僕の先生でもある加藤諦三先生が、なぜこんなに神経症というものに拘らなくてはならなかったのかずっと考えている。
重要な点は、彼が精神分析学を学んだ時、本人自身が神経症者だったということだろう。
彼の著書を読んでいると、引用されている他の学者の部分はともかく、彼自身の考え方としては「神経症者の親に育てられたんだから、しょうがない」という諦めにも近いものがあるのだと一見思える。
だが、もし本当に諦めていたら、まず人にいちいち言わない。本に書かない。
おかしいなと思ったのは、それだった。
なぜ今もこんなことをしているのだろうか?と疑問を持った。
諦めたならば、しょうがないと思うならば、もうそれで終わったことだ。
しょうがないんだ、しょうがないんだ、と言い聞かせているのは自分に対してなのだろう。
なにに対して言い聞かせているのか?
何がしょうがないのか?
彼自身の反応、普段の性格から考えるに、完璧ではなかったことについてなのだろう。
彼は完璧なエリートの道を歩み、完全無欠の「正しい人」として生きてきたわけだから、自分の方が間違っていたなど驚愕では済まないことだろう。
自分に問題があった、という現実は受け入れ難いことで、その身代わりとして父親に盾になってもらわなくてはならなかったのだろう。
殆どの人は東大に行けなくても生きていけないとは思わない。
しかし彼はそうではなかった。
しかも今の東大ではなく、「東京帝大時代」の話だ。
大学なんてものが全国に今ほど溢れ返っていない時代だ。
彼はスーパーエリートでスーパー富裕層のお坊ちゃんなのだから、その辺をはき違えて考えてはならない。
彼には、世界の逆転に堪える強さはなかっただろう。
僕は何度も怒鳴られていたが、この人は弱いんだなと思った。
ただ、本人が隠していない。自分で言っている。「心理的弱者」と。
自分がその枠に入るのにその言葉を使うということは、自分が他人に優しくされたいという願望の現れでしかない。
最初から優遇された立場になるための発言だ。
普通は、自分が配慮してもらう側に入る時に、そんなことは言わない。
可哀想がって欲しい、ちやほやされたいという願望があるからそんなことを言うのだ。
他人に気を使ってもらいたくないならば、そんなことは言わない。
寧ろ言わない。
彼にとっては、自分が完璧ではないことが大変なことなのだろう。
できないところには、理由をつけ、「これのせいだからしょうがない」と言い続けるのだ。
話を総合すると、言いたいことはひとつだ。
「私は完璧だ、何も悪くない」
そういうことだ。
神経症の親の子の努力は、人より大変なものなのだと、自分で言っている。
つまり、あの父親の子なのにこんなに努力している私は、すごいのだ、と言いたいのだ。
自分が不幸であるという情報を他人に与えれば、他人は気を遣う。
他人は、本音を言わなくなる。傷つけないように気をつけるようになる。
「気に入らないことを言わせたくない」ということだ。
気を遣わねばならない相手といると、疲れる。嫌いか好きかの前に気を付けなくてはならないことが沢山あるから疲れる。
どこにいてもビシッときちんとしている人といると、疲れる。
相手がリラックスしていても一人でビシッとしている人といると、きちんとしている人の方が相手を疲れさせる。
人間は自然にリラックスしていられる時の方が気持ちが楽だ。
だから、いつでもきちんとしている人は、社会で評価される場以外では遠ざけられる。
仕事では必要だけど、普段は要らない。
能力は必要だけど、人間としては要らない。
そんな感じの扱いになっていく。実際そうだから。
人に望まれた能力は持っていても、人に望まれる人格を持っていない。
友人や伴侶としては求められない。
能力が高いならば能力は求められる。
人として求められないということは「私」が求められないということだ。
そして、「自分がない人」は、より一層求められるために能力ばかり求める。
加藤諦三先生の中では、正しいかどうか、できるかどうか、わかっているかどうか、ということに価値が置かれていた。
正しいことがわかっていない人は、正しいことがわかるように「ならねばならない」のだ。
彼はもうそんなに先が長くない。
気の毒なことだと思う。
彼は「本当の友達」を知らないのだなと思った。
「いいことをしている」という理由がなくては、誰も何もしてくれないと思っているのだとわかった。
正しいとか能力が高いとか、どうでもいいことなのに。
説明などされなくても、彼が何かに焦っていて、心細く生きていることはわかる。
見ればわかる。
彼がいいことをしていようがそうでなかろうが、そんなことは関係なくできることはするのに、彼は「これが如何に必要で正しいことなのか」を強調していた。
そこまで必死にならなくてはいけない何かがあるのだ。
「もう自分はわかった!もう平気!」
そういうタイプなのだ。よくいる神経症的反応だと思う。
著書を読んでいて、彼が如何にしらみつぶしに自分の神経症的側面を叩き潰そうとしていたのかはよくわかる。
「私にもまだこんなところがあったか!」
と驚くことがあると書かれていた。
可哀想に、まるっきり反対に突っ走ってしまったのだ。
今更、気づいたからといって、そこから「私は正しいいい人になる」と思ってしまったのだ。
もう手遅れなのだ、と受け入れなかったのだ。
気づいた時には、もう手遅れ。
それが現実なのだ。
「今まで間違っていたけれど、それは父親が神経症だったせいで、私は優しい子だから狙われたのであって、父親があんな父親なら人よりどんなに辛いかを周りがわかっていないのが悪いのであって…」
そんな感じのループを、自分ができもしないのに他人を評価することで安心しながら生きている。
全ては彼が安心して生きていくために必要なのだ。
「もっと優しくしてよ!」
と言いたいのだ。
ある本物の幼児が叫んだ。
「もっとやさしくして!」
ちっとも満たされることなく、たかが幼児の頃にそんなことを叫ばなくてはならない心の苦しみは如何なるものだろうか。
しかし、そのような状況になる時、必ず親の方が思っている。
「もっとやさしくして!」
赤ん坊が生まれては、暴れている。その赤ん坊が子供を産んで、またその子が暴れる。
「もっとやさしくして!」と。
どんなに社会的に望ましいことをしても、立派な業績を残しても、詰まるところはそれなのだ。
「もっとくれ」
もっと、もっとくれ。
こんなものじゃ足りないから、もっともっとくれ。
お前たちの命を使って、私にもっとくれ。
もっともっと、お前たちは私のために何かをしろ。
本物は、無自覚にやっている。
そんなことしているつもりはない、と慌てるのが本物の鬼だ。
無自覚にやっているからこそ本物なのだ。
加藤諦三先生の本を読んだ人が、「自分は神経症の親の子だから、どうにもならないのだ」と嘆き続けるとしたら、それはそれで本人のせいでしかない。
その行いが人にとってどんな意味になるのか、人様のことを考えずに生きている本人の責任だ。
自分一人のために他人が存在していると思っていなければ、人様のことを考える。
「自分がこれをすることで、周りの人はどう思うだろうか?」と。
「私をどう思うか」ではない。
どんな気持ちになるか。
「じゃあ自分ももうどうにもならないんだ」と思わないだろうか。
自分の親に対して尊敬の念が湧かなくなるのではないだろうか。
だが、彼の場合の希望は僕の場合の希望ではなかった。
「自分が悪いんじゃない、親のせいなのだ、だからしょうがないのだ、自分は悪くなかった!」
これが彼にとっての希望なのだ。
「こんな自分でも、それでもできることはある。」
それが彼の明るい未来なのだ。
「こんな自分」
これが、傲慢であると思っていないのだ。