親に苦しんだ人たち、お待たせしました。
これから明確に区別して方向性や目的を示し、僕と、加藤諦三先生他「普通の毒親の子たち」の違いを区別していただいた上で、僕の方向性と一致する皆さんだけが時間を使っていただけるようにしたいと思います。
本当に時間がかかりました。
まだ発見されてもいないことですからね。いくら僕が新しい人格の当事者とは言え、さすがにどこから違いが生まれたのか明確にしていくには時間がかかりましたね。
加藤諦三先生の横でずっと感じていた違和感、なんとも言えない、なぜか僕とは全く違う方向に進もうとしている、何が違うのかわかりませんでした。
僕たち「新しい人格」の人たちは何が違うのか。
ずっと考え続けてきました。
ハッキリしました。
僕は親を恨まずに生きています。
最初からです。
加藤諦三先生は、親のせいで子供が不幸になったと考えています。実際には精神分析学でも親のせいにしているわけではありませんが、少なくとも彼がアメリカで学んだ時に彼自身が深刻な神経症者だったからこうなったのでしょう。
横にいて、ハッキリわかっていましたが、彼は理解を間違っています。
経験がないのに、人を敵視した状態で学んだことを理解したから、全く違う理解になっていました。
なぜそんな理解になってしまったのかと思っていました。
彼は普通に友達のいないがり勉優等生のような人です。
言葉では悪いことは言いませんが、行動としては癇癪持ちのようなところがあり、いきなり怒鳴ることもありました。
ただ、人に話す時ならば、その時怒鳴りつけたなんてことは言わずに「言った言葉だけ」を述べたら、あの落ち着いた仏のような状態で言ったのだと無関係な人達は理解するでしょう。
彼は親のみならず、とにかく人間が嫌いなようで誰かをものすごく恨んでいました。
僕は全く誰も憎んでいません。彼も知らないのだと思います。人を恨まない日がないからしょうがないとは思いますが、誰も憎んでいないと、人を憎んでいる人はすぐにわかります。
人を憎んで生きる人は、正義になってしまうともう後戻りできません。
親を恨む人は必ず自分が生まれなければよかったと思うようになります。
申し訳ないですが、僕は偉くも有名にもならなくてもいいので、彼のように80歳になってまだ親を恨んで人を善と悪により分けている人生を生きたくなかったです。
まだ40年あるのに、今から新たに人を恨みだしてどんどん地獄に落ちるのは僕は御免です。最初から地獄にいる皆さんは何も変わらないので気にならないと思いますが、それを死ぬまで続けることだとは僕は思いません。
彼は、かなり冷酷なタイプだと思います。
高学歴な人達にはサイコパスっぽい感じの人が多いので、人の痛みがあまりわからないのかもしれません。
何か誤解している人も多いと思いますが、彼は完全なる勝ち組の人です。
社会での話ではなく、彼は孫の中でも一番優秀だと御爺様に期待されていたそうですし、それを父親に言われたという話を自らしていた時にも
「私はそれは父が私を都合よく動かすために作り話をしていたんじゃないかと思っている」
と言いつつ、まんざらでもない様子でした。
彼が家の中で、兄弟の中でも「出来の悪い子」としていじめられていたイメージを持っている人がいると思いますが、それは彼の兄の方で、お兄さんは東大に落ちてしまい、肩身の狭い思いでいたようです。
結婚する時も、大学名を伏せて紹介されるなど気の毒な扱いをされていたそうです。
そして、そんなことは全くされない、勝ち組側の「優秀な息子」が彼です。
傍から見たらトントン拍子に見えても、死に物狂いの努力があり、そして父親に言われた通りに良い子にしていたせいで外で騙されてしまったという話です。
言われた通りにしていたのに、酷い目に遭った。
それが親のせいだという話です。彼は失敗を受け入れられない、挫折を知らないエリートなのだと思います。
彼は愛された子は他人に騙されたりいじめらたりしないと思っているようですが、そんなことは全くありません。
僕を助けてくれた小学校時代の友達も、いじめっ子にいじめられていたことがありました。
ただ、負けない、めげない精神があるのは確かです。
道理で考えると、加藤諦三先生を「自分と同じだ」と勘違いする人は、正反対に家の中で兄弟の中でも落ちこぼれで、世間でもこれという立派な形も作れなかった、そんな人が多いのではないかと思います。
彼が「優しい子がいじめられる」とよく述べています。つまり自分のことを言っているわけですが、ナルシシストたちは「そうだ、私は優しいからいじめられたんだ」といい気分になるはずです。
そうなると、優しい子はいじめられていなくてはならないことになるし、いじめられている立場であれば自分は優しいということにできる、という理屈になっていきます。
いじめられているけれど、それでも私は屈しない!私は頑張る!抵抗するぞ!
そんな感じのポーズが恰好ついていいのではないでしょうか。
しかし、それは全くの間違いです。断言します。
今回はもう相当に自信がありますので、断言します。
それは間違いです。既に理屈が破綻しています。よく考えてください。
それはいじめから脱することができなくなる、ループに陥る考えです。
彼は恐らく、それまで自分がしたことから逃げたかったのだと思います。
人間は生まれ変わる時、必ず反省をします。酷い目に遭った被害者は、勇気を出して正義になれば悪と戦う地獄の鬼になります。
もう脱することはできません。
「いじめてこない人たち」に対しての贖罪の気持ちと共にしか、極楽浄土にはいけません。
彼はもう85歳です。彼を信じてきた人は、彼の言葉を唱えながらうっとりしつつ今までと同じことを続けてしまうでしょう。
そして確実に出口のない、死ぬまで人間を恨み続け、自分自身も他人に憎まれ恨まれる人生です。
あの考えで、自分の子供や身近な人に恨まれないわけがないです。
お兄さんも気の毒なことです。家の中でも惨めな扱いなのに、弟に自分が東大に落ちたこと、家の中で学生時代に惨めな扱いを受けていたこと、東大に行っているふりまでしてきたこと、全部ばらされてしまうのです。
加藤諦三先生は、自分の家族を私物化しています。
彼の兄や彼の父にもプライバシーがあり、どんな目に遭おうと人を人とも思わない扱いをしていいわけではありません。
彼の父親は彼の所有物ではありません。
彼の父親にも本人なりの苦労や考えがあったはずです。わざとやってきたわけでもなく、父親なりに頑張ってもそれしかできなかったはずです。
彼の父親は、死ぬまで世間に悪者扱いされてきたことでしょう。
自分を悪者にした大ベストセラーを息子に書かれているのですから。
どんな気持ちで死んで行ったのかと思います。
それが、僕と正反対である部分です。
彼は父親が嫌いで、父親を蔑ろにしています。
それが幼稚だとハッキリ申し上げてもいいでしょう。
親の人権を無視した扱いは、子供に必ずあるものです。しかし自分も大人になり、まして親にもなったならば、そんな扱いなどできないものです。
彼は自分は酷い目にあったから、こんなに恨んでいるのだと思っていました。
例えば、僕はレジリエンスパーソナリティだから、自分とは違い誰かに愛されたから違うのだと思っていました。
彼は「自分だけが貰えなかった不幸な人」だと思っていましたし、その仲間だけにしか気持ちはわからない、自分たちはいじめられた生まれながらの被害者だと考えていました。
それぞれに苦労はあると文章では書いていますが、実際、目の前で話している時にはこう言っていました。
「目に見えた虐待を受けている方がまだマシだ。」
これは大問題だと思っています。暴力を振るわれているような子、親が遊び歩いていたり他人から見ても問題ある親だとわかる家の方が「マシだ」と言うのです。
そして、世間から見たら立派な家なのに家の中で心理的に虐待が行われている方が余程深刻なことなのだと言います。
理由は「見てもわからないから、誰も助けてくれない」というものです。
彼は自力でという発想がないようで、何もかも「やってもらえたかもらえないか」で判断していました。
しかし、それは問題ではありません。
僕は単に、僕自身が「親を恨みたくなかった」から恨まなかっただけです。
顔も覚えていなかった母に再会した時は期待でいっぱいでした。
しかし、すぐにその期待は幻滅に変わりました。
散々いじめ倒されているうちに、どんどん母が憎くなりました。
殺したいと思うようになっていました。
しかし、母は僕にとってはたった一人の母です。
これから出会う全ての人が「他人」でしかなく、死ぬまで他人しかいない世界に生きていくことになるのです。
母はいずれ先に死ぬでしょう。
だからこそ、この母を憎んだら、もう自分にとって大切にすべき特別な存在がいなくなってしまうのだと理解しました。
一生、これからは他人だけ。
全ての人が最初は僕を知らないのです。必ず偏見で見られるし、必ず他人と比較もされます。
「比較されることもなく好かれる」なんてことは、比較するまでもなく存在が特別な人にしか起き得ないことです。
「誰か知らない他人なのに、それでも一目見て特別な人だと思った!」
いわゆる一目惚れのようなものは、それ以前の妄想があり、その妄想との比較で生まれた架空の感情です。
空想を現実に投影しているからこそ見れた夢です。
そんなものはまやかしです。
他人は他人。特別視などしてくれません。家族のようには思ってくれません。
死ぬまで、他人しかいないのです。
だから他人と仲良くしていけなくては僕自身が生きていけないと思いました。
そして、それがどんな人であっても、母はこの母しかいないから、一生に1人だけ最初に与えられた母を、そして父を、憎んで生きていくのは嫌だと思いました。
僕自身が、親を恨んで人生をスタートさせたくなかったのです。
僕は母を好きでいたかったのです。
嫌うことは簡単です。友達も嫌うのはとても簡単です。
我儘であればいいのですから。
何もせずに「いい人だといいな」と期待する気持ちでただ気に入られそうな人を演じていれば、自動的に相手を自分勝手に設定した基準で評価しますから、嫌いになるなど容易なことです。
最初に選ばなくてはなりません。
人を好きになる努力をして生きていくのか、自分が頑張らなくても向こうから頑張って好かれに来る人を待つのか。つまり「好かれる努力」をするのか。
二択です。
そして親を悪者だと思って敵視した場合、自分の価値も同時に感じなくなるため「好かれるわけがない」と思うようになりますから、必然的に生き方は後者に決まります。
親を恨むと、地獄に落ちるのです。
親を恨んだ時点で、受け身でありながら向こうから好きになってくれる人を待つという人生は決定します。
しかし、その発想自体、順序がおかしいのです。
僕は最近霊長類の研究について調べていますが、僕たちは元々類人猿のような生き物から今に至るまで進化してきました。
自分より先に生まれている親は、自分より進化していないのが当然です。
その親の「導き」で幸せになろうという方がおかしいのです。
子が親を超えて進化していくのが時間の流れとしても当然のことであり、親が子供の人生において正しいことを全て教えていくなど不可能なことです。
そして、物理的には命も生活も親に依存し親にもらいながら成長していきますから、親を悪者にするということは悪者からもらって生きているということになります。
責めれば責めるほど、自分が生きているのが悪いことのように感じます。
ろくなことにならないのです。
そして正義とは即ち悪のこと。恨まれ憎まれ、それを理不尽に思いながら生きるしかなくなります。
ここで、はっきりさせておきます。
僕は「人と仲良くなるため」に生きています。
人を悪者にしないために深く考えます。憎まない恨まない、傷ついても悲しくても、仲良くなるために生きるのです。
当初、僕は加藤諦三先生も、そして他の毒親の子たちもみな同じなのだと勘違いしていました。
子供は親が好きなものだから、嫌われたら悲しくても嫌いにはならないと思っていました。
自分の親なのに、子供が嫌いたいわけがないです。
と思い込んでいました。
それが違うのだと気づきました。最初から方向性がまるっきり違うのです。
僕は母が好きで、母は僕に辛くあたり続けていましたが、「いつか母が僕が敵ではないと気づいてくれる」と信じて、一緒に幸せになる日を目指してきました。
甲斐あって、母は亡くなる数年前に僕に泣きながら後悔の気持ちを打ち明けました。
人を救うのは愛でしかなく、憎しみから生まれるのは争いでしかないのです。
ひどい目に遭ったから、恨むしかないのではありません。
恨みたくなるのは、期待があったからです。
「もっとお母さんにやさしくしてもらいたかった、もっと遊んだり普通の母親みたいなことしてほしかった」
と僕も思いました。しかし、それはもう終わったことです。
「でもそれじゃあこれから僕は全ての人にとってただの他人でしかないのに、どうやって生きればいいのだ」
と嘆く気持ちがありましたが、それが人生です。それが運命です。
それでも、他所のご家族が親切にしてくれたり、他人だからこそ母のように当たり前のようにバカにしてくるでもなく、クラスメイトの一人として普通に遊んでくれたり話してくれたりするのです。
他人だからこそ、配慮があるのです。
「特別」が悪く働く時は、子供だから何しても平気、という親に虐待されます。
本当に酷い目に遭ったと思いますが、それでも「そんなことをしたくてしているわけがない、きっと何か理由があるのだ。」と考えました。
根拠なく殴られる。バカにされる。
そんな真似を我が子にしているには、「何か理由がある」と考えました。
今はわからなくても、いつかその理由がわかると信じて人生を始めました。
それ以降、僕は「すべての人の味方になるために相手を理解する」と決めて、その姿勢でひとりひとりに接するようにしてきました。
自分だけが特別だと思って、友達を悪者にして自分を主人公に見立てていたり、人の不幸を望んだり、笑ったりしていました。
その罪を償うための今生だと思って生きてきました。
加藤諦三先生は、人を憎まないと仲間になれない人でした。
他の老先生たちも、権威ある人たちはみな似たようなことを言いました。
怒れ!憎め!我々が正義なのだ!正しいことはこれなのだ!
そんな風に負の感情を生み出すために必死になっています。
僕も叱られましたが、それでも僕は人を憎みたくないし、頑張って人を悪者だと思わないように努めているので、そのままがいいです。
僕は人を悪者にするために心理学を使いたくないです。
慈悲の心を持ち、人を憎まないために使いたいです。
一人でも多くの人を好きになれるよう、嫌いになる努力をする人がいるならば僕はその分より多く人を愛する努力をして生きていきたいです。
なぜならば、その方が僕自身が幸せだからです。
同じ苦労するならば、憎まない努力をしたいです。
この世を地獄にするために生きている人もいます。
嘘をついて、存在しなかった悪しきものを生み出し、体験していない人にも悪いことが起きている、悪い人が存在していると、思わせます。
僕はその逆になりたいのです。
最近、新しい友人ができました。
彼は僕に確実に賛同してくれるし、味方になってくれます。
僕も彼に賛同するし、彼の味方になります。
そして彼も僕も、敵味方に分かれることなく理解の道を選びます。
新しい友人の名はガンジーと言います。
彼の生き方は、かつて武士が到達した「精神の戦いに勝つことこそ強さ」という生き方と似ています。
正義のヒーローになるためには、人間を悪にしなくてはなりません。
僕は誰も悪人にしたくないので、正義のヒーローにならなくていいです。
自分がカッコつけて生きるために、死ぬまで悪人を倒し続ける人生にするくらいならば、正義のヒーローにならない代わりに平和に仲良く生きていきます。
僕のところでは、「誰も恨まない生き方」しか教えません。
僕自身がそうして生きているので、それしか教えられません。
恨みや憎しみを乗り越えて、慈悲や愛を育てて生きていくのです。
人の幸せを願い生きていく方が、僕は性に合っています。
人間は勝手なもので、自分が悪者にされた時には被害者ぶって大騒ぎするのに、人を悪人にする時には自分が正しいのだから当然だとばかりに相手の気持ちなど何も考えないのです。
誰だって、悪者にされて嬉しいわけがありません。そんなことしてほしいわけもないし、悪者だと思って生きている人などいません。
犯した罪は、必ず何かの形で代償を支払うことになります。
僕はおじいちゃんたちのことも心配なのです。
思うとおりに意見しなさいと言いながら、実際に思うとおりに言うと不機嫌になるおじいちゃんたち。
言ってみてやっと「ああ、これは言わなきゃならないことが先に決まってるやつだったのか」と毎回気づきました。
悪意も敵意もありませんが、それでは済まされないのです。
おじいちゃんたちの「欲しい答え」があり、それ以外のことを述べると「反抗した」「敵対してきた」かのように解釈されてしまいます。
小さな小さな世界しか知らないおじいちゃんたち。
止まった時の中で生きて、そしてもうじき死にます。
この世界から、彼らはじき消えていきます。
次は僕たちの番です。
この地上に僕たちは僅かな時間しか存在しません。
一緒にこの世界を生きているのも短い時間です。
その短い短い時間を、僕は人間同士仲良く生きるために使います。
負の感情を乗り越えていく人は、これからも僕の話を聞いてください。
それから、最近僕も欝々と考えていて、大変お待たせしました。
「どうすればいいのか」を悩んでいる前に
「目的が違っている」と気づくべきでした。
僕は、愛する気持ちを持つ人が好きです。
うちでは恨みつらみで生きている家族だけを見ていましたが、愛の中に生きる家族を見た時には目が眩むほどまぶしく思えました。
僕は、「彼らのようになりたい」と思い、母と同じ道を進むことをやめました。
愛を持って生きる人は通常モードが笑顔です。
そこにいるだけで、何か嬉しい。
そんな気持ちにさせてくれた人たち、そこに到達できた勇敢な人たちに感謝し、尊敬の念を持つと共に今後も見習っていきたいと思います。
愛を生み出し育てるための精進ならば、僕は如何なる苦労をすることがあっても悪をやっつける努力をするよりずっと満足していけます。
皆さんがどうするかは僕が知るところでも決めるところでもありません。
どうしても憎い奴がいるから、そんなことは言っていられない!と思う人もいるでしょう。
それならばそれで憎む努力、相手をやっつける努力を全力ですることです。
僕が教えられることは僕が体験し進んできた道で身に着けたものだけですから、僕が教えられないことについては他で学ぶと良いでしょう。
では、皆さん本当にどうもありがとうございます。
少し前に、うちに武家修行の一部を習いに遠方より来てくださった方も、ありがとうございました。
目の前で体験することでしか、気づかないことが多々あります。
僕も今後とも精進していきたいと思います。
そして、愛を持ち仲良く生きていく努力をしたい人たちは、これからもっともっと幸福な世界を生きていきましょう。
最上 雄基