心眼を開く、第三の眼とは一体なんなのか?
このように「名前は知っているけれど実際なんなのか知らないこと」に遭遇すると、大抵の人は映画や漫画のことを思い出し「それは架空のもの」のように思います。
これは「自分がなんでも知っていると勘違いしているから」です。
心眼が開かない人です。
僕も最近、驚くことがありました。
学問で正解するような頭脳は優秀なのに、人としては難ありな人がいますよね。
知能が発達していないのです。もう、はっきりそれはわかっていることなのですが、頭脳明晰で人として難ありな人は権力ある人たちにこそ多いので、認めたくない、または「できない人には教えてあげるね」という既に私はできてます顔をする人がとても多いのです。
残念ながら、僕の精神分析の師もそうです。
度々、いきなり怒鳴られました。でも怒鳴りつけた後はケロッとして元に戻るのです。
彼にとっては、下の者を怒鳴りつけるなんてことは咳ばらいをしたのと同じくらいなんでもないことなんでしょうね。そこは完全にカットして次に行きますからね。
たぶん、本人の記憶の中にも「自分がしたこと」として記憶されていないはずです。
僕としては、恐らく彼の洗脳は本人が亡くなったら少しずつ解け始めるものだろうと思っています。もともと辻褄が合わないところがありますからね。
ただ、「矛盾していることにそもそも気づいてすらいない人たち」が多いのだと気づきました。
今起きているのに?!
しかし、「偉い先生だから、叱られたら自分が悪いんだ」なんて思うのです。
最近紹介した「心の知能指数」と呼ばれるEQですが、僕は元々非常にこれが高いと思われます。
強い怒りをぶつけたくなる衝動を抑えたのは、五歳の頃が初めてです。自分の意思で、意識して制御したのでよく覚えています。
理由は「目の前にいたのは友達だから」です。しかも友達が僕に意地悪をして攻撃してきたわけではないのです。八つ当たりです。
当たり前ではないでしょうか。友達が戦いを挑んできたわけでもないのに、僕はその時「怖い思いをした」ので、「助けてくれなかった周りの子たち」に怒りを感じたのです。「助けて、助けて!」と叫んでいたからです。傍観していた周りの子たちに怒りを感じたのです。
自分勝手なことです。助けてと言ったら助けてくれるものだという決めつけが怒りを生んでいるのです。僕が今怖い目に遭っている(具体的には氾濫した川に落ちて溺れていた)としても、僕が怖いのだから友達も助けるなんて怖くてできるわけがありません。まだ五歳です。
そこで、「大丈夫?」と駆け寄ってきた友達に怒りをぶつけたくなったのです。強い怒りをぶつけたくなる自分を制し、「この子のせいじゃない、この子が悪いわけではない」と自分に言い聞かせ、しかしとてつもなく恐ろしさを感じていたので身体はガタガタ震えながら「だいじょうぶ」と言いました。
そこで明るく言えるほどの精神力はまだありませんでしたが、今なら安心させるためにそのくらいできるかもしれません。
僕は元々こうなので、それは「人間にとって自然なことだ」と思っていました。しかし、IQと同じでEQも生まれつきの能力値が高い人もいるようです。違うのはEQは後天的に向上させられる能力であるという点です。
名前が違うので別の能力だとつい認識したくなりますが、これは同じことです。賢さとは全体で見るものであり、計算が速ければ「賢い」わけではないのです。計算が速い人は算術が得意なだけです。
世間一般に「勉強」ができることが「賢さだ」という概念が広まってしまっただけで、最初から賢さとは勉強ができることではありません。
心眼についても、妄想のファンタジーではありません。脳の仕組みを知れば納得する理由があります。