殆どの人は母親なんてどうでもよかった ~無料記事~

 親も人の子、人間だ。

 理由は当り前にある。愛されるとか愛されないとか、そんな事態ではないから、そうなっていただけだ。

 だが、そんな「人間らしい理由」など特別な存在たる子供は知りたくもないし、知ったところで許せないのだ。

 どんな理由があったとしても、「普通だったら」の通りでなかった、自分が犠牲を払ったのに期待したものが返ってこなかったという「罪」は許せないのだ。

 何ももらえないならば、何もする気がないのだ。

 何かしてやったら、戻ってくる。それが公平だと思っているのだ。

 そこに「意思」はない。

 取引だと思っているからだ。

 そして、愛される存在は「一方的にもらい続けるものだ」と思っているのだ。

 もらい続けるために、特別な存在であり続けるために、無償の愛を持つことなく、人を思いやることもなく、常に「人間全て」を見下して生きているのだ。

 親に愛されない、と思った出来事が、ただ許せないだけの人たち。

 この世は天国ではないのだから、自分の力ではどうにもならないことがあるということが、許せない。

 自分は許されても、他人に許すことはできない。

 どんな社会であっても、立場であっても、理由があっても、気持ちがあっても、許せない。

 完璧主義。

 生きた人間の世界を、理屈の通りに動かしたいロボット世界を理想としているのだ。

 完全機能社会。全てが予測可能で、決まった通りに動く、それも「自分が思った通りに動く」世界がいいのだ。

 ここまで人の情が湧かず、母に対する気持ちもないまま生きていく人が多数派であると僕は想像もしていなかった。

 大誤算だ。

 恨んで生きる道を既に選んでいるから、恨み憎しみを肯定し、復讐の道を進ませる救い主が必要となっているのだ。

 親を信じ、人を信じるなど、この現代日本においては全く需要のないものだったのだと、僕は思い知った。

 何を言うもやるも、必要ないと思った。

 要は「僕は僕の自由に、反対の道を進む他人に構うことなく生きていけ」というお告げなのだろう。

 僕は両親がいない時期を過ごしたから、母に再会した時、「母親」という存在そのものに強い特別感を感じていた。

 普通の人は、そこまで母親に特別感を持たないものなのだろうか。

 もしそうならば、僕はやはりそうなるべくして生まれてきたのだろうと思っている。

 人はそれぞれ違うから、僕と同じでなくてもおかしくはない。

 「母親」をそこまで特別に感じている僕の方が、特別なのかもしれない。