月: 2025年7月

どうして餓鬼が育ったのか?

 神経症と呼ばれるものは、餓鬼です。

 そういえば、「食えなんだら食うな」(著 関 大徹)を推薦していた執行 草舟氏も今の日本人は餓鬼になっていると言っていました。

 僕も驚きました。

 こんなに真剣に人の内側を見たのはどれだけぶりか忘れるくらい久しぶりに見てみると、肉体と精神が別人。肉体には魂が宿っていない状態です。

 それが以前載せたこの図です。

 私は肉体とは別人で、自分が傀儡として「都合よく」動かしている「他人から見える自分」と相手に会話させている。

 傍観者。今ここにいてここにいないのです。

 この状態の人は、中身の精神が外に出て来られなくなります。

 餓鬼です。

 これをどうすればいいものかと考え続けています。

 少なくとも他人と真剣に会話できる状態ではないです。

 相手が真剣に自分と向き合っていても、自分は心の中で様子を見ているだけ。相手との会話はそもそも自分がしているわけではなく、自分が傀儡として動かしている肉体にやらせているだけですから。

 真剣に話などされても、今ここにいて相手が話しかけている自分は別人なのですから、意味はないのです。

 「私」は最初から誰とも会話などしていません。存在もしていません。見ているだけです。

 自分の使う傀儡の身に起きたことを見て、喜んだり怒ったりしているだけです。

 だからこそ、当事者の感覚がなく常に欲求不満なのです。この状態で満足することはありませんが、喜び続けたいならば他人が望みを叶え続けるしかありません。

 しかしそんなことも最初のうちだけです。相手を操作するために自分の肉体を動かすのですから、思っていることは何も言えないし、相手を操作できそうなことをやり続けなくてはならないし、更に自分は相手より優位に立って尊敬もされたいのですから、大変なことです。とても続けられません。

 とにかく、これは餓鬼なのです。

 餓鬼は自分が人間だと思っていますが、違います。

 僕も子供の頃に自分で気づいて驚きましたし、自分がいつの間にか餓鬼になっていたことに絶望しました。

 この状態になっている人と、人間が会話することはできません。

 相手は必ずこっちの様子を見て、発言を意のままに操ろうとします。

 嘘をつくのが当たり前なのです。本人の肉体ではないので、自分が思うことを言うなどあり得ないのです。

 「この肉体は、自分が人生を生きるためではなく、他人を操作するために使うことにした」

 そういうことです。

 嫌だなーと思っています。接する難易度が高く、巻き込まれると地獄行きです。

 そして、自分でどうにかするしかないものです。他人にはどうにもできません。その人の心の世界に入れる人はいませんから。

 心の中にいる鬼は煩悩の化身。だからやたら疑ったり騙したりするのです。

 人の心が戻ってくればいいのですが、そのためには「素直な自分」を本人が自覚しなくてはなりません。探さなくてはならないのです。

 ちなみに、僕はすぐに見つけて自分の正気を取り戻しました。

 恐らく、それも難易度が高いと思われます。常に自問自答できる程度に自分を持っていなくてはなりません。

 ところで、なぜ餓鬼になったのか、まずその原因を知りたいところですね。

 餓鬼は幼児期に出てきます。

 その時に、親が対応を間違うと図のようになってしまいます。

 素直な子供の方を叩きのめして、ご機嫌を取って人を操作しようとする餓鬼の方を育ててしまったのです。

 子供の方は「これじゃいけないのかな」「こうしなきゃならないんだ」と、何か理由がわからないままに、親の機嫌が良くなることをした、という感覚です。

 では「これで良かったんだ!」と安心できることになればいいのか?といえば、全く違います。

 それでは、結局親のしていることに合わせて出てきた反応の話になりますから、そこではありません。

 根源は未練。既に過ぎているので未練です。

 怒り憎しみが強くなってしまうと、これを探すのはかなり難しいことです。

 特に餓鬼は育ち続けると傲慢になります。

 自分が威張っているものだから、今のままの方がいいのです。

 元の素直な自分と、餓鬼を戦わせることができないとどうにもなりません。所謂、葛藤です。

 とにかく、図のような状態で皆さんがAさんの立場ならば、傀儡として自分を操作するために動かされている人を相手に、真剣に話し合うこともできないとわかるでしょう。

 誰かが操る木偶人形と話しているのです。

 心無いわけです。

 見ていてわかる人間にとっては、話しているのもバカバカしいですよ。

 全部嘘なのですから。自分の顔色を窺って、言う事をコロコロ変えるのですから話になりません。

 この状態の人に、今書いているような内容を聞かせたとしても、意識の存在たるものは肉体とは別にいるのですから、どうにもなりません。

 例えば、こうして僕が書いている内容を考えることなく疑ったり、評価したりするのが関の山です。

 自分が評価を求められていないのに、好き勝手に評価してくる人がいるでしょう。

 それはおかしいとか、普通じゃないとか、人様に向かって言う事ではありません。そんなことは求めていないし、自分が責任を取っていくわけでもないのですから。

 ただ難癖付けて貶してくる。そんな人がいます。

 鬼なのです。

 いつも評価する目で見てくるのは、精神が傍観者だからです。

 当事者ならそんな視点で物を言いません。

 他人にはどうにもできません。

 餓鬼にとって他人は道具です。自分と関わる人など生涯いません。

 周りにいるのは人間ばかりですから、仲間ではないのです。

 人間を心の中から操作できると思っているのは、自分は人間たちとは違う存在だとわかっているからです。

 肉体が精神とは別なのですから、精神だけの存在と関われる実在の人間はいないのです。

 見てくれだけは人間ですから、まず誰も気づかないでしょう。

 人間に正体がバレるのを恐れていますから、常に隠れています。

 やましいことがあるからコソコソするのですが、人の心はないし、人を仲間だと思っていないのでなんら悪いことをしている気もありません。

 人ではないですから、仲間でもない生き物たちを利用することに何も罪悪感はないのです。

 それが親であってもです。人の子ではありませんから。

 餓鬼自体は、心の中から生まれてくるものです。何かの欲なのです。

 肉体を渡してはいけないのですが、そのための戦いを全くしていません。

 餓鬼に精神世界での戦い方を教えたところで、餓鬼は今のままでいたいのですから意味がありません。

 人間が何を教えたところで、意味はありません。人間の話なんて真剣に聞くことはないですし、一生出ても来られない鬼は「人間の肉体」という監獄から出たがっているので救いを求めます。

 そんなわけで、どうしたものかなあと思っています。

 人間になら教えられることもありますし、自力でなんとかする方法を身に着けさせることもできますが、鬼には何を言っても無駄なので教えても意味がないです。

 欲求のままに衝動的に動くのが鬼です。制御してくれるはずの人間が既に心の中で完全に死んでしまっているならば、もうどうにもならないです。

 人間は人間を助けることはできても、鬼は助けられないです。

 鬼は誰かに退治されるだけ。

 自分で退治できないなら誰かに退治されるしかありません。

 どちらにせよ、鬼は人間を倒して支配するための戦いをして生きるのみです。

 いま、すっごく眠いのでこの辺で。

 

退化しないようにSNSでは気をつけて~無料記事~

 確かにそうだなあと思うことを書いている人がいると、SNSではそれをなんとか罵ろうとする人が現れるものですね。

 先ほど見ました。

 元は医師の発言を引用した人のものでしたが、その医師が言っていることも、そうなる理由も僕は理解できますので「確かにそうだな」と思っていました。

 そしてそこに連なる人々。

 すると、自分が「悪い方に当てはまった」と思った人が、なんとかしてケチをつけようとするのです。

 歪んだ解釈をして、悪意ある発言をしているのですが、その悪意ある人に対して「まともな人ならそう思うだろうね」と思える「まともなこと」を突っ込んでいる人がいました。

 言っていることは正しいし、その通りだと思います。

 ただ、気をつけて欲しいのはここなのです。

 絡んでケチをつけに行く人の発言には悪意があります。嫌な気分になりますから、つい怒りが起きて「当たり前のこと」を突っ込んでいきたくなるのです。

 しかしその時の「怒り」が原因で、引きずられなくてもいい地獄に引きずられてしまいます。

 怒りには最も気を付けなくてはなりません。

 敵意ある発言を見れば、何か嫌な感覚が生まれてきます。敵意に反応しているのです。

 争いに首を突っ込みにいくと、まともなことがわかる人まで同じ土俵に引きずられていきます。

 つい言い返したくなるのはわかります。他の誰か、別に悪意もないような人が罵られてケチをつけられているからです。

 しかし、蓋を開ければ悪意の人は程度が知れたものです。

 自分が反論されれば、学校や親にはそう教わったとか、それしか教わってないから知らないとか。

 政治について親が子供の頃から話していた、ということで優越感を持っているようでした。

 権威主義です。

 要は、成長していないのです。

 人間は最初の自分の精神が「死んで」から本物になります。

 仏教的な表現ですが、三途川は肉体が死んで渡るものではありません。

 自己中心的で尊大だった「なんでも知っているつもりの自分」が一度死ななくてはなりません。

 そのために、無明、無知こそ最も解決しなくてはならないものとして挙げられています。

 教わったことだけ覚えて、自分はできるつもりになっている。

 何もかも人様から与えられていて自分で考えて決めてもいないのに、反論されれば権威ある何かの名を出し心を守ろうとする。

 偉い人がどんなに悪いことをしていても、こうした人が守っているので今の格差社会があります。

 自分さえ良ければいい、の精神です。

 そのような人に反応して怒りを持ってしまう人は、気をつけてください。

 その反応はおかしなものではないと思いますが、結局、実際に目の前にいる人ならば誰も相手にせず「嫌なことばかり言う」と思われて人が離れて行くような人でも、ネットでは「かまってもらえる」のでどんどん増長していくのです。

 放っておくことです。誰も相手にしてくれない、という状況になるから、我儘な子供も自然と諦めたり改善したりするものです。

 いつまでも誰かがかまっていると、いつまでも変わりません。

 批判したい人の言いたいことはよくわかるし、僕もそう思います。

 ただ、思うだけです。

 思った時に、どう行動するかは自分で決めるのです。

 誰かが引用した言葉を見ただけ、それについて言葉に言葉でケチをつけに行った人がいただけ。

 そのような場合は、今何かが起きているわけではありません。

 それだけ正しいことがわかり、正義感や思いやりの心があるならば、実際に何かが起きた時に行動する勇気を出す方に力を向け、つまらない争いはしないことです。

 戦いに行けば同レベルになってしまいます。

 せっかく賢い人がいても、感情をまき散らしている人がいるとどうしても悪い方に引きずられていきます。

 SNSはかなり難易度の高いところだと思いますので、僕も人の発言はあまり見ないようにしています。

 まともな人は、本人自身も普段からまともなことしか言っていません。

 しかし、人を煽って怒りを起こさせるような人は、常にその状態なわけですから反応していたらキリがないのです。

 その人の心が地獄なのです。

 確かに正しいと思うことでも、行動の動機が問題なのです。

 発言は正しくても、内容も理にかなっていても、動きたくなった動機が「怒り」では、やはりその行動は善き行いとは言えないのです。

 怒りを消し去る発言の方が、行いとしては正しいです。

 やたら難しいことを言いたがる人はいます。

 しかし、人間は本当に身に着けているもの、持っているものについては優越感など持ちません。

 人をバカにしているということは、何も持っていないということです。

 親や社会の権威に与えられたものを誇示しているのは、自分で考えて生み出したものが何もないからです。

 自分で考えた自分の意見を持っている人は、他人と比較して勝つために考えた結論ではないので、それを使って戦おうなどとしないものです。

 他人の力を使い誰かと戦う人間は、勝負の前から負け犬なのです。

 弱い犬ほどよく吠える。

 弱い武士ほどすぐ刀を抜く。

 本当に強い武士は自ら争うことをしない。

 普通に、腹立たしくなる発言をする人はいます。

 そんな時こそ、冷静になるのです。

 小者の挑発に乗っているようでは、自分の程度も知れたものです。

 生きる限り精進です。

 生きているとあらゆる場面で自分の精神を貶めてしまう罠が沢山あります。

 罠にかかるどころか、罠を仕掛けて生きている人もいます。

 しかし、そんなことをするために時間を費やす人生は、虚しいものです。

 他人がいてくれて、かまってくれて、更に相手が悔しい思いをしてくれて、やっと「自分が上だ!」と満足できるのです。

 こんなに手間のかかる人はいません。

 自分を客観的に見る目が生まれなかった人は、「自分が間違っているかもしれない」という不安に勝てません。不安だからこそ、自分が間違っていると自覚しなくてはならない発言を見ると、猛攻撃をしているのです。

 こうした人が、「うちは正しい!」と言い切って自分の家族を持ち上げつつ、実際には隷属していることがあります。

 自分が勝てない誰かに屈している時、負けを認められないならば「相手を正しい人にすること」が一番楽なのです。

 何も変わることなく、今のままでも「いいこと」になってしまうのです。

 僕がもし、権威ある存在が怖くて心から納得していなくてもそれに従って、更に恩恵を受けているならば「あの方は正しい!」と言いながら、自分も同化して同じことを言えばいいのです。

 そんな場合に出てくるのが「親がそう言っていた」に代表されるやり方です。

 支配的な人が強気で押し付けてくる理論に誰もが反論できるわけではありません。

 ・ただ恐れに負けて従う人

 ・なんとなく納得できないけれど、何がどうおかしいのかよくわからない人

 ・納得もできないし、どうおかしいのかもわかるけれど、勇気がなくて我慢する人

 ・納得はできないし、自分の考えがあるのですぐにそれを述べる人

 支配されないのは最後の人だけです。

 最後の人は、敵に勝つための戦う勇気を持っているわけではありません。

 「人間を恐れないから意見できる」のです。

 相手を敵視していないから、あっさり意見できるのです。

 肩書なんてどうでもいいのです。みな人間です。

 どんな立場になってもビビりな人はいます。しょうがないです。

 それが人間ですから。

 しかし、どうせ支配下にいても末路は見えています。

 納得がいかないものには屈しないことです。

 そして、自分が反論する勇気がなくても、自分もすっかり相手に同化して「もっとすごい人の言葉を借りて、人を連れてきて戦おう」とだけはしないことです。

 本当に強い人ならば、争いに参加しないです。

 上も下も右も左も、いちいちいちいち、誰かを連れてこないと、人の言葉を借りないと、言いたいことも言えないなど面倒なことです。

 今そこに自分がいるのだから、自分の力でなんとかすることです。

 人は敵意悪意には本当によく反応しますから、考えて生きる人たちもどうぞ気をつけてください。

 どう考えても、そこで争う相手は有意義な会話をできる人ではない、と自分でもわかっているのですから。