真剣に人生を変えたい人向けの講座
仲間にすべき人と争う現代人 ~被災地等の人に特に読んでほしい~
会員の皆様にご報告とお礼 ~お知らせ~
会員の皆様へ
いつもご愛顧いただきありがとうございます。
当サイトの会員の皆様、また教室やワークショップ、ご相談などで関わって下さった皆様にご報告とお礼を申し上げます。
この度、最上が目指しているところの「神経症の完治」を成功させることができました。
最上が目指していた「成功」とは、以下の内容です。
自分自身が存在しているだけで価値があり、また与えられた命に責任があると実感すること。
自分の存在をご先祖様からのつながりを持って自覚し、自分が経緯の中に存在していると自覚すること。
今まで認識していた「生まれてきた時から存在している家族」の認識が代わり、親兄弟が今までとは違う存在に見えること。
自分は一人で自分の人生を生きている、他人とは関係ないと自覚し、自分の存在を唯一無二として感じられること。
他人の気持ちを想像で、自分の感情は自然に沸き起こるものを感じ、同時に複数の視点による感情を感じられること。
今を実感し、今起きたことを今感じられること。
以上は成長に伴い自然に変化する特徴でしかありませんが、最低限そこまで導いてくることが最上にとっての成功であり、「目が覚める」でした。
長い時間をかけ、独自に考案した方法を実践し続け、この度、目指していた成功を成し遂げることができました。
まずは、今まで関わって下さった皆様に心よりお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
心血を注いできたと断言できるほど、最上も持てる全てを使い力を尽くして参りましたが、何よりも本人が心から苦しみから脱しようとし続けてくれたことが最も重要でした。
「生まれてきた家の家族が、今までとは違う家族に見える」のですから、既に本人は生まれ変わったも同然です。しかし、目が覚めるまでは「過去が変わる」なんてことがあるとは信じ難いと思います。
僕自身が体験してきた道のりを進んで行くよう、本当にあの手この手で成長を促してきました。足りないと思われる材料に気づいては様々な知識や体験を与え続けることで、最後には本人が一人で考え「気づく」ことに成功しました。
本人的には「想像していた目が覚める」とは違うため、そんなに大きなことが起きたとは思えないようですが、何もかもについて視点は変わり、心理学で言うところの「意識領域の拡大」が成されました。
「今まで一体自分は何をしていたのか」
そのように感じられるので、正に寝ていた子が起きたかのように「目が覚めた」なのです。
現在、既に目が覚めた本人の感想を少し紹介します。
「私は毒親のブームに乗っかって、親への怒りや憎しみを増幅させてどうにもならなくなっていた。親に対しても本当にひどいことを言ってしまった。」
「世間ではいいもののようにされているけれど、私はなんでもなにかのせいにしてもいい「あなたは悪くないのよ教」という宗教に入っているようなものだった。そんなことはない。全部自分のせいだった。」
「これまでは自分が大玉の中の一部のような感覚で、みんな一緒に大玉の中で生きていて、その中で、誰が正しい、誰が悪い、と争っているような感覚だった。それが、ある時自分一人でポンとひとつの玉になって、全員がバラバラの玉になってはじけた。私は最初から一人で、他の人たちは私には関係ない他人だった。」
本当に、よくここに到達してくれたと僕も心から嬉しく思っています。
今は本人の中に確信できるものがあります。菩薩道五十二位で言うところの第一位、信。やっと入り口に到達です。
既に成長しましたから、今までと同じ場面であっても同じ感情が湧いてくることもなく、同じ考えを持つこともありません。
本人が生まれ変わりましたので、今までは険悪であった両親とも新しい関係を作り始め、特に敵視していた父親も機嫌良く対応してくれるようになったそうです。
本人の心が変わり、親にはできるだけ元気で長生きしてほしい、悔いのない人生になるようできるだけのことをしたい、と心から思えるようになりました。
本人が成長し、親を超えたからです。
最上がここまで続けて来られたのは、遊びの中に発見を見出そうとしたユングや、かつての武家の生活に近いやり方を取り入れた森田療法の森田正馬先生や、世間の批判に晒されながら、バカにされながら、それでも自分が確信を持てる何かを求め、新しいものを考案し実践してきた先人たちに心を支えられてきたからです。
自分が先人たちが生み出した物を使わせてもらいながら生きているのですから、同じようなリスクに晒されても、その恩に報いる努力をするのは当然だと最上は考えておりますが、今回の成功は最低限のことでしかありません。
毒親のブーム、現在の臨床心理や精神分析学など、西洋から入ってきた「正しいもの」については方向性に疑念があり、このままでは「毒親から助かったと思いながら、社会の他人に救いを求める根無し草」という末路まで絶望的な道を進む人が多数生まれてしまうと危機を感じておりました。
誰かに教えられたから正しい、などと他人に責任を擦り付けながら行動するのは無責任ですから、それが教科書に書いてあったことであっても、自分が実践する限り自分が責任を持たねばなりません。
とはいえ、確実な成功を自分の力で成し遂げるまでは全てが保留、断言するには至れません。
僕が携わるこの領域は、個人の人生どころか一族の命運を変えてしまう非常に重要な分野です。
目が覚めた人は、今では最上が救いたいのは本人、そして親を含めた一族の系譜そのものなのだと理解していますが、最上の一族が世間でも稀なだけに「なんでもない普通の農民だった一族」でも可能であることを実践して自分に証明しなくてはなりませんでした。
なんとしてでも一度成功しなくてはならないと思っていましたので、目標達成という意味では大成功でした。
ここまでくると、道理を説くだけで本人が理解できるようになるので今までより遥かに楽だなと思いつつ、本人が「本当の喜び」を体験するのはまだまだこれからですから、やっと生まれてきた「意識」におめでとうと言いたいです。
私は最初から一人だった。
その通りです。
あれこれ皆さんに説明しながらも、結果を出すまで断言できないこともあり、考えながら実践を続けてきました。
「長く続けてほしい」と言っても実際にここまでたどり着くのはなかなか難しいことですが、今回目が覚めた人は最上より年上の五十代であったこともあり、この分野で言われている三十代が限界という常識もまた言われているだけだったと確認できました。
知りもしないのに世間で正しいとされることを鵜呑みにし、確認を怠りながら生きないよう常々気を付けておりますが、お陰様で善き方向に進んでくることができました。
強い力に離反しての今ですから、ここまでついてきてくれた本人にも感謝しております。
争いの無い、弱肉強食の輪廻の輪から脱した方の今後の未来を祝福すると共に、今後は既に確認済みの内容を基に皆さんに必要なものを発信していけるよう力を尽くしたいと思います。
本当に、皆さんありがとうございました。
2026年 4月4日
Refresher 代表 最上 雄基
完治させたら感動して泣くかと思っていたのに
日記。
心血を注いできたと断言できる神経症の完治だが、成功したら涙を流して自分が感動するんじゃないか、と思っていたが案外そんなことはなかった。
そんなに感情は強く動かないし、「ああ、やっと終わった」「長かった、疲れた」という感覚だ。
ただ、じわじわと感じるものがある。
「やっぱり俺はこういう方がいい」と思った。
完治した人は、自分でもこんなものなのかと思う程度なのだが、確実に視点は変わった。
認知能力は上がった。賢くなった。
自分の変化は自分には「経緯がある」ので、実際には自分の変化に感動などしない。
「周りで起きること」に感動したり驚いたりするのだ。
だから、自分が変化せずに生きている人は周りに喜ばせてもらおうとばかりしていて、自分が変化して「他人の手をいちいち煩わせない自分」になろうとしないのだ。
やっと、この俺が天才であるとわかったか。
と、聞いたが、もう疑いようもないだろう。
天才は理解されないから天才なのであって、誰にもわかってもらえなくても結果を出すのだ。
自分が正しいから結果を出すのではなく、そうなると「知っている」からそうなっただけだ。
ただ、信じる人はいない。少なくとも神経症の人は僕を信じない。
神経症の人は、僕だけでなく何も信じない。
社会的に名のあるものを崇拝、盲信はしても、事実、今自分が体験している本物だけは信じない。
自分が体験したら、それを誰かに説明してもらわなくてはならない。
自分ではなにひとつ判断しない。他人に教えてもらいながら生きていく。
だが、誰にも認められなくても誰も肯定しなくても自分の決断で進めなくては、自分の意思とは言えない。
他人が認めないから、世間が間違っているというから、だから間違いだと判断するならそんなものは最初から自分の意思でもなんでもない。
結果は出たが、僕はそれをどこかで認めてもらう気もない。
僕が、見たかったのだ。
確認したかったし、一度は間違いない成功を自分のやり方で成し遂げなくてはならなかった。
僕がそうであったように、他の人も同じ材料を持ち合わせたら目が覚める、と確認したかった。
そして確認した。
外から見たかった。他人から見たらどう変化するのかを。
普通、になった。僕から見たらそんな感じだ。
洗脳されていた独りよがりな人が、まともになった。
世間で目的とされているところと、僕が目指しているものは違う。
僕は、「自分の存在、自分の命が大切なものなのだ」と自覚し、これからは自分の力を、命を、大事に使おうとするようになってほしかった。
「他人との違いがはっきりわかるようになった」と本人は言っていた。
人間は一度変わってしまうと、もう過去の感情は持たない。
今の自分の感情しか、湧いてこない。
よって、同じ親、似たような場面でも、今までのように腹は立たない。
もう視点は変わっている。成長したのだ。
だが、僕が教えてきた多くは「その後の段階の話」なので、これから先もある。
これからは本人の体験が変わっていく。新たな苦を体験し、新たな喜びを感じることになるだろう。
時々もう無理かもしれないと思ったし、こんなことをしたら批判のリスクは確実にある、とも思ったが、間違いなく必要なことのためなので、それでもやってきた。
森田先生のように、我が一族にかつての力が残っていればできることも多かったのにと思った。
森田先生もかつて独自に療法を考案した時は、保険も効かないのに多額の治療費を取り、家の中に住まわせ掃除などの雑用をやらせている、と悪意ある見方をされて批判にさらされたらしい。
西洋医学を崇めている「現代社会の人々」には受け入れがたい、「日本らしいやり方」だった。
精神医療は根本が西洋のものだ。療法も理論も、何もかもだ。
日本人は今や西洋人の真似事をして、いかに西洋人に近づけるかという民族になった。
自分たちを捨てた。その報いが今だ。
自分たちが元々持っていたものを捨てたことすら、気づいていない。
僕はその「元々持っていたもの」を自覚させ、意識の上での繋がりを持たせた。
それは僕が天才だからやれているのではなく、元々我々一族が培ってきたものがあるからできることだ。
幼児期から僕がやらされていたことが、修行なのだと自分では知らなかった。
僕は小学生の頃に既に知能が高かったが、その思考になるように幼児期に既に鍛錬を積まされていた。ちなみに、姉はその鍛錬を積んでいない。
だから僕の方が賢い。母は手遅れだった、と言われたらしい。
今、目が覚めた人は今度こそ僕の話を聞いて理解できるようになった。
これから益々賢くなるだろう。
なぜ、現代社会の人たちが「なにかになろうとしているのか」を既に本人も理解しているし、本人は既に自分が誰なのかを自覚したから、もうなにかになろうとすることはない。
そんなことは「したくない」だろう。
自然にそうなるのだ。
自分の力を持って、人のためにできることがあればしたい、と自然に思う。
それが、成長したということだ。
マズローの理論に照らし合わせて言うならば、欲求の階層は段階が上がり、利他的に生きる喜びを知れる段階まで来た。
そういえば、僕もその昔、自分が変わったら自分が感動するような何かが起きると思っていたものだ。
だが、自分自身については「常に理由がわかる」ので、特別大きな感動などなかった。
ただ、過去を振り返り自分が何をしていたのか「他人に何をしてもらっていたのか」を自覚すると、強く実感するものはあった。
沢山の人に与えられて今に至っているという実感が生まれ、自分のこれからを無駄遣いしてはいけない、と心から思った。
心の中では「感じ入る」ものがあるのに、形の上ではいつも通り何事もなく、大きな何かがあるわけではなく、ただ、自分の胸の内だけで今までにはなかったものを感じるのだ。
やはり、本物はこうでなくては、と思った。
世間に認められてちやほやされるのではなく、誰もに見えるところで何かをしているのでもなく、その逆。
漫画だってそうだ。
いちいち脇役皆に見せびらかして認めてもらって成功、幸せ、なんて主人公がやることではない。
人知れず、ここにいる「当事者」しか知らない。
だが、世間では聞いたこともない、見たこともない、「教えられた誰もがやっているのと同じこと」をしているわけではないのに、どんなところに行っても体験しなかった結果が出る。
この方が感動じゃないか。僕はこっちのほうがいい。
西洋かぶれの貴族どもよ、見るがいい。
これが日本が培ってきた力だ。
毒親の子、は、毒親の子ではなくなり、今までとは違う家庭の子になった。
生まれ変わった。これでいいんだ。
遥か彼方からの繋がりを意識の上でも自覚すれば、今度こそ肉体に刻まれた能力を覚醒させられるだろう。
ここまで結果を出さなくては、目が覚めた本人だって僕を信じはしない。
そして驚くだろう。驚いていた。
ここまで先のことを見越して、あの、何年も前にやってきた頃からずっとずっと必要な材料をあの手この手で差し込んでいったのだ。脳内に。感覚に。
だが、この方法は、二度三度できるものではない。
なにせ僕が、どうしても見極めて行かねばならないのだから、僕がいないとできない。
少なくとも目が覚めた本人は「場を用意する方は大変なのだ」と理解することができた。
そして人生を、残りの寿命をもう無駄にはしない。
そういう生き方ができる人に変わった。
俺はもう疲れた。どの道もう同じことはできないと思っていたし、これを最後にしようと決めていた。
この一回を成功させて、何が足りないのかもよくわかった。確認できた。
しかしこれは、誰もが教えられるものではないだろう。
少なくとも、教える方は自分を自覚している必要があるし、たった今、金や地位のために自分都合で動いているようでは駄目だ。
自分の存在を遥か昔からの繋がりで自覚している必要があるのだ。
今回はたまたま、色んな条件が重なってうまく行った。
社会ではひとりひとりの人生など知ったことではない。他の人たちだって似たようなものなのだから。
だが、本人にとっては重大なことだ。
本当に、気づいてよかった。
やりきったせいで、もう僕が死んでしまうんじゃないかと思うほど、確実に間違いない、と成功を確認した。
神経症は治る。治った。
過去は書き換わり、本人の情緒も安定した。
出口の無い暗闇をふらついていた魂は、やっと出口にたどり着きのろのろと這上ってきたのだ。
「思ったのとは違う」ので、本人も不思議な感覚だろう。
これが、「本物」なのだ。
「私は愛されなかった」とはなんなのか?受け身な人の悪質さ ~無料記事~
なんとなくすっきりしない、腑に落ちない、と思っていることはいつまでも気になるものだ。
何か身勝手な悪意を感じると思っていたことがある。
「愛されなかった私」
この解釈だ。
愛されずに育った私。と、「私」が解釈している場合と、他人がそう思っている場合では全く違う。
他人が「あの子は愛されずに育った、可哀想に」と思うのは同情心だ。
自分が「私は愛されずに育ったので」と言う場合は、そのあとに何かの要求がある。
「だから~なのです」は、言い訳だ。何かを受け入れさせようとしている。
この解釈が、どうしても腑に落ちなかった。
僕は「愛されずに育った」と思っていない。
虐待されたとも思っていない。
そもそも「親に愛されなかった」と嘆くならば、親は愛することができる人でなくてはならない。
愛することができるのに、愛されなかった。これなら納得だ。
好きな人に振られたようなものだ。
しかし、自分が愛されなかったと言うならば、親だって愛されなかったと言える育ち方をしている。
それで「愛されなかった」の解釈は親に対するいじめだ。
愛されずに育ったから、私はどうなのか?
私は愛することができるのか?
愛されずに育っても、「愛する」ということが今できるのか。
人間には、やりたくてもできないことがある。
それを親にだけは許さない。完璧であることを強要し、いつまでも恨む。
どんな環境でどんな育てられ方をしようが、「親なんだから子供を愛するのは当然だ」という勝手な決めつけで親を悪者にする。
子供を子供が望むように愛せない親は悪で、子供が望むように苦もなく生きていけるようにすれば「普通」なのだ。