自分を理由に何かしてもらう、つまり吸い取る相手は親だけにしておくこと。
そうしないと、一緒に生きていく人間がいなくなってしまう。
自分のために誰かを利用するならば、相手の分まで価値ある存在としてこの社会に存在する義務がある。
物質的なこともだが、心理的にもである。
両方の側面から見てバランスを取らねば関係は壊れてしまう。
「自分の働きにより得たもの」だけが自分のものである。
唯物論者の人は、「金を稼いだのは俺だから、家族は俺のお陰で生きている」という考え方をしている。
金を稼ぎに出て行くために、誰が家の中で世話をしていたのか考えない。
また「家で世話してやってるんだから、金は稼いで当然だ」という妻もいる。
どちらにせよ、傲慢なのだ。
「してもらって当然」という立場になりたがる人は、自尊心が低い。感謝できないから愛情も感じない。
自分がしてもらうことに対して「そのくらいは当然だろ」と他人の思う部分を決めてしまう。
他人がどう思うべきか勝手に決めているのだから、人形と一緒に生きていればいいのである。
「他人が思うことまで一人で決める」のだから、他人が存在しなくていいということである。
一緒にいると死にたくなるような人だが、そんな人と現実に関わらないことである。
結局は「自分に都合の良い結末」になるまでしつこくする人はどうあってもしつこくする。
思い通りにならないならいらない!と人から吸い上げられないとわかるや否や礼節も誠実さもなく人を見捨てる。
「その人が誠実かどうか」
その本性は「最後の時」に必ず現れる。
終わりよければ全て良し、という言葉があるが、終わりがダメなら全てダメである。
相手を利用するために接していない人は、最後が誠実である。
「損した!」と恨んでいないからである。
「こいつに得させてもらおう」と考えているから、「損した!」という考えに至るのだ。
人を尊重しない人は最初からしていないし、最後までしない。
自分を尊重していない人は、人を利用しようとする。
だから最初から最後まで善き関係など作れない。
「思い通りにしてくれなくなった」となるや、媚びるか責めるかあの手この手で人を操作しようとする。
もし、人を操作しようとする、とでも言われたら「これは操作とかそういうのじゃなくて」と、また今の考えを変えるために操作するための言葉を吐く。
結局は、本人自身が「自分が何をしているのか」に気づかない限り、何も変わらないのだ。
本人を変えられるのは本人だけなのに、本人が自分のしていることに気づかない。
自分で理屈を唱える度に自分を騙しているのだ。
「これは操作とかそういうのじゃなくて」
これは、今言っている通りに相手に思えということだ。
「これは操作とかそういうのじゃないんだ」
と相手の脳内で思ってもらいたい。当然それは「相手の側から発生する」から相手の考えになるのだが、「相手の脳内に自分の思考を埋め込む」という行いである。
先日、「許せない体験」でハンドルネームだいすけさんの投稿を紹介した。
「全部お前が悪い!」
と母親に責められて
「自分が全部悪いんだ」
と彼は思った。これが洗脳である。
本人が思ったわけではない。母親が「そう思って欲しいこと」を述べたのだ。
彼がもやもやしてしまうのは、自分が本当に思ったことではないことを「思っていることにしている」からである。
「自分が全部悪いんだ」
とは全く思っていない。別に悪いこともしていない。
そんな時は、改めて考えてみることである。
自分を離れ、「この家族が他人の家族だったならば…」と想像してみることである。
外から他人の家族を見ている視点で、同じことが起きていたら「この子が全部悪い」と自分は思うだろうか?と考えてみることである。
そして、自分のことだけは自分はわかるが、他人のことがわかっているかどうかも考えてみることである。
正当な目線で見るためには、「自分の情報だけやたら多い」ではダメだ。
考えてみれば「相手の側の情報」は自分のことのようには知らないはずである。
そんな時は、「立場」を考える。全員が同じ立場ではない。
人間と人間。これしか存在しないわけではない。
親子である。という視点で考えるのだ。誰に聞く必要はない。
「自分だったら」と本当に自分が正当な目を持つ神様のように考えるのである。
自分の行いが不当である場合、大抵は認めがたいものである。
そして相手を悪者にして乗り越えるために、更なる不当な行為を繰り返すのだ。
その後は不当な行為が正当である、「ということにするため」により嘘をついて生きていくことになるのだ。
なんとしてでも、自分が不当であったことを正当化していかねばならないのだから、今後一生をかけて不当なことをした相手だけは見下し、バカにし続け、言いがかりを広め続け、そしてそのせいで不幸になったことにし続けなくてはならない。
一応書いておくが、一生涯である。
そしてそれが本当であったことにするための人生を送るのである。
つまり、死ぬまでもう本当にやりたいことはできないし、本当の感情も持つことができないのだ。
「自分はひとつも悪いことなどしていない、常に被害者で常に優しい人で常に正しい人で常に人徳ある人間であった」
守りたいのはそれである。肥大化した自我イメージである。
常に正しい良い人のつもりなのだ。
だからこそ
「善人尚もって往生す、悪人をやいわんや」
なのだ。
この場合の善人とは、自らを善人だと言い張っている人のことである。
自分が悪いのだ、と思っている人が「悪人」である。
「善人であっても極楽浄土に往生することができるのに、悪人なら猶更のことだ」という意味である。
言葉の意味を違う意味に捉えれば「え?悪人なら猶更っておかしくない?」と思ってしまうだろう。
親鸞聖人の教えである。
人間は傲慢で、最初は「自分は善人だ!何も悪くない!」と思い込んでいる。
その状態で極楽浄土を目指しているのが地獄に落ちている人である。
人のせいにして、他人を悪者にして、生きている善人である。
何も悪くないのだから自分は幸せになって当然だ!自分は被害者だ!と決め込んでいる「善人」である。
反して「自分が悪かったのだ」と思う人は、悪人である。
悪人となって生きてきた人は、生きるベースが「自分が悪いのだから」である。
だからやらなくてもいいことをやる。当たり前のように「善人」に尽くして生きていく。
そのような悪人の方が、遥かに極楽浄土に近いのである。
悪人は悪人で、悪人として認められて幸せになろうとする。それが間違っている。
「自分は悪人ではない、悪人だと決めつけて人を善人扱いするから、悪事を行ってしまったのだ」
と認めることで、極楽浄土に近づくのだ。
要は、「卑屈になってきた」という罪である。
卑屈になるためには、誰かを「善人」にしなくてはならないのである。
何も悪くない、お前のせいだ!お前がなんとかしろ!
そんな姿勢で生きている人だと相手を決めつける。それが「卑屈になる」という行いである。
故に、「善人」でなかった人は、去っていく。
「悪人」と一緒にいても幸せにはなれない。
「善人」が完全に見下してきた人たちに対して「自分の方が悪かったのだ」と認めるのは至難の業である。
「悪人」が卑下していた自分を「自分は悪くなかったのだ」と認める方が遥かに楽である。
しかし、悪人が今までの自分のままで幸せになろう、と「恨みを捨てない」時は、「善人が責めるため操作するために使った尺度」を用いて、いつまでも「自分は駄目なのだ」という結論を捨てようとしない。
誰が正しくて誰が悪い人か
これを「自分如きが決めようとしている」ことこそ、傲慢なのだ。
一度、ゼロにして考え直していくのだ。
そこから「本物の自己創造」が始まる。
他人に認められたがっている人は、「お前が全部悪い!」を自分の考えとして「自分が全部悪いんだ」と思い込んで生きている人である。
親の洗脳から逃れるために、苦しみから解放してくれる「反対の洗脳」を行う人を求めるのである。
よって、無責任に褒めちぎったり媚びたりする人に弱いのは当然なのだ。
カルト教団にエリートがハマっていく流れである。
救いの「言葉」を求めているのであって、本物の救いは自分の中にしか存在しないのだ。
言霊は呪いである。
自分を洗脳する存在を「自分のことを本当に案じてくれる人」と「自分自身」だけにしていくことである。
