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諦めなくてはならない人、許さなくてはならない人

 もう諦めなくてはならない、許さなくてはならない人がいる。
 責任を取ってもらえた人だ。

 神経症者は、責任の求めどころを間違っている、と言われている。
 例えば僕の場合、自分の家や親が気に入らないという理由で、「可哀想な子」として赤の他人に責任を取ってもらった。
 過去に親が酷いことをした、何かをしてくれなかった。
 それを無関係な人に話し、憐れんでくれた人によって僕は親切にしてもらった。
 母がしてくれなかったことを他人様がしてくださった。
 「この人たちなら僕を子供にしてくれるかも」と思った。
 だが、そのためには「僕が母を他人にする必要性がある」のだ。
 他人に親代わりになってもらうからには、本物の親を捨てなくてはならない。
 それが嫌なら、本物の親を受け入れなくてはならない。

 僕は、「して欲しかった部分」を他人に代わりにしてもらった。
 親については、「捨てるか受け入れるか」しかない。
 本物の親を捨てたら、自分は孤児と同じである。
 誰の子かわからない人間が、他人に拾ってもらったという形になる。
 それを選びたいならば、選べばいい。

 僕は選ばなかった。

 親に不満を持ちながら、親の足りない部分を他人に暴露しては他人から欲しかったものをもらって生きるという生き方を選ばなかった。

 親の不出来を理由に、人様の親に何かしてもらったならば、自分の親の不出来の責任を他人が取ってくれたのだから、自分もいい加減諦めなくてはならない。
 いつまでも親を受け入れず、運命を受け入れずに生きていれば、誰かがいつまでも何かしてくれるわけではない。
 本当に「してもらえなかった」わけではない。
 してもらえなかった、という理由で、過去にしてもらえなかったことを今してもらえた。
 過去の埋め合わせを、足りない親の責任を、誰かが身代わりとなって取ってくれた。
 ならば、もう過去は埋まった。足りない過去は、もう満たされた。

 だから諦めなくてはならない。


 僕は「可哀想な子」であったので、人様の家で食事をもらうことがあった。
 しかし、うちの母は僕と同じような子に対して、同じようにしてあげない。
 うちよりももっと厳しい状況にいる子がいたら、うちの母は助けるべきである。
 なぜならば、自分の子は外に出て他人の親にしてもらえているからである。
 子供がしてもらえたら、親が同じように他の家の子にしてあげる。それが平等である。
 しかし親が「他の家でしてもらってこい」と言ったからしてもらえたわけではない。
 子供が自らの意思で、人様の前で惨めさを誇示したお陰で優しい人が恵んでくれたのである。
 借金を肩代わりしてくれたようなものなのだ。
 ならば親を許さなくてはならない。

 他人様にしていただいて、まだ親が完璧ではなかったことを恨むならば、他人様の命を犠牲にして平然として生きるようなものである。
 「既にしてもらった」ことになったのだから、もう諦めなくてはならない。
 可哀想な子も、代わりに何かをしてもらえたならば、もう可哀想な子ではない。

 本物の親のみならず、親の話を聞いた様々な人に親の足りない部分を肩代わりしてもらえたのだ。
 普通の親でも完璧に子供が満たされることなどできない。
 人様の力を無駄にしないためには、してもらったことを無駄にしないよう諦めて前を向くことである。
 そうしなくては、自分の親の至らなさの埋め合わせをしてくれた他人の力が無駄になってしまう。
 そんな人間は、たとえ親が何をしてくれようがいつまでもあら捜しをして親を虐待するであろう。


 「ここからはもう自分でやらなくてはならない」
 というラインがある。保護者なしで外に出るようになった時である。
 つまり、小学生である。
 大きなことは自分で選べない。
 だが、学校の中でどんな子供として生きるかは自分の自由である。
 自分の過去を利用して他人に何かをさせるか、他人とおなじ場にいられる平等を幸いに思い、自分の力で何かをしていくか
 好きにしてきたのである。全員が。

 事実、小学校に入ればもう自分の口を使い、自分の頭で考え、選んでいるのだ。
 それを人のせいにはできない。
 なんとかして人のせいにしたところで、事実が変わったわけではない。
 親が無理やり自分の代わりに口を動かしているわけではない。
 自分の意思で動かしているのである。
 責任を持つのが怖くて意思決定をせずに動いたとしても、それは親の物まねでしかないのだからやはり自分の責任である。


 僕は時に、知らない男の責任を肩代わりした。
 自分の恋人や伴侶が酷い人だから、という理由で、過去に他の男がしてくれなかったという至らなさの責任を求められることがある。
 「どんなに辛いか!ひどい目に遭ったか!」を訴えるべき相手は、その状況に陥らせた人である。
 僕がそんな目に遭わせたわけではない。だから僕の責任ではない。
 「この人が不幸な目に遭わせた」と思っているならば、僕に責任を求めてくるのもわかる。
 だが、その人は最初からそんなことを言っている人なのだ。
 責任の求めどころが間違っている人は、人の区別がついていないのである。
 ほかの男がしたことは、こっちの男が責任を取る。
 と思っているのは、その人にとって男の区別はないからである。一体化しているような認識で、あっちでしてもらえなくても別の男にしてもらえれば同じことだと思うのだ。
 僕は、他の家で良くしていただいたことで親を諦めることができた。許すことができた。
 だから、僕が責任を取って知らない男の身代わりをしてあげれば、その男のことを許すことができると思っていた。
 だが、その人が気に入らないのは「自分の恋人や伴侶が別人に変わらないこと」なのである。
 おかしなことをしているとわからないくらい、人の個別化ができていないのだ。
 こっちの人に何をしてもらっても、あっちの人が変わるわけがない。

 だが、「不満がある」というその人に執着していて、どうしてもその人でなくては嫌なのだ。
 だから他で優しくしてもらいながら、嫌いな人が変わる日を期待しているのだ。
 ほかの人が何をしてくれても、「執着している人」が許せないのだ。
 余程期待してしまったのだ。どうしてもその人でなくては嫌なのだ。

 他人でありながら、そこまで赤の他人に執着できるものかと思えるほど、赤の他人に執着している人がいる。
 あの人がこんなひどいことをした、こんなこともしてくれなかった。
 「でもあなたならしてくれる」という期待を持たれるので、どこかにいる誰かがそれで救われるのだろうと思って慰めることはある。
 「余程好きだった」という事実は変わらない。
 期待して期待して、どうしようもなく執着しているからこそ、無かったものが諦められないのだ。
 最初から期待などしていなかったら、そんなに執着しない。
 子供の好きは執着である。だから「好きだった」と言ってしまっていいだろう。


 大人の好きは、選んだということである。個別化している。
 自分特有のという意味だ。
 他人から見てどうかは知らない。関係ない。自分が選んだ。

 他人の真似をして生きている人は、自分がどうなのかがわからない。自覚できない。
 人の区別もつかない。
 あっちの人がしてくれない分、こっちの人に事情を話してしてほしいことをしてもらったとする。
 この場合、どちらとも良い関係になどなっていない、ということがわからない。


 自分がわからなくなってしまう人は、他人の真似をして生きている。
 思ってもいない、思えもしないことでも、自分より優れた人が「こうである」と本当に正しい理屈を述べていれば「自分もそう思えている」というふりをする。
 言葉だけ真似しているのだ。気持ちは同じではない。

 「自分の招いた結果だからしょうがない」

 という言葉を同じように口から出す人がいても、心からそう思って諦めている人は過去に憂いなどない。不満もない。今に満足していて、既に幸せである。
 しかし、本当は不満なのに「どうせこんな結果しかないんだ」と卑屈になっているだけの場合は、同じ言葉を言っていても他人を恨んでいる。

 同じ言葉を言っていても、中身が違う。
 自分と他人の区別がつく人は、「自分はそんな風に思えない」と自覚できる。
 確かにそれが理想だと思っても、自分はそんな風に思えない。思えていない。
 「確かにそうだ」と納得できることも、自分自身はできていないことは沢山ある。
 それが自覚できるから、「なぜそんな風に思えるのだろうか?」と考えていける。
 「なぜ自分はそんな風に思えないのだろうか?」と自分を探求していける。
 そして原因に気づき、自分の意思で決断していく。

 自分自身が「確かにそれが正しい」と思うことをできていない、考えたことはないが、できていない。

 意識して行動していないのだから、できていようがいまいが、今までなどどうでもいいことだ。
 意識してやりだしてからが自分の決めて動かす部分なのだから。
 無意識的になんとなくそうなっていた部分は、前世の部分、つまり親の真似の部分である。
 「確かにそれが正しい」と思えることをなぜかしていないならば、自分が正しいと思えることをしていない親だったのだろう。
 ならば、自分が改善していけばいい。
 そのようにして、少しずつ親を超えていくのだ。


 小さなことからコツコツと。人格も同じことだ。
 成長は少しずつだ。
 「自分は最初から完璧だ!」と威張りたい人は、親のせいにしながらも親と同じことをして、結局はまるっきり同じ人格になっていく。
 そして、それを変えられない人は親がどうして変わらないのかもわかるだろう。

 生きてみれば、自分が求めていたことを自分がやることは、難しいだろう。
 怒りや憎しみを乗り越えて、自分だけが苦労しているという気持ちから脱するのは難しいだろう。
 親に文句を言っても、やってみればそれが難しいことがわかるだろう。
 求めていたことを自分もできないだろう。


 親を超えた人にしか、幸せはやってこない。
 自分の意思で生きた人間にしか、満足はない。


 幸福になれた人は、それなりのリスクを背負い、真似をして生きる人が乗り越えられない精神的恐怖を乗り越えてきた。
 それは必死で努力した人が何かの技術を身に着けるのと同じようなもので、勇気を出した人だけが得られるものなのだ。
 勇気を出して信じる以外に、道はない。ということもあるのだ。
 そんなことをしなくても、誰か優しい人がいて甘やかしてくれれば…と勘違いしている人がいる。
 たとえ優しい人が甘くしてくれたところで、人に感謝できる人格を備えられないのだから、いくらしてもらっても満足などしないのだ。

 自分自身に問題があるのだ、とわからないならば、何をしてもらっても、誰に出会っても、幸福にはならない。

 釈迦族の皇子であったゴータマ・シッダールタが、王の座を約束され至れり尽くせりの環境を用意してもらえたにも関わらず、生きることに悩んで出家して、なにもかも捨てることで悟りを得たように、幸福とは物や金や地位や、他人に与えられた何かで決まるものではないのだ。

 幸福、とは「幸福感」を得ることである。
 お金=幸福 なのか
 地位=幸福 なのか
 そんな風に「幸福」を何かに置き換えることなどできないのだ。

 本人が幸福感を感じられるならば、それがその人にとっての幸福なのだ。