加藤諦三先生のことを前回の記事に書いて、メランコリー型のうつ病者の危険についてひとつ注意しておきます
本人が気づいていないのは
「利用されている」
という点です
加藤諦三先生もそうでした
周りにいる人たちは、ちやほやして賛辞しているけれど、結局利用している
一般の方も裏表があるなと思いましたが、なぜこうも周りにいけ好かない感じの人たちがいるのか
利用されていても「自分がやるしかないんだ」と思ってしまうのが、メランコリー型の人だと思います
やたら色んなことを引き受けているようでしたが、どう考えても押し付けられている
結局責任があることをやらされている
バカにされても、煽てられていても、都合がいいと思っていても
それでも、「責任を持って正しいこと」をしてしまう
無責任になって「やーめた!」とはならない
ちなみに、僕もこの親和型うつ病になったことがあります
驚かれるのですが、不思議はないですよ
生まれた時から精神的に病気の人はいないです
後からなったり治ったりするのが病気でしょう
どうも「うつ病であっても」という考え方は、治らないという前提で考えているような気がします
最初は違ったのだから、治るのが普通でしょう
治りますよ
妄想でなるものですから
元の考え方には必ず自分に都合のいい部分があるので、それを叩きなおしていくのです
恐らく、人と争わない押し付けられ型の人は、そのやり方の方が楽だと思いますよ
都合のいい「美化」をそのままにしているから、いつまでも利用されるのです
ブッダの説いた通りにしていれば治りますよ
ブッダは心のお医者さんと言った人がいましたが、うまく言ったものです
ただ、押し付けられ傾向が強いことは自分でもわかっていますから、その辺は程度をわきまえていくしかないのです
それについては過去の経験があってのものだと思いますが、無理をして何度も失敗して、段々学んでいきます
そのためには、身近な人達との体験が大事です
乗り越えるにはやはり慈悲です
人の身を思う心があれば、自分の中に憎しみを携えないことを第一に考えるようになれます
道理についてはブッダが正しいとしても、世界については本人の人格が観ている世界の話です
教授は、全部自分のことを言われていると勘違いする人でしたが、それもよくいる人です
その勘違いから生まれた世界の話をしているのです
うつ病者の見る世界です
ですから、自分が病んでいる時には賛同できるところが沢山あると思います
それもまた必要です
部分部分に必要な人がいますからね
その人でなくてはできないこともあるんですよ
人間は色んな人が沢山いなくてはならないんですよ
この人、という正しい人ひとりいればいいわけではありません
大体、そんなこと無理ですから
父と母も、全く違う人がふたりいてバランスが取れるのです
自分が色々な側面に移動するように変化しながら体験を積み、そして色んな側面から見られるようになるだけです
たまたまその時期にある人が、たまたま丁度タイミングが合った人の助けになるだけで、変化しながらそれぞれ進んでいくものですが、停滞しているとそうはいきません
人に押し付ける人は、無責任です
加藤諦三先生のように人一倍責任を背負う人は、責任感は強く、破綻や破滅を恐れている人です
大変なことになってしまう!
そんな事態で、自分だけ取り残される
すると「なんとかしなきゃ!」と頑張ってしまう
こういう方、いると思います
「え!誰もやってくれないの?!でもこのままじゃ…」
どうにかしなくてはならないことだから、誰かがやらなくては
そこで「私がやらねば」になってしまう
つぶれかかった家の屋根を一人で支えるような真似をしてしまう
そこに手伝うこともなく平気でいる人たちがいるのに
手伝うこともしない人たちは、言い訳しながらやってくれない
でも、家がつぶれたら困るじゃないか!と思うでしょう
押し付けられる人はそう思うのです
自分も困るけど、皆だって困ると
僕が病んでいた頃はその状態で一人で支えていました
ここで、違う答えを出すのです
「つぶれてしまえ」
みんなで支えられなくなったものは、既に必要ないのです
一度破綻して、再生する時なのです
一人で支えていると、それを認めてもらいたくなりますから
我慢していると、どうしても自分の方が偉いすごいと誰かに認めて欲しくなります
だからやめてしまうのです
もう、いらないものなんですよ
他に行かねばならない時なのです
自分の生きる世界の視界から消えたら、そのうち気にもならなくなります
どうせいつか死にます
死ぬまで持っていけるものなんて何もありません
頑張って支えてきた人にとっては、これからに期待したいものかもしれません
しかし、なにひとつ頑張って支えずに得てきた人たちにとっては、どうでもいいものなのです
残念に思うかもしれませんが、そうなんですよ
「タダじゃないならいいや!」
この程度なんですよ
人間は自分が頑張って力を尽くしているからそれが大事になるのであって、そうでない人たちから見たらそんな感覚は湧いてこないのです
それどころか、支えなくなった人間に文句を言う輩もいるでしょう
そのくらい「人任せでいいや」という代物なのです
その事実を受け入れ、諦め、無駄な努力はしないことです
最初からきちんと目的を同じくして、心をひとつにして頑張れる仲間もいます
そのためにも、他人と心をひとつにできる自分である方が先なのです
もうひとつ気づいたことがあります
「意見が違うと味方ではない」と自分の世界に引きこもる人は思うようですね
意見が違わないならば、他人じゃないです
相手の意見が自分と一致しないから敵になるわけではないです
意見が違っても味方は味方です
同じことをしなくても、味方は味方です
自分を理解してくれた=意見が一致、同意してくれる
これはあまりにも安易で愚かな結論です
僕は相棒が犯罪を犯しても味方です
いいことをしているから味方になるなんて人は、最初から味方でもなんでもないです
お互いに「頭おかしい、お前はバカだ」と言っていても、無二の親友は変わらず親友です
そして
人間の味方になることをそんなにごちゃごちゃ考えて決める方が、僕には理解できません
味方は助けてくれます、相手が相手の力を使って自分を助けてくれるから
相手のものを奪いに行く必要がないのです
それが仲間というものです
相手が損したら自分が損したも同じこと
一蓮托生、共同体です
人間だからという理由だけで、助けたり味方したりするのは普通のことだと思います
考えるまでもなく、そう判断するものではないでしょうか