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親に受け入れられなかったのに幸せになれたのは…という話の誤解

 今回は、最近生徒に聞いて「誤解しているんだな」と気付いた話です

 僕は親に受け入れてもらうことなく、それでも自分を受け入れてくれる他人に出会って卑屈になることなく自分を好きになって生きられたよ、と話してきました

 その話を聞くと、どうやら皆さん内容を誤解するようなのです

 受け入れてくれる他人がいた、と言っても、親代わりになってもらったわけでもないし、僕個人の家の話を聞いてもらったとか、辛い気持ちを打ち明けて慰めてもらったとか、そんなことではないですよ

 親は最初に決まっています

 そして僕は自分の家族の話をしてはいけないのだと思っていたので、「辛い過去」を聞かせて浸っていたわけでもありません
 甘えて絡んで面倒を見てもらっては、ふてくされていたわけでもありません

 親は自分を受け入れてくれないです
 存在していることを認めないです

 それはもう、しょうがないです

 寂しいとか、誰かにわかってほしいとか、皆さんもそんなこと思うようですが、それは当然だと思います

 でもしょうがないですね

 親は外からやってきませんから

 しかし、学校に行けば友達の中には向こうから仲良くなろうとしてくれる子もいます

 ある人が偏見で見て見下してきても、バカにもせずに好意的に見てくれる人もいます

 誰もが受け入れてくれるとか、誰もが好意的に接してくれるなんて世界は自分だけではなくどんな人にも手に入りません

 それでも、家の中には「どう頑張ってもまともに話を聞いてもらうことすら無理な親」がいるのに、外には「他人として受け入れてくれる人」がいるでしょう

 それを「受け入れてくれる人もいる」と僕が思って感謝したのです

 「親に愛されなかった」「親が存在を否定する」

 それは死ぬまで変わらないですよ

 そこは、最初から無いので最初に諦めたのです

 「自分だから」という理由で受け入れてくれる人なんて一生現れないですよ

 存在そのものが特別な人は最初に決まっている親だけですから

 そこで受け入れてもらえなかったら、もう死ぬまでそこは変わらないです

 仕方ないですね

 自分が寂しいとか悲しいとか、そうしたことは「事実」とは関係ないですから

 しょうがないです

 「でも辛いです」

 という人もいるでしょうね

 そうですね

 辛いですね

 寂しいですね

 死ぬまでは頑張って生きて生きましょうね

 それだけなんですよ

 自分が特別な存在として受け入れてもらえる日は「来ない」という事実を受け入れていくしかないでしょう

 どうせ最後は一人で死んでいきます

 誰もあの世までついてきてくれませんよ

 生まれた時に存在そのものを受け入れてもらえたら、それはその方がいいでしょうね

 でもなかったならしょうがないですね

 誰にも自分を見てもらえないという心の中にぽつんと残されているような感覚は、自分一人で抱えて面倒を見ながら、他人の中には受け入れてくれる人もいることに感謝して、小さな出会いも大切にして「他人の顔をした自分」として生きていくしかないですね

 しょうがないです

 自分で選んだわけではないとしても、そうだったものはそうだったのですから

 死ぬまで変わらない、最初に決まっていた運命です

 何か誤解している方も多いようで、誰かに受け入れてもらったから存在そのものへの不安や孤独が無くなって「愛されて育った子」と同じようになったのだと思われるようです

 違います

 そんなことあるわけないですから

 同じ結果を得るためにはどうしたらいいのかを考えて、自分自身が「同じような対応をできる人間になればいいのだ」と気付いたので、コミュニケーション能力、特に人の話を真剣に聞いたり想像したり、感情を察したりという力を自分で鍛えてきただけです

 まあ、それだけですよ

 でも実際、外に出て似たような付き合いかたができれば、本当に健全な子たちと親しくもなります

 ただそれだけですけど、それが「人とうまくいっている」ですからそれでいいのです

 「どんなことがあっても、帰ることができる家」

 そのような場がない人間こそ、他人とうまくやっていけないと困ると思っているだけです

 必要な能力を身に着けて生きるのは当たり前のことです

 恐らく、感情をなんとかしてほしがっているような人はこう思うのでしょう

 「でもそれじゃあずっと不安や孤独が続いて辛い」

 だから、誰かわかってくれる人が…となるのではないでしょうか?

 まあ、辛いかもしれませんが、最初からでしょう

 自分は自分の人生しか生きないので、他人と比較しようもないですね

 ただ自分の場合はそうだったというだけです

 他人は全て理解しようと思っても理解できないです

 それでも、それなりに親しくなって共に生きていく人がいるならばマシだと思います

 孤独と言えば孤独です

 自分の人生には誰も出てきたことがない、心の中で一緒に生きる人がいないままですからね

 愛された子は心の世界を生きているつもりの時期に親に愛されます

 愛情につつまれて育ちます

 自分が話をすれば、自分の思うことをそのまま受け入れてもらえます

 自分の存在が受け入れられていると感じて育ちます

 自分の人生をお父さんとお母さんは一緒に生きているのだ、と厳密に言えば勘違いして育ちます

 しかしその時の感覚がいつまでも心の中の土台となって、存在を支えるのです

 「私はその土台がないのでいつも不安定なのです」

 という方がいます

 そうでしょうね

 寂しいし、不安だし、怖いし、たった一人で生きていくのが怖くて「絶対にいなくならない誰か」に一緒についてきてほしくなりますね

 かと言って、その不安を外に向けてなんとかしてもらおうとしたら、自分の現実を破壊するだけですからね

 先に覚悟を決めるのです

 「どうせいつか死ぬ」

 他人にとって特別な存在ではないのですから、自分も特別な存在なんて求めないのです

 生まれた時から特別な存在であるのは、親だけなのですから

 後は、必ず何か理由があります

 その内容がどんなものであれ、他人と親しくなる、または他人に気に入られる、なんでもいいですがとにかく何か理由があります

 「それじゃあ私を受け入れているわけではない」

 と思うかもしれませんが、それが他人というものです

 その内容が、金なのか肩書なのか、見た目なのか人間性なのか、頭で考えることなく自然に親しくなる時、相手と関わろうとする時、どこを理由にしているのかが違うだけです

 どこかに入り口があって、気になるところがあって、親しくなるわけです

 「自分を受け入れている」という意味は「特別扱いしてくれる」ではありません

 ここは書くと長くなるのでやめておきますが

 とにかく、後から自分を母親のように受け入れてくれる人がいる、なんてことはありません

 死ぬまで一人

 自分自身という存在を自分一人で受け入れて生きていくしかないのです

 「私」なんてこの世に存在していないのですから

 私、はどこにもいないのです

 友達の前では友達、恋人の前では恋人、私ではありません

 「私」を外に押し出したくなる猛烈な欲求を、それを上回る自制心で制し、理性で考えて行動するのです

 決して感情任せに生きない

 それが「どんな時でも受け入れてくれる親」がいない人が身につけなくてはならないものだと思います

 死ぬまで寂しい人たちは、死ぬまで寂しんで生きていくしかないですね

 しょうがないですね

 そのうち慣れますよ

 どうせ最初から一人なのですから

 というわけで、僕も「誰かに受け入れてもらえて幸せになれた」なんて話を聞くと

 「そんな夢みたいなことが叶う人もいるのか」

 と思ったりするのです

 僕は他人を親だと心から思うことなどできないので、最初から諦めています

 親には親を、他人には他人を

 親の前では子として、他人の前では他人としての顔を生み出し、なんとか死ぬまで生きていくしかないと思っています

 そんなわけで、諦めて執着から離れれば楽になれる、というだけで、求めていたものが見つかったから自分を好きになれた、というわけではないのです