勘違いしてはいけないことがある。
まずは自分のことを理解する。
次に、他人や状況への対処法を身に着ける。
これだけでいいのだということだ。
自分とは異なる人格について「同じように理解」はできない。
気持ちを理解することは「不可能」だ。
自分自身については理解可能だが、他人については理解不能だ。
「このような人もいるのだ」と知ったら、自分自身はそれに対してどう対応するのか理解すればいいのだ。
自分のことだけしか動かせない。
他人を変えることはできない。
他人を理解するためには、他人になってみる必要がある。
しかし、「自分もなりたくない他人」の気持ちを理解などしようとしなくていい。そんなことを考えていると、いちいちもめ事にしかならない。
故に、自分は自分について理解するのだ。
そして「この自分」が可能な対処、を学ぶのだ。
それしか自分にできることはないのだ。
自分自身の改善は自分にしかできないことだ。
他人に助けてもらって自分の人格が変わったら驚きだ。
そんなことはあり得ない。
他人になんとかしてもらおうとしがみつく人がいるならば、その人は放っておくのだ。
自分自身がしがみつかれないように、自分を知り改善していくしかない。
自分自身の弱点や欠点をよく理解して、「この人ならわかってくれる」と人に依存して誰かと一体化しなくては生きていけない人にも、うまく対処して状況を乗り切っていくのだ。
人生では数えきれないほどの人に出会う。
今まで出会った人の数をみな覚えてもいないだろう。
その中の一人にすぎないのだから、相手が何を言ってもしても、自分自身のことと、自分自身の人生について考えるのだ。
今後の人生のために、より良い生き方を考えていくのだ。
実際、僕も理解不能な人が多い。
僕がしたことも思いつきもしないことをする人のことは、なったことがないのでわからない。ただ知るだけなのだ。
似たような人格に出会えば、共感もできる。
だが、どんな理由があっても自分自身がやらないことをする人のことは理解できない。
そしてする必要もないのだ。
その人のことは、その人自身と、その人に似たような人が理解すればいいのだ。
理屈の上では理解できるし知ることもできるが、感情的には理解できない。それが自分と反比例した人格の人なのだ。
故に、どんなに気に入らなくても親だけは自分が外で挫折したような時は、気持ちを理解してくれるのだ。
自分も同じだったから。
二の舞になりたくないならば、立ち上がっていけばよい。