普段は有料会員向けの心眼術なのですけども、今回は皆さん読める形で書きます。
これから読む内容を、決して人に話さないでください。言葉にして人に伝えるなという意味です。
一人で考えること、また僕に質問してくることは問題ありません。決して他に出さないこと。わからないことはわからないまま、考え続けて保持してください。無理やり判断はしなくていいので、覚えておいてください。
現在進行形なのであまり言葉にしない方がいいかなと思ったのですが、約束を守っていただくことを必須として読んでください。
ちなみに、僕が言う「こうした方がいい」という「悪行」を犯さないためのアドバイスは、別に僕が怒るとか責めるとか、間違いを指摘するという話ではないんですよ。
因果なので、それをやると、取り返しがつかない変化が起きるよ、というだけです。内面の変化のことなので、取り返しはつかないですよ。
十悪を犯さないように生きるためです。
一度紡ぎ出した因果は終わりがないし、それを転じていくためにはまた紡ぎ直しになります。大変な時間がかかるので、最初からやめておいた方がいいんです。いきなりパッと変えることはできないんですよ。
口で何を言うか、自分が正しいとか頑張ったとか、そんなことなんにも関係ないのです。
今回の話は、今までの経緯を知らない人は理解できないかもしれないですが、一応会員の皆さんに向けての説明として書きます。
加藤諦三先生の新刊が出ました。
今までの細かい説明も省き、非常に簡単に、ある意味わかりやすく表現されていて、ひとつひとつも短く書かれていました。
より彼の感情が伝わってきました。
わかりますかね。多分、勤勉な会員の皆さんでもわからないと思うので説明します。前回の新刊の際にお話したことを覚えている方は、思い出してください。
これが断末魔の叫びです。
いいのかな、これそのまま書いちゃって、という気持ちではありますが、別に特別なことではないです。
精神世界の話なので、物質的な世界とは関係ないというか、見えないことです。殆どの方が世界をひとつにして言葉を聞くので、誤解されてしょうがないですが、精神世界で起きていることの話です。
皆さんは彼に限らず、また僕についてもですが、他人の意見や著書を読んで、その人の「心」まで見ないと思います。
今それを書きながらどんな気持ちか、という簡単な話ではなく、その人の中でどんな変化が起き、どのような状態になっているのか、姿を見るかのように「わかる」のが僕の言う「心眼術」です。
今回、やはり間違いないな、と納得すると共に、良かったと思いました。
どうしても、確認してからの方が安心しますからね。
僕も結果を見るまでは、「道理で考えればそうなるはずだ」としか思っていません。そして結果を見て「やっぱりそうなんだな」と納得して安心しています。
今回は教授のたまりにたまった鬱憤がよくわかりました。半世紀以上かけて人の愚癡を聞き続けた彼の怒りが強く感じられました。
彼は頑張っている方です。凄まじく努力もしています。現実の物理的苦労は並大抵ではないです。そうなると、自分より遥かに努力していない人に対して怒りがこみ上げるのは人間として当たり前です。
いつまでも同じことをグズグズ言い続けて人のせいにしては怒っている人の話を、延々と聞き続け、聞き続け、聞き続けて生きてきた彼です。そして本を書き、また書き、他にもあれもこれも役職を持ち、多忙で多忙で仕方ない人生を送ってきておられます。
それも、親をはじめ間違っている人が許せなくて続けている努力や苦労なら、いい加減にしろと言いたくなる怒りがこみ上げるのは当然です。
甘えるな!、という声が聞こえてくる気がしますが、やはり「できる人、できない人」に分けて考えておられるのだなと再確認しました。
彼自身が、かつての自分の甘えに対して怒りを感じて「自分はもう違う!」と死ぬ気で転じてきたのだと思いますが、「もう自分は平気」という状態になると、優越した気でいますから、「できない人を自分が導いて教え諭してあげよう」という態度になります。
簡単に言うと、自分は被害者だったけどもう大丈夫だから、強くなった自分が同じようにいじめられている人たちを助けるために、悪人と戦うぞという流れです。
つまり、まだ終わっていないです。これが出ることのできない輪廻の輪です。
母親が老いて尚、死に際になっても恩着せがましく「今までお前にしてやったことがこんなにあるんだぞ」とくどくどと言い聞かせてくる、なんて話があります。
これと同じことが起きています。形はまるっきり違うのですが、精神の世界でどうなっていくのかという話では同じです。
死の淵で、人がどうなると思いますか?
完全な受け身になるのです。
もう防衛するものが無くなります。
その時の恐怖は、受け身でい続け防衛的に努力してきた人の場合はすさまじいものです。
人を拒否して抑えつけてきたならば、死の淵の恐怖は大変なものです。
みんなが襲い掛かってくるかのような恐れが、無自覚に生まれてきます。
すると、先の話のように「どんなにしてやったか」または「こういう人間は良くない人間なのだ!」と善悪を自分で決めることで、自分に仕返ししてきそうな悪から身を守ろうとするのです。
自分こそ悪人である、という自覚にたどり着かなかった人は、こうなります。
ちなみに僕は、少し前に書きましたが教授には再三進言申し上げてきましたので、「あー間に合わないー」と焦っています。
なんかこのやり方は間違っているんだなーと思いながら最近はスマナサーラ長老の話を聞きつつ、原因に気づきました。
人は変えることも、間違いを指摘して改善させることもできません。
命令はしてはいけないので、「こうしたら、こうなるよ」という道理を教えるしかないのです。
図々しくも自分を棚に上げていたら「自分だって~したでしょう」と教える、または「そんなことしていると、こうなるよ」と想像させる。
そこにあるものは、経緯あってそうなっているのだとわかるように、考えられるように促す。
やはり、ブッダが最強ですね。どこまでいってもあの教えを超えるものはないですね。
僕は前々から書いています。あんなことしてたら、死ぬのが怖くなるのにと。
あんなことと言うては失礼かもしれませんが、形あることの方ではなく、精神世界でやっていることの方を指しています。
「年寄りになると子供みたいになる、と言われることがあるが、そうではなくて、元々心理的には幼児だったのが年を取って直接的な言動になって現れているだけなのだ」
これは加藤諦三先生から直接教わったことです。そしてその通りです。
段々直接的になります。
昨年は、自身の祖父が如何に偉大であったかを書かれていました。身を守りに入ってきた、とわかりました。
そして、転じて攻撃に入りました。
後は、何もかもから切り離されていくだけです。
冷たいように聞こえますか?
いいえ。
それは皆さんが、自分の命だけ特別だと思っているからです。
みんな同じです。誰かの命だけが特別だったり、偉い人、肩書のある人だけがなんでも許されるわけではありません。
人間が許すかどうかなど関係ありません。
無意識に存在している自分自身が許さないから、こうなっていくのです。
今回、最後はメランコリー型のうつ病であったという、リンカーンを例に出していました。
彼が如何に「他人から見て立派だったか」に注目していました。彼の偉業の方を見て、どれだけ大勢の人に恩恵を与えたかという話に焦点を当て、母親は早くに死んだが父親は感情的には死んでいた、このリンカーンの話を聞いても、それでも不幸な人と言うかと、締めくくっていました。
遂に、人に幸せだと言わせにきてしまった、黙らせにきた、と思いました。自由を奪いに来たということは、それだけ恐れが強くなってきたという証。
うつ病だったからこそ、人に希望を与えたのだと彼はリンカーンについて述べていました。
しかし、人に希望を与えましょうと、僕は一番最初に彼に言われましたが、その時「なんで?」と思いました。
結局、何も変わらなかったのだなと。
「私は幸せだ」と言い張る。これも彼から教わったことです。
「最終的には自分には完全に問題はない」と言い張る。こうなるともうどうにもならないと。
うつ病であっても、人の幸福のために力を尽くす「私」という存在で生きてしまったのだなと。
それでも、他人を幸せにするために貢献しているから、いいじゃないかという話になってきていますが、「自分自身の幸福」はどうしたのかという問題があります。
「あなたさえ幸せなら、私はそれでいいの。」
この母親の恩着せがましい、苦しみながらの優しさに、「もういい加減にして!そんなの要らないよ!」とキレた娘がいました。
いつも言っている、時間のずれの話を思い出してください。
幸せになりたいと願う決意が大事、と西洋では言うようですが、幸せは「気づくもの」です。
今既に不幸ではない、と気づけて、不幸は消えるものです。
幸せになろうとしているのは、今不幸だからです。
幸せな人は、幸せになろうとしない。
あれがないからこれがダメだから、だから今が不幸で、というスタートが間違っている。
僕は五歳の頃に、親が自分を捨てたと気づき、祖母に「もういいことなんてないから死にたい」と言いました。
すると祖母は言いました。
「じゃあ死ね!」
容赦ないですよ。甘やかしてなどもらえません。
生きてきていいことがあると思っているその「贅沢」を叱られただけです。
生きることは苦。それしかない。
それしかないです。
加藤諦三先生は、本当に「褒めてもらうため、認めてもらうため」に頑張ってきたのだなと再確認しました。最後はちょっと怖くなるくらいのものを感じました。
しばらく前にふと気づきました。彼は「正しいことをしてきた」というところに価値があると思っているのだなと。
仲間はそんなこと関係ないです。間違っていても、もし悪いことをしていても、仲間は仲間で、味方は味方です。
彼はそれがわからなかったんだと思いました。
「私を否定した!」と怒ってしまうのだなと。
正しいことをしているから、自分に価値がある。社会的に貢献できたから、価値がある。
そんなことを言ったら、世の中の殆どの人を「価値がない」と言っているようなものです。
最終的には、うつ病であっても幸福なのだ、それでも頑張ったんだからいいじゃないかという結論になってしまい、矛盾しました。
僕はその境界線を越えてきたので、自分が外に目を向けていなかっただけなのだと知っています。敵なんて最初からいないです。
親もそうです。
親の方が怖がっていただけなのです。今の教授のように。
自分を批判してくる人たちがいると勘違いして、自分を心配してくる人も、違うことを言っている人も、全員敵に見えてしまった。
親の呪縛は本当に恐ろしいものだと思います。社会もですが、親が進ませるレールにはその価値観しか存在しません。変わることは難しいのです。
社会的に立派だったかどうかに、最終的に全人間の価値が置かれてしまい、「生きているだけで価値がある」とはならなかったのです。
更に先に行くと、「価値も意味もない」という段階に進んでいきます。
今回の本は非常にわかりやすかったです。
うつ病者に自分が不幸だと「言わせない」だけの脅しが入っていました。
一応、僕は言っておきます。
自分は不幸だと思うならば、そうなのだからそうなのです。
他人がどうであろうが、リンカーンがどうであろうが、自分は不幸だと嘆くならば、自分には考えねばならないことがあるのです。
何かを見落としているのです。
リンカーンの他にリンカーンはいません。
加藤諦三に代わりがいないように。
晩年になり、周りを黙らせるようなことを言い出す例は沢山あります。
人の目を気にしていた人が、他人にどう言われるのか気にするのは「死んだあと」です。
死んだ先のことまで心配するのが人目を気にする人です。
「自分が死んだら」と想像したことがある人もいるでしょう。みんなはどうなるかと。
それです。でも知ることはできないと、本当に死ぬときになればわかります。どうなるかわからない不安です。
今回はすごい人の名を出してきたなと思いましたが、彼はどうしても自分で語らないですね。
本人は自覚がないと思いますが、僕は見ていてこの人は話の才能があるんだなと思っていました。落語のように楽しい話をして聞かせたら、すごい才能を発揮しそうだと思いましたが、彼が人の価値を感じる分野や内容は、そんなものではなかったでしょう。
すごい能力があるのに、社会的価値にばかり目を向けるのだなと不思議でした。
常に他人の名を借りて身を守ると、段々怖くなってきます。
神経症の人にはよく見られます。率直にいって、元々生まれ育ちのいい人たちは持っている知識と教養が違いますから、いくらでもなんでも例に出して話ができます。
なんとなくその「すごい話」「難しい高度な内容」に気を取られる人が多いと思います。
僕はそんなことどうでもいいのです。
教授は大丈夫かなと。精神の世界の方です。
怖くなるのに、と思っていました。社会的には押しも押されもせぬ功績があるのは分かっていますが、安心感があるかなしかで言えば、全然ないのは一緒にいてわかりましたから。
感じることで言葉にしなくてもわかる力。それがある人はわかります。
思い込みではないんですよ。お互いに、人間同士はテレパシーのように感じているもので感じ合うことができます。
うちに来た生徒の中で、僕と目が合って自然とにっこり笑った人がいます。
その瞬間に起きたそれです。
会った一度目に起きた人もいました。がぶちゃん、君だ。
僕は頭の中に妄想が全くないので、いつも皆さんを見ています。
精神の存在を見ています。
スマナサーラ長老がブッダの教えについて「信じるではなく、確信ができる」と説明していました。
本当に覚醒し体得した人は、それが本当かどうか疑う余地など持ちません。
「ほんとだ!」
実感するからです。それが本当にわかるようになる時です。
僕は加藤諦三先生は怖くないんです。正しいかどうかで誰とも争っていないし、できるかできないかで人の価値が変わるとは思っていません。
彼自身が、何かに追いつめられているなと思いました。
どうしたらその精神の苦しみから救えるだろうかと思っていましたが、この考えが間違いなのだなと僕も気づきました。
さすがに、自分の母親にしたようにはうまくいかないですね。
僕の母は最期には泣いて詫びてきましたが、あれで僕の気が済んだのではなく、母の気持ちが楽になったのです。
それでいいのです。
ただ、こっちの話はもう遅いですね。
皆さんも、自分が間違っていると言われるのではないか、とビビっているかもしれません。
ならば、正しいかどうかを気にして周りを見ないことです。
それが気になっている人は、それ以前に「今まで自分で考えて決めてこなかった」でしょう。
それが原因です。ですから、間違っていたとしても、間違っていたことではなく「自分の頭で考えて、納得した道を来なかったこと」を悔いてください。
そして、これからはきちんと自分自身で考え、決意して、覚悟を決めてしっかり選んだ道を進んでください。小さなことから、大きなことまでです。
加藤諦三先生は「愛された人」という夢みたいな人生を送っている人がいると勘違いしているなと思いました。
そんな人はいないです。
僕も「祖母に引き取られて」と一言言っただけで「やはり代理母か」とすぐに知った気になられていました。
心の中では「いや、血のつながりもないし、そういう感じではないけど」と思いましたけど、そう思いたくなるのがこの人なのだと思って、そのままにしていました。
教授は、ビビり過ぎだと思いました。
深刻に考えすぎ。
彼の功績を後から罵る人はいないです。
そして今も思います。当時彼に直接言ったのと同じことを思います。
そんなことより、奥さんや家族と一緒に、ゆっくりお茶を楽しむような時間を設けてくださいと。
どうしても、社会で起きている問題に心を乱されることがあります。
なんとかしなくては、と周りに合わせて動いてしまいます。
しかし、そうならないのは「自分なんてそんなに大それた人間じゃない」と受け入れている人です。
自分なんて価値がないと思っている人は、そもそも「自分は特別だ」と思っているからそんなことで落ち込むのです。
自分に価値があるかなしかなど、考える必要もない。
自己執着が強すぎると、身を滅ぼします。
僕はできることでもやりたくないとやめてしまいます。
どんなに才能があるとか言われても、やめてしまいます。
自分という存在がそこまで特別ではないと思っているからです。
いくらでも代わりはいます。
しかし、僕の人生において僕の代わりはいないのです。
僕の大事な人達にとって、僕の代わりはいないのです。
だから僕は僕にしかできないことを最優先にします。
それにしても。
不思議!
こんな風に浮き彫りになっていくのだなと、改めて思いました。
生も死も同じこと。
苦しんでも楽しんでも、ただ生きているだけです。
僕はそんなに勇気がないのですが、スマナサーラ長老に倣いストレートな表現をするならば、彼は格好つけすぎてしまいました。
彼の良さは、親しみやすさは、そこではないのに…と思います。
意外な愛嬌のような部分を、皆さん親しみやすさとして見ていたのに。
学びに行っていた皆さんに聞いたことがあるのです。
「彼自身のダメな部分の方が知りたい」
自分たちと同じように苦しんでいるならば、ダメなところがあるはずなのにという話なのです。
何が正しいとか、どうしなくてはならないとか、それではなく。
「私はこんな風にダメなんだけどな」と思う部分がある。
そこで、それをどうしたらいいかとか、親のせいかどうかではなく、自分たちと同じであるはずの、加藤諦三先生はどうなのかなと、それが気になると皆さん言っていました。
「あの人はもう何もないのかな」「私たちとは違うんじゃない」
そんな風に思えるのです。
あるというなら、その内容を聞きたい。
その気持ちはわかります。
ただ、僕が知る限り「今が完璧」でありたい人は、常に「今は平気」なので、それが出てくることはないでしょう。
彼は間違うことを愛嬌だとは考えていないので、矛盾していてもそれを笑えないと思います。
失敗がおいしいとは思えないでしょうし、指摘されたらバカにされたとか笑い者にされたとか、そんな風にしか思えないであろうと思いました。
しかし、今回は反対意見を言わねばならないと思いました。
このままでは、うつ病に苦しんでいても幸せ、みんなの幸せを願って社会的に功績を残せたから価値がある、という話になってしまいます。
自分を全肯定しにきたなあと思いましたが、僕はまだ可能性は捨ててはいないです。人のことは本当にはわからないですから。
もし、僕が彼の立場ならば、敢えて今回のように矛盾した話をすることにより、自分が叩かれ役になっても人を反対側に進ませたい、と考えるだろうと思います。
何十年も間違った方向にもしひた走ってきたら、誰から見てもわかるように反発を生む形にしなくては収拾がつかないのではないかと。
間違いとか、正しいことに、「良いかどうか」の「許可」があると思っている。
この本質的な勘違いは、解けない人は解けないのだと思います。
あるがまま。一切の解釈を加えない。
恰好をつけない。
僕も悪いことをしてしまいました、最初はわからなかったので、彼を信じて寧ろ追いつめてしまうようなことを言ってしまったと思います。形の上では全く問題ないことですが、形の上で肯定的なつもりが相手を苦しめてしまう、それが矛盾した人を相手にするとどうしても起きることですから。
そんなわけで、今回は特によく考えている生徒たちに確認したいと思います。
今回の僕の話はわかりましたか?
人の心は「気持ち」のことではなく「存在そのもの」だと思ってください。
精神の自分、精神の相手。姿形には見えないし、この世に存在していない「私」ですが、その「私」という存在を見ることなのです。
精神の中では他人の様子を伺いながら、「こう動かせばいいのかな…」と人の話を聞きつつ、自分の身体を二人羽織のように動かしている人が殆どです。
怖くないから、大丈夫ですよ。
人間しかいません。表面を見ないことです。
心の中の存在がそのまま喋るのではありません。
自分で形に変えて出てきても大丈夫ですよ。
ちゃんと自分で考えて存在しましょう。自分の人生です。自分自身だけは自分で考えて動かせますからね。
大きなことは考えずともいいのです。長く内側にこもって生きていると、すごいことをしなくてはならない気がしてきます。
目の前に人がいるならば、その人に話しかけてまず仲良くなってみましょう。
そのくらいの気持ちでいいのです。
今回は書くのを憚ろうかと思いましたが、ここは勇気を出して投稿しておきましょう。
皆さんが恐れているものは何も起きないので、大丈夫です。
加藤諦三先生にもお伝えしたいところです。
自分自身が、うつ病である自分に価値は無い、と思っているから、これでもかというほど「それでもいいのだ」と言わせたくなるのでしょう。
うつ病も神経症も変化する流れの中の一部であり、今を切り取って良し悪しを決定づけるものではありません。
本当に「それでも幸福だ」と思っている人は、既にそんなことを考えずに生きています。
どうしてもそう思えないからこそ、人に言い続けなくてはならないのだ。
とわかるようになったのも、教授のお陰なので僕は感謝し続けています。
そして、教授はリンカーンではありません。
加藤諦三は、加藤諦三であるから価値がある。
もし、加藤諦三が自分では素直になれず偽の自分で生きてしまっても、実在した加藤諦三はその人ひとりしかいないから、やはり価値は同じです。
それら全て含めて「加藤諦三」なのですから。