行動し、失敗をして痛い目に遭う方が、人生はより味わい深いものになる。
謙虚に生きる人になるためにも、若い頃から勇気を出して、素直に行動した方がいいのだ。
知ったかぶりの嘘は醜いが、失敗ばかりした人の体験談は人の心に響くものなのだから。
成長するために必要な「勇気」
僕の誤解、毒親の子についてどう思っているのか
根本的なことについて、話します。
僕は親に捨てられ両親がいない幼少期を過ごしました。
その後も、一時母に引き取られている間はひどい虐待を受けました。
そしてそのように「愛されずに育った子」について、自分自身を含めてこう思います。
生まれながらの前科者、性犯罪者と同じ
これが僕の考えです。最初からです。
生まれながらの悪。心の中から自然に生まれてくるものが、既に人格の形成によって悪にしかならない人。それが毒親の子だと思います。
そしてそれは性犯罪者と同じで、完全に性癖のようなものなので本人はなんとかする気がありませんし、治りません。
黙っていても、「そんなこと思っているとは誰も思わないこと」を考えている人。性犯罪を犯す人もそれです。
人は必ず想像が先にあり行動を起こします。
ですから、人をいじめたり迫害したりしている人は、それ以前に既に脳内に危険な妄想があります。
「近所の優しいおじさん」が、ある日幼い少女を誘拐します。
「普通に見えている時」から、既に脳内で犯罪は始まっています。
心理的に病んでいない人は、脳内でも人を疑ったりしていると罪悪感を抱えます。
仲間を疑っているなんて!最低だ!と自分で思います。
そのような自責の念に駆られることもなく、当たり前のように仲間の立場の人を悪者にしてしまう。
当然のように、人を傷つける。
「意地悪」という行いをして平気で生きている。
その神経は周りから見たら異常としか思えない性犯罪を犯す人となんら変わりないです。
そんなにひどいことじゃない、とやっている本人が思うほど、劣悪な精神状態です。やられた側のことを考えません。
よって、愛されずに育った人は存在そのものが危険だと僕は思っています。
自分が平和に生きているならば、「うちの子は愛されずに育った男のところに嫁いでほしい、親子がもめている家に嫁に行ってほしい」と思いません。
家の中が信頼で成り立っている人たちにとっては危険な人です。
その人一人のせいで、皆が人を信じられなくなるかもしれません。
そして謝ろうが何をしようが、もうおしまいです。
取り返しがつかないのが心の傷ですが、人を傷つけた後に、「なぜ自分がそんなことをしたのか」を聞いてもらえると思っているくらい、他人の心がどうでもいいと思っている。
それが毒親の子です。
危険な存在です。
だから、僕は圧倒的な道徳性の高さを備える必要があったのです。
卑劣な人間は、自分が愛されずに育った立場だというだけで、自分の立場を擁護しようとします。
自分の立場のことは言わずともわかるのだから、逆の立場の人たちのことをよくよく考えねばなりません。
なっている立場は想像する努力もなくわかるからどうでもいいのです。
愛のある家庭を築いているならば、どう思うか。
完全に悪、害ある存在であると僕は自分について判断しました。
だから「心の中から生まれてくる悪」と戦う生き方を選んでいるのです。
毒親の子が可哀想だとは思いません。
僕が自己憐憫していませんから。
自分が危険な存在として生まれてきたとわかっているから、他人を傷つけないよう、人間の味方になるように生きているのです。
愛されずに育った子は本当にひどい目に遭っているので、頭の中にある想像も発想も、まともな家の人たちが知ったら傷ついて人が信じられなくなるくらい醜悪です。
心の醜さだけならば、努力しなくてもスイスイと悪いことを生み出せるくらい自然に湧き出る負の泉を持っています。
そして僕はそのような人間が好きではないのです。
自分がどんな人たちと仲間になるかを選び、仲間になるわけですが、僕は自然にしていれば当然「母の仲間」だったので、自分の意思で決めて愛ある人たちの仲間になりました。
存在そのものが悪であるにも関わらず、心の中から醜い発想が生まれたり、傲慢な気持ちでそこに存在している僕に対しても「愛を与えられた人たち」は人として扱ってくるのです。
そこで改心できないようでは、根っからの悪です。
「僕がいるべき世界は、母のいる世界ではない。」
そう悟りましたので、心から僕が満足できる、納得できる世界の人間になりました。
生まれた時に決まっていることですから、もう死ぬまでどうにも変えられないことです。
虐待された人はどうしても何かある度に怒りや憎しみが湧きやすくなっています。
しかし、沸き起こる負の感情に負けず、人の道を進み人を守る。
そのために僕は協力することはできます。
ただ、「僕も同じ毒親の子だけど、頑張ったら今みたいになれたからみんなも頑張って!」などと怪しいセラピーを身に着けた人のようにはなっていません。
僕は毒親の子たちと同じではありません。
生き方は愛ある世界の人たちと同じなので、既に仲間ではありません。
なれているので愛ある世界の人たちと同じことは思いませんが、愛ある人たちが傷ついたり悲しんだりしないように、僕は彼らを守っていきます。
既になっているわけでもないのに、「自分もそうなりたい!」という願望で仲間になっているかのように勘違いしている人が沢山います。
僕のというわけではなく、よくいます。願望を語りながら自分がもうなっていると勘違いしている人。
利己的な人は心の中で地獄の扉が開きっぱなしです。
そして人を地獄に引きずり込んでいきます。
僕はそのように「今より下に引きずられる人」がいるならば、そうならないよう協力はできます。
ただし、「なんてひどいやつだ」と思う誰かに執着した人は、そこから離れるように助言すると「自分をわかってくれない」と不満に思うのです。
毒親の子の味方として生きている人がいます。一緒に敵をやっつけたいのです。
そのような人が殆どで、世間でもそれが良いことのようになっている場合もありますが、敵も多い人たちです。
そして僕は「例外の人格」だけあって、そのどちらでもなく、生まれ育ちが地獄でも、愛ある人たちの仲間です。
親友も恋人も、明るく健全な家庭の人達でした。
過去のことは話したこともなく、うちの母が如何にひどいかを知ってもらいたいとも思いません。
そんなものはなくても、僕が好きな人が、僕を愛してくれているならばそれでいいと思うのです。
心の世界でヒーローになれない人は、自ら戦うことをせず、心の中でヒーローを待っています。
自分がやるしかないのだと覚悟を決めた人は、もう二度と振り返らないのです。
決してもう戻れない道を進む決心がついたら、これからは「前に進むための試練」に挑んでいけるでしょう。
皆さんが僕を誤解しているかもしれないので、今回はこの話を書きました。
毒親の子たちと共に恨みを晴らし、またはみんなで救われようと集まる輪は沢山あります。
僕は「存在しないはずだった人格」であり、「なぜか幸せになっている毒親の子」です。
だから、他と比較されても何も出せませんし、他とは違うので期待しないでください。
これからはではなく、今から生き方を変える人にしか道は開けないのです。