僕の一番の誤算はこれしかない。
「親に愛されていない」という事実が、僕にとっては重大なことで、その事実は一生を左右するほどの一大事だった。
だからこそ、僕は親を信じて生きてきたし、最終的には親に感謝することもできた。
親に愛されなかった。
それを簡単に受け入れて、ただ嘆いて「他にいいことないかなー」なんて諦めて生きる気になれなかったからだ。
ところが
殆どの人は違った。親に愛されなかったことを受け入れ、ただ恨み憎しみを持って生きていた。
憎いだけ。
その事実の方に僕は絶望した。
親に愛されていないという事実は、そんなに軽いものだったのか。
親に捨てられたとか、母に虐げられているとか、それを重大に思えたのは僕が愛情に飢えすぎていたからなのだろうか。
僕はてっきり、自分と同じように親に愛されていない事実を到底受け入れられない人たちが苦しんでいるのだと思っていたから、少なくとも子供の方は親が好きなのだと思っていたから、親を信じて生きる道を示していけばいいと思っていた。
そんなことはなかった。
そんなものは必要なかった。
多くの人が必要としているものは、許せない親を見返すために、自分が如何に偉大な存在なのか見せつける手段だった。
親は自分の子がただの自分の子だと思っている。
ところが子供の方は違った。
親の子ではなく、特別な存在が生まれてきたのだと、親とは関係のない人類にとって特別な存在なのだと思っている。
親と同じ人間ではなく、自分だけが特別なのだと。
傲慢もここに極まれりといった感じだが、そんな人に僕がしてきたことが必要なわけがない。
僕は母の子として生まれ、そして生きてきた。
母の子なのだということは子供の頃に自覚したし、自分は特別でもなんでもないただの人間だとわかっていた。
特別な存在でありたいという願望はあったが、事実違うから違うとわかっていた。
だからこそ、母に愛されていないことは重大な事実だと考えたし、「そんなわけがない」と信じる道を選んだ。
何を信じるかなど、人の自由だ。
信じているもの自体を「変えろ」とは言えない。本人が信じる道を行くのは当然だから。
どんな道を信じて生きるも本人の自由。
どんな道を行くか決めるのは本人でしかない。
「決める」なんて頭の中で行うことは、本人にしかできない。
だから、僕にできることはないと最近は思えてきたのだ。