月: 2024年3月

冗談言えない、ふざけない、優等生の親は子育てに向かない

 先日、高級住宅街付近で幼い子供を連れた母親を見た。

 エリートの妻かと思われる「きちんとしたお母さん」たちは、本人は「ちゃんとした大人」をやっている。

 子供に対しては「優しい態度で正しいことを教える」のだが、これでは子供の心は育たない。

 正しいことを「言葉で教える」のだ。

 なぜ、たかが二歳か、三歳かという子供に「言葉で教える」のか。

 母親は、ふざけることができない。想像力がない、冗談が言えない、心の世界を持っていない、楽しい世界を作れない。

 子供の世界は、自己中心的ではあるがすべてが遊びの世界、空想の世界だ。

 事実どうであるかは、どうでもいい年齢だ。

 幼児のうちは、事実などどうでもいいのだ。

 まだそんなことを知るべき時期ではない。教育は年齢に応じて、発達に応じて変化させていくものだ。

 ところが、遊びの世界で生きている幼児に対して、母親が「遊びの世界を作れない」のだから困ったものだ。

 「正しいこと」を教える。「優しい態度」できちんとしたことを覚えさせようとする。

 例えば、こんな光景がある。

 二歳程度かという子供が、スーパーの中でカートを引いて走ろうとする。

 すると、母親は言葉で制する。

 そして「正しいこと」を説明する。

 そんなことをしたら自分も困るし、お客さんも困るとか、「優しい態度」で説明する。

 僕はその姿を見て「この母親は頭が悪い」と思った。知能が低い。

 今の現実を見ていない。子供を見よ。二歳程度の子供だ。

 言葉の説明などわかるわけがない。

 ただ、母親が困った様子で叱っていることだけはわかる。母親のイライラした気持ちだけは伝わっている。子供は途端に不満そうな様子になった。

 こうして、母親は自分の欲求不満を子供にぶつけて教育している。

 「怒らないように、抑えているつもり」なのだろう。

 いちいち深刻に考える。母親が暗いのだ。

 子供に「正しいこと」なんて説明してわかるわけがない。

 その程度の年の頃は、やっていいこととやらなくていいことを「理屈」で教えても無駄だ。

 僕たち自身の時を思い出せばいい。

 みな、二歳、三歳の時に「説明された内容」を理解して、納得して行動した覚えがあるだろうか。

 叱られたらただ嫌な気分になるだけだ。まだ自分が言葉もうまく話せないのに、「説明」なんてわかるわけがない。

 三十になっても四十になっても、未発達で人の説明も聞いておらず、「叱られた」と感じるだけで聞いている中身が二歳の人だってごまんといる。

 現実の二歳の頃にあんな教育をしていたら、三十になってもまだ「叱られた」という感覚だけで聞く大人が育つだろう。

 子供は遊んでいるのだ。

 大人からどう見えようが、子供は悪意などない。ただ遊んでいるのだ。

 それが「良くないこと」だとしても、そのまんま「良くないことだから」と説明するのは大間違いだ。

 それは「母親が理解していればいいこと」であって、「そのまんま子供に伝えることではない」のだ。それでは子育ての放棄だ。

 説明だけして、後は「勝手に自分で判断しろ」ということになる。

 教育は、「育てるためのもの」なのだから、何が正しいとか、事実どうだとか、そんなものは教える側が理解していればいいだけだ。

 では、どうするか、それを考えるのが親の役目だ。

 そこで「どんな教育を生み出すか」がそれぞれの個性だ。

 正しいものなどない。本質的に必要なことはあるが、「この形が正しい」というものはない。

 そもそも親が生み出して親が自然にできることでなくてはならないのだから、他人が教えて真似させていいわけではない。

 仏頂面になっている子供を冗談で笑わせる。それが父親や母親のやるべきことだ。

 心の面倒を見るのだから。

 理想的な行動をとるために調教する必要はない。そんなことは社会に出たら会社でやってくれる。

 そこに至る前に、強い精神が育っていなくてはならないのだ。

 心の教育は家の中でしかできない。外に出る前から家の中で育てていくものだ。

 両親の実力は、そのまま子供の精神となって形作られていく。

 「優等生」にしていて欲求不満な親は、子供に「優しく説明」して欲求不満にしていく。

 そんなことをしなくても、スーパーの中で遊んでいる子供の世界に一緒に入っていき、遊びの中でやってはいけないことをやらなくなれば、それでいいのだ。

 心の世界を見ながら現実の世界に生きているのが子供だ。

 だから心の世界の中で、現実に困ることにならないようにしてあげればいい。

 ところが、母親自身が心の世界を生きていて、現実との区別がない。

 母親自身が心の世界で「ちゃんとした子」をやっている。たった今、我が子に教えたように心の世界に縛りを作っている。

 心の世界は自由だ。心の世界は全ての人に存在するものだ。

 それがわからないと、現実の世界で人の行動を縛るようになる。

 「~すべき」と言えば、それでいいと思っているのが優等生の母親だが、それは間違いだ。そんなことできるわけがない。

 「冗談で笑わせて、遊びの世界を作って」

 こう言われて、その母親はパッとふざけて子供の相手をすることなどできない。

 テンプレートのように、調教で覚えたことしかできない。「正しいこと」ができると、他人は褒めてくれる。それが優れているかのように勘違いできる。

 だが、テンプレートは誰でも真似できるものであり、逆に優れたものほどわかりやすく誰もが知っていて真似できることはない。

 「冗談で笑わせて」と

 「正しいことをきちんとやって」のどちらが簡単だろうか?

 優等生など、最も簡単なことを考えもなくやっているだけの無能な人間ばかりだ。

 「有能な人」と「優等生」は違うのに、「優等生」は「有能に違いない」と思われている。

 冗談も言える、ふざけて遊ぶこともできる。そしてきちんとすることもできる。

 そのように使い分けられて初めて意味があるのであって、「きちんとしかできない」になったらそれは無能でしかないのだ。

 「冗談なんて言えなくても、ふざけて遊べなくても、困ることなんてない」

 と思っている母親は、子供の気持ちを考えないからそう思えるのだ。

 社会できちんとしてくれていればそれでいい、優等生であればそれでいい。

 面白くもない子供を育てる母親は、本人が面白くもない人間だ。

 子供はふざけたくても、母親は自分ができもしないことだから冗談を言う人たちをバカにする。

 あたかも、「優等生」であることは優れたことかのように洗脳していく。

 そして心の育っていない、常識はずれの行動をとる大人になる。

 「二歳の子」なんて、常識で考えても言葉を理解できているわけがない。

 その程度のこともわからない馬鹿になる。

 この年の子供に、言葉で丁寧に説明して意味があるかなしか、その判断すらできないのに「雰囲気だけちゃんとした母親」がいる。

 しかし、その母親には「それ以外できない」のだ。

 覚えたことをやっているだけだから、自分で考えたわけではないから。

 皆さんが「勝ち組だ」と思って勝手に張り合って嫉妬しているエリート層には、父親にせよ、母親にせよ、耳障りのいいことばかり言うがふざけて人を笑わせることもできない人間が沢山いる。

 緊張をほぐすためにその場を冗談で和ませるなど、別に勉強ができなくてもできるような、誰でもやっていいようなことすらできない。

 「社会に認めてもらうためのロボット」

 人間の人生を捨てた代わりに、多くの褒美をもらう。

 高級住宅街がある街に行くと、よく見るのだ。本当によく見るお母さんたちだ。

 ちゃんとしたロボ。

 人間ではない。人間は柔軟性があり、その場に適応できる。

 雰囲気に合わせて、教わったことなどなくても今パッと生み出す。

 人間は、ひとりひとりが唯一無二。だからこそ本人しか生み出さないものだけは、容易にパッと生み出せる。

 それが人間だ。寧ろ、それこそ「なんにもできない人間」だ。

 何もできなくてもできる、人間の基本の能力でしかない。できても自慢にならない。

 ところが、できて自慢になることをできる人たちが、人間が当たり前にできることができないのだ。

 滑稽なことだ。

 そして、「優等生の価値」しか理解できない母親たちは、ふざけて冗談を言うような人たちを道化のように思ってきたものだから、自分は「恥ずかしくてそんなことはできない」とさえ思う。

 人間のくせにロボットになっていることの方が恥なのに、「きちんとしているのは優秀な証」だと思っているのだ。

 その「きちんと」は、局地的にしか通用しないとさえ知らずに生きていくのだ。

 「子どもか!何をしているんだ!」

 家の中でバカにされるような遊びをしている人の方が、まだ大人に近づいているのだ。

 ただし、そのように心の世界を持つ人も、それを隠すことに必死になるからどうにもならない。

 「ちゃんとした大人は、こういうもの」

 そう覚えこんだ人の洗脳の深刻さたるや、本当にどうにもならないほどだ。

 今は子供にさえ寛容になれない大人がいる。

 だが、だからと言ってそんな人に合わせる必要はない。

 「子どもはうるさいものだ」と当たり前に受け入れられない社会では、人間は生きていくことさえできなくなるのだ。

 「盆踊りの音がうるさい」と苦情が来たから、無音で盆踊りをを開催する。

 そんな馬鹿なことをした区があったが、文句を言う人が一人もいなくなるように、何もかも変えていったらこの世に存在できるものなどひとつもない。

 そうなものはそう。そこに存在するものがあるならば、それは意味あって存在している。

 そこに何か問題があるならば、問題を生まないように問題を消していけばいいだけだ。

 二歳の子供に言葉で説明する「優しい母親」は、表面から問題を消し、子供の心の中に問題を発生させた。

 自分が安心して楽になる代わりに、子供は欲求不満になり、思った通りに行動することもできない「優柔不断な男」に育っていくのだ。

 そして「言われたとおりにきちんとしていること」で自分が優秀になったかのように勘違いして、将来「モラハラだ」なんて言われることになるのだ。

 本当に、とても幼いうちから、洗脳は始まっているのだ。

 みな親を恨むのも大概にして、そういうのは本当の馬鹿にだけ任せて少しは考えるといい。

 親は親、親が馬鹿でも自分がその上を行けばそれでいいのだから。

 子育てをする母親が本当に悩まなくてはならないところがあるならば、「自分は冗談を言って人を笑わせることも、ふざけて友達と、夫とじゃれ合うこともできないこと」だろう。

 そこができなくて、形だけきちんと見せたところでそのうちストレスが溜まって何もかもぶち壊しになるだけだ。

 優等生には「ふざける」は怖いことだ。自己執着が強いから、皆がシーンとしてしまったらどうしよう、なんて心配してしまう。自分は冷ややかな態度を平気でとるから、自分がやられたらどうしようかと心配になる。

 最も自慢にもならない、優等生になることで身を守ろうとしたツケ。

 今までバカにしてきた人たちに向けた悪意で、地獄に落ちるしかないのだ。

 這い上がりたいならば、罪を背負って立ち上がるしかない。

 冗談もない、笑いもない世界ならば人は生きていて楽しくもない。

 自分が生み出せない「笑い」を誰に与えてもらってきたのか考えて、目に見えないものに感謝した方がいい。

 今は持つことがなくても、与えてくれた人に感謝ができたならば、これからその力を得る日も来るだろう。

 全てそのように、道理に沿って進むようにできている。

 何より、現代社会の大人はすっかり馬鹿になってしまっているが、「子供が言うことなんて聞くわけがない」と分かっていない。

 調教して大人しくさせるならばエサを与えればいい、人として教育するのではなく、チンパンジーの子を育てていけばいい。

 子供は自分の意思で動くのだから、言うとおりになどするわけがないのだ。

 「大人になったら、全部言うことを聞いて優秀になる」

 そんなものを目指したら、面白みもない、調教はされていても自分の発想もない、よくできただけの木偶人形になっていき、人としての行動もとれないのに人を恨んで自分の身を嘆くような、何もできない生き物になってしまうだろう。

 言うことをいつか聞けばいいのではなく「人は他人の言うとおりになど動かないのが当たり前」なのだ。

 自分で自分に命じ、自分でその責任を持ち覚悟を決めて生きていく。

 たったそれだけのことでいいのだ。

 洗脳されてきた人は、思うより遥かに簡単なことができればいいのだ、と知ってほしい。

 そうすれば、やっと自分の脳を使って自由に考え生み出し、自らの力で生きていくことができるのだから。

最近の出来事 その1

 最近の出来事について

 父親による性的虐待のニュース記事のコミュニケーションについてもお話しました

 あの会話を聞いて何がおかしいのかわからない、でも怒りだけは湧く、酷いとは思える

 そんな人は要注意、超注意です

 

実の娘に性的暴行 ~完全に親子逆転している本物の会話~

 事件がありました。ニュース記事の引用です。

娘は「楽に死ねるには…と何度も検索した」父親が娘に性的暴行疑い 娘が直接問いただした際の音声記録で父親は「自分が愚かだということ」

https://www.mbs.jp/news/kansainews/20240306/GE00055930.shtml

 娘に性的暴行を加えていた父親が逮捕されました。富山県黒部市のニュース。
 MBSニュース3月6日の記事より

 このニュースの映像に、逮捕された父親の映像が出てきます。また、娘が録音した会話も映像内で流しています。

 父親の話し方に注目です。

 父親は娘の質問に対してこのような表現をします。

 【音声記録より】
 (里帆さん)「私が傷ついているとか、そういうのはまったく考えなかったってことでしょ?」
 (大門容疑者)「考えることができなかったんだろうな。自分が愚かだということ」
 (里帆さん)「私を性的対象と見始めたのはいつからなんだろう?いつなんですか?」 (大門容疑者)「中学生くらいとかそんな時じゃないかな」

 おかしな会話です。

 当事者である父親が、まるで思い出話をしている他人のような話し方をしています。

 状況を無視。現実に直面しようとせず、当事者として対話しないのです。
 こうして、心理的に責任逃れをしながら「まるで第三者」の顔で生きている人はよくいます。

 迎合している人に多いです。

 問題ない会話を繰り広げているのが「良いコミュニケーション」と勘違いしているのが、この父親のような人です。娘はイライラするどころではないでしょう。この状況で父親がこの物言いですから。

 問題ないことばかり言う。本人のやっていることと、本人が取っている態度が不一致です。

 こうした人は、真面目に接してはダメなんです。娘さんもこんなやり取りを繰り広げていたら頭がおかしくなります。

 真剣に接したら損する人がいます。

 それがこの父親のように、何があっても「もめごとにならない返し方」で何事もないことにしようとする人、または他人が悪者かのようにする人です。

 大人になるとそこまで親密になる関係の人もなかなか出てこないとは思いますが、僕はやはり恋愛関係では度々「時間の無駄」と言えることしかしない人に出会いました。

 恋愛関係、特別な関係になっていく相手に「迎合」はおかしいですよね。話を合わせていればいいわけではないし、相手が不審に思ったら相手を責めたり恩着せがましくして黙らせればいいわけではないです。

 まだ犯罪まではいかない、でも人格的にはこの父親と同じ。

 そのような人が沢山います。このニュースの話では、たまたま犯罪を犯しただけで、人格は元々です。

 犯罪まで至らないうちから、このように「大事な問題に直面するのを避ける人」がいます。やがて犯罪です。

 嘘つきは泥棒の始まりといいます。

 お金や物を盗むのではなく、人の時間や信じる心など、様々なものを奪う人がいます。自分の身のことしか考えず「責められないように」と気を付けるのです。

 「あなたと素敵なカップルになるため、愛し合うためにあなたの様子を伺って迎合しながら、気に入らないことが起きないようになあなあで頑張ります!」

 こんな女がいたらクズそのものですが、実際います。男でもクズです。人も人生も何もかも舐めている人はいます。

 この父親もですが、この状況でまるで遠い日の思い出を語るような口調で話しても相手は納得するわけないです。

 この態度からわかることは、「娘はずっと舐められて蔑ろにされていた」ということです。

 問いただされると、「自分も知りたい側の態度」になる。その場から逃げたのです。

 自分が人に自分の考えをきちんと述べなくてはならない時に、「一体何をしたいんだ、考えているんだ」などと問われると、えーんと泣き出したり、黙って答えなくなったりして、叱られた子供のようになってしまう人がいます。

 今までその態度で乗り切ってきたのです。そうして「だんまり」でいれば、親が勝手に話を進めてくれる。とにかく「叱られたら黙っている」それでよかった家の子が、なんの成長もせず、他人と親の違いにも気づかず、「まずくなったら黙っていればいい」と覚えてしまった場合に、よくやります。

 なんでも勝手に決めてしまう親がいて、そのパターンを覚えた。

 そして本人自身も知能が発達せず、外に出て他人を相手に同じことを繰り返すのです。普通は考えます。

 自分のしていることは、友達にやることではないとか、その場の空気が読める人は自分のしていることが何かおかしいと気づきます。

 周り任せで何もせずに生きていると、そのままになります。

 「自分で何も考えてないんじゃないか?」と聞くと、この手の人からは百発百中で「考えてる」と返事が返ってきます。

 「考えてない」と言われたので、否定されたと思って「面白くない気分」になった、だから子供のように拗ねて「考えてる!」というのです。

 大人同士でこれをやられたらどれだけ困るか、他人の家の子なんて育て損なっても他人は面倒など見られません。

 自分で自分を育てるのに必死になるのが当然で、自分で自分を放置していつまでも他人に育ててもらおうとしないものです。

 自分が育たなくても他人はどうでもいいのに、自分がちゃんとしていないと「怒られる」と思っている人がいます。自分対沢山の親という気分で生きているのです。

 そのように、完全に認知能力が育たなかった人は、立場を間違って生きていますから実際にはやらなくていいこと、やるから破滅ということを沢山やります。

 気づく、という現象は誰にでも起きるわけではありません。

 このニュースの父親も変わることはまず不可能です。

 性行為を強要してきた娘が怒っているのです。そして問いただしてきたのです。そこでこの態度です。

 この手の人はとても多いです。

 「自分中心のナルシシスト」です。

 娘がはこう言っています。

 「私が傷ついているとか、そういうのは全く考えなかったってことでしょ?」

 これは「質問」ではありません。

 問いかける表現で話しているだけで、傷付いていることを知らせているのです。

 これが「問われているから、質問だ」としか思えない。それが未発達な人です。

 ここで普通に答えます。それも他人のことのように。

 更に気の毒なのは、娘はこの続きを更に聞くのです。わからなくはないですが、これが「術中にはまってしまう時」です。

 日本語の会話ができる人は、ここで「問われているわけではない」とわかります。

 「傷ついているのだ」とわかるので、「言葉の意味を合わせた会話」などしません。

 土下座して泣いて詫びて、これから一生を償いのために費やしてもいいくらいです。そのくらい反省しても娘さんの心は簡単に癒されることなどありません。父親だからこそ娘は「何度でも問いただしたい」のです。

 現実であってほしくないことが起きているからです。

 何かほかに理由があってほしい。そんな気持ちになるのは当然です。

 このニュース、本当にいい例になります。

 「おかしな会話の参考」にしてください。

 噛み合っていないんですよ。この状況で「言葉の意味がかみ合う内容のやり取り」をしているのだから、「会話としてはおかしな会話になっている」のです。

 このようなやり取りによって、娘のコミュニケーション能力は破壊されます。

 言葉の意味をそのまんましか理解できない人がいます。

 それが「会話の日本語」を習得できなかった人です。学校の国語のテストでいい点を取って、それで「自分はもう日本語ができた」と思った人です。

 僕たちは英語のテストでいい点を取っても、英語を話せるわけではないと知っています。しかし、日本語の場合は勘違いするのです。

 日本語は誰でも話せる。国語のテストでいい点が取れる人は、会話も上手にできる。

 全く関係ないです。コミュニケーション能力はそんなものではありません。

 そして、コミュニケーションがおかしな人は、「コミュニケーション能力」の意味も勘違いしています。

 日本の所謂事なかれ主義の、このニュースの父親のように「空気読んだ会話」をするのがコミュニケーション能力の高さだと思っています。

 勘違いです。著名なオタクの王様もよくこの勘違いを配信しているので、一応ここに書いておきます。

 「空気読む」ができる人は「人の気持ちを察する」ことができる人です。

 つまり、人とはうまくいく人のことです。

 「自分はコミュニケーション能力が高すぎて、空気読みすぎて疲れるから人といたくなくなって一人になってしまうんだ」

 こんなことを言う人がいます。オタクに多くいます。

 意味がわからないです。自分ができないことをできないと認めず、あたかも能力が高い、良いことをしているかのように言い張ることで現実をごまかしているにすぎません。

 とはいえ、「コミュニケーションがうまくいかない人」に聞いて教わるのは無理なことなのです。

 「自分はあまり人とうまくいかない方だから、どういうものなのかよくわからないんだ」と自覚している人はかなり現実を見ている人です。

 できもしないのに、その意味が分かっているかのように思っているのが「知った気になっている人」です。

 そして「空気読む人」が、社会的には特に問題を起こすことなく生きながら、こうして大問題なことをしても「態度だけ問題ない風」にして乗り切っていこうとするのです。

 皆さんも社会で、また夫婦の間などで、そのような場面を見たことがあるでしょう。

 このように「現実を直視しない態度」でしらばっくれ続けて生きている人はいるのです。

 その場を「やり過ごしたら」それでいいのです。

 そのように生きている人は、この父親のような人と仲良くすればいいのです。

 僕は真剣に生きていますが、真剣に人と接する気がない人が平気で「自分も真剣に接するのがいいと思っている」と嘘をついて生きています。

 「そう思ってもらえればうまくいく」

 「相手に気に入ってもらえればうまくいく」

 この発想を持っている時点で、どのような関係、どのような相手を求めているのかはよくわかりますね。

 自分が本気で生きていない、正直に接していないのに、寛容で優しい相手が自分の面倒を見てくれて、話を聞いてくれて…

 「気づいてなかった、わかっていなかった」など、言い訳をすればいいと思っている、まさにこの父親そっくりな生き方をしている人などごまんとするのです。

 娘は完全に親代わりをやらされています。

 これが「親子逆転」です。

 立場的に、保護者であり物理的には面倒を見ている父親が、心理的には完全に子供。娘を母親にして甘えた反応をして相手をしてもらっているのです。

 本当に最悪の事件だなと思いました。

 「重大事になった現実」に直面することもできず、なんでもないことのようにふるまっている父親。娘は今後も自分の存在に苦しんでいかねばならないでしょう。

 しかし、このような親に育てられた人も、決して「そんな私をわかってくれる人」なんて求めて親そっくりにならないことです。

 自分がやられたから、という理由で他人を虐待していいわけではないのです。

 向こうでひどい目に遭ったなんてことは、こっちの人のせいではないし、確認もできない話を出して「いきなり特別扱い」をされることが可能になれば、世の中は「理由をつけてはいきなり特別扱いされたがる人」で溢れかえってしまいます。

 決して許してはならないことです。

 決して許してはならないことですから、自分に対してしっかりと見張りをつけてください。

 許してはならないことを他人がしていたら、それを裁くわけではありません。我慢した経験があれば必ず他人に同じことをしたくなりますから、その時に自分を止めるのが自分自身の役目です。

 そして悪事が蔓延していくのを止めるのです。

 皆さんが心の中の神の味方をして負の魔物に打ち勝ち、決して怒りや憎しみを勝利させ、「正義だ!」と言いながら人を虐待して回ることのないよう僕は願っています。

 そして、この手の会話をする人はもう手遅れなので、会話をしないのが一番です。

  普通に会話して普通に関係を構築できる人は案外少ないですが、自分自身は勇気を持って本音で、本物の自分で生きることです。

 それしか、僕たち人間にはできないのですから。