人間が怖くても怖くなくても、人に声をかけるのは勇気がいりますよね。
僕も初対面の時は緊張するし、相手の様子によっては怖いなと思うことがあります。
そんな時、引っ込んでしまうのは簡単です。
しかし、自分が委縮しているという理由で、相手を恐れたら相手が可哀想ですよね。
自分が怖がられていたら、傷つくでしょう。
誰だって自分は怖くないですからね。
他人に怖がられたら傷つきますね。疑われているわけですから。
これと言って特に争ったわけでもない、何か余程の問題を起こしたわけでもない。
現実に何か迷惑をかけてきて、断っても無理強いしたなんてことがない限り、人と接するには常に勇気が必要です。
僕が怖いと思う時は、相手だって怖いのです。
自分が安心させるために、勇気を出していくのです。
声を掛けられる時にかけなければ、一生おしまいかもしれません。
今でなくてはならないという時があります。
つい、なんとなく放置してしまった関係がありませんか。僕はあります。
きちんと礼を尽くすこともなく、なんとなく適当に離れた人が過去には何人もいます。
それまでに何かひとつでも恩があるならば、漠然とした何かが怖いなんて理由で自ら遠ざかったら失礼です。
人間を怖がっている時に、自分は人を疑っているのだと自分にショックを受けますよね。
何も悪いことをしていない人を、簡単に疑う人間になってしまっている時に自分にショックを受けますね。
相手がどうかはわからなくても、自分自身がそんな人間になってしまっていると気づいた時は自分にがっかりします。
この時しかない。今しかない。
特に何もなくとも、そう思うようにしています。
過去に失敗した体験があり、強くそう思えるようになりました。
駄目なら駄目でいいのです。
ただ、自分から勇気がなくて引っ込んでいったという過去の記憶は、死ぬまで残ります。
自分は精一杯やった、やれるだけのことはやった、という自分自身の行動が、結果を後悔にしないために大切なことです。
受け身の人は、向こうから寄ってくるものだけを受け入れようとします。
病んでいる時は、特に危険です。悪い物を引き込んでいきます。
ある人は「病んでいる時に出会った人とは付き合わない方がいい。いつもろくなことにならないので学んだ。」と言いました。
沈んでいる時には逆に勇気を出して行う行動の方がいいです。
辛い時こそ、人の身を案じるのだと思っています。
自分だけではない、と思うからです。
自分自身のことは勿論のこと、人の身も考えて生きねばなりません。
過去を振り返っても、勇気を出すより逃げる方が遥かに楽だったなと思います。
しかし、逃げた先にはまた逃げる道ばかりがあるのです。
逃げて逃げて、どうしようもなくならないと人はわからないものだと思いますが、一度でも絶望したらもう逃げない方がいいのです。
人間関係は財産です。
自分自身で積み上げていくものです。
今も、これからも、過去からの継続なのです。
かつて、共に乗り越えた関係を知っているので、その大切さは良く知っています。
あちこちに顔を出そうと思っていても、つい面倒だったり後回しになったりということがあります。
理由をつければいくつでも理由はつけられます。
やることがない時などありませんから。
それでも、向こうには向こうの時間があるのだから、いるよという存在の確認と、いたなという存在の確認をし続けるのです。
いるよ、いたな。
人の心は繋がれば強いですが、繋がりを強くするまではもろいものです。
人間関係は常に、共に力を尽くして作り出すものです。
夫婦と同じですね。
互いの優しさや信じる勇気が、絆となっていきます。
学生時代は楽に友人が作れたと思います。その辺に同級生は沢山いるからです。
大人になると難しくなります。自力で努力しなくては、何も手に入らなくなるのが大人なのだなと思います。
自分に何をしてくれたか、してくれないかで、僕は人を選んでいません。
大抵の人は相手が自分にとって有益な存在かどうかで判断しています。
しかし、大切なことは「仲良くしたいと思っているかどうか」ではないでしょうか。
人は物ではない。
僕はそう思っています。
優秀かどうか、思い通りにするかどうかで判断された子供時代があり、それが嫌だったので僕はそこで自分を判断しなくなりました。
そんなもので判断されたくない、そんなところで価値を求められたくない。
だからこそ、自分はそこで自分を判断しないのです。
自分自身が必要とする人を判断する内容と、同じもので自分を判断しています。
自分自身に求めたものを持つ人が、自分の周りには集まります。
だからこそ、「欲しい人」に望むものを、自分自身に望んでおくのです。
「信じることが最も大切」
と僕が以前手紙で送ったのだと、生徒のひとりに言われました。
今もそう思っています。
信じることが最も大切です。
信じて欲しいなら、信じるのです。
疑うことほど簡単なものはなく、不安に負けてしまえばあっと言う間です。
その負けの分は、相手に傷ついてもらうのです。
疑われて傷ついた人ほど、人を信じる勇気を出せるのだろうと思います。
傷ついたから傷つきたくない、という不安は当然です。
しかし、自分自身が体験したからこそ、同じ傷を他人が負うことを避けなくてはと思えるのです。
その傷を、過去に負ったことがある自分が負わせてはならない、と思うものです。
疑えば、誰彼構わず傷つくことができます。
人を疑えばなんでもない言葉にも、実際は違う意味でも、簡単に傷つけます。
人を疑うことで傷つくくらいなら、人を信じて傷つかない方がずっと楽です。
疑って人を避けたら傷つかないと思った頃がありましたが、疑わずに信じた方がチクチクと傷つくことがないのです。
信じる勇気で心を開いていると、小さなとげのようなものは吹き飛ばしてしまえます。
相手の心の奥には、きっと良いものがあると信じることが大切だと僕は思っています。
そうなのかどうなのか、実際にはわからなくても、信じたいから信じるのです。
どうせわからないなら、疑って死ぬよりも信じて死ぬ人間になりたいと、僕が僕自身に望んでいるのです。
自分に何を望むか。
そこで人生は大きく変わっていくのです。
「受け入れてもらえるかどうか」を気にする時は、心を開かずとも受け入れてもらえます。
「受け入れてあげなくては」と相手に必要な人となりたい時、心を開かねばならないのです。
だからこそ、好きな人には特に心を開いていかねば距離が近づかないのです。