先日、会員向けの方に開戦時の昭和16年に発行されたメディアを紹介した記事を載せました。
こちらには簡単に要点だけ書きます。
僕たちに向けて、老人たち、またエリート層が「なんにもわかってない」かのように罵ってきます。
間違いを指摘し、批判し、そして「自分の頭で考えろ!」と言い放ちます。
その「自分の頭で考えている人たち」は一体どのような環境下で育ったのか、確認し続けております。
やはり相手が伝えたいことを理解するためには、一体なぜそう思うのか、相手の育った時代や環境、生い立ちなどを考えねばなりません。
想像の範囲から外れているならば、想像可能になるようによく調べて知っていく必要があります。
そんなわけで、確認し続けていてよく分かったことがあります。
老人たちが言っていることも、「権威の話を鵜呑みにしただけ」です。
かつて発行された「写真週報」(内閣情報部発行の雑誌)に書かれていることと同じ内容を、「本当に正しい日本人とは」と言いながら話している人たちが沢山いました。
要は、やられたことを真似しているだけなのです。
当時の権威の言うことを確認もせずに鵜呑みにし、「自分の頭で考えることなく」偉い人たちに従って生き続けている人たちが、今の若い世代を「堕落した」と決めつけて、自分たちが教わってきた「正しいこと」を自分がそうであるように鵜呑みにして生きさせようとしているだけです。
自分が自分の頭で考えていると勘違いしているのです。
権威ある方にも率直に意見してきて良かったです。おかしなことを言うので疑問を持つようになりましたが、僕が「偉い人」に合わせて意見しなかったらなんにも気づかなかったでしょう。
皆さんもやたら強気で拷問してくる人に対して、感情的に押し負けて意味もわからないまま自分を悪者にしないように気をつけてください。
本当に自分の頭で考えている人は、自分がそうであるから相手の考えたことを知ろうとします。
自分で考えている人は、人の考えを聞いては否定して「本当に正しいこと」を言わせるようにしたり、物を言わせない状況を作り出しません。
権威に従うだけの人は言っていることは立派ですが、その立派なものを誇示して威張っていられるのは「自分で考えてはいないから」です。
内容の立派さの前に、威張るとか、責め立てるとか、バカにするとか、人として劣る行為をしないものです。
皆さんは、自分で全て考えて結論を出した時、他人に対して「これが絶対に正しい!」と言い切れるでしょうか?
自分で考えただけで、他人には一人も同じことを言う人がいないのです。
それでも、自分一人で考えたことが他人にとっても正しいことだと言い切れるでしょうか?
自分はそう思うけども、他の人がどう思うかはわからない、と思うでしょう。
それが本当に「自分で考えている人」です。
自分の意思がある人は、他人を評価して是非を判定しません。それができるのは「先にこれが正しいと教えられたこと」を言っている人だけです。
他人から見てどうなのか?
自分で考えた時は、わからないので気になりますよね。
そうなると「他人はどう考えるのかな?」と気になるのが当たり前なのです。
人に意見をさせては、それを批判する。拒否して黙らせる。
それが「権威に従って生きている人」です。
人間は自分自身がやっていることを他人に投影します。無自覚の場合は猛烈に人を批判して攻撃します。
そこに自分が間違っているかも、知らないことがあるのかも、と受け入れる余地がありません。
何を言っても無駄。何を言われても「自分が正しい」としか言う気がない。
ただ「これは良くない!」と言い切り、「それは間違ってる!」と人を黙らせに行く、怯えさせに行く。
自分自身が他人を受け入れる気がないのです。新しいこと、知らないことに興味はなく、なんでも知っていてなんでもわかると勘違いしているのです。
「問題ある人たちが正しい人に変われば、世の中は良くなる」
この姿勢で国民全体を教育していた明治以降の軍国主義時代。
過去を遡り、当時の国民が何を当たり前として目に入れて生きていたのか確認してみると、面白いことがわかります。
「なんだよ!自分たちだって言われたこと鵜呑みにしてるだけじゃないか!」
と憤慨したくなる人もいるかもしれません。
目上の人に責められるので罪悪感を持ち、間違っている自分を恥ずかしいと思ったかもしれません。
全く問題はありません。
全員ただの人間です。
日本人は全体が権威に従いやすいです。
かつて九割が農民でしたから、よくわからないのでそうするしかなかったのです。
僕は前々から言う通り、九割に入らない家の人間です。
没落したとはいえ家の中では外から言われることを鵜呑みにして生きる人間はいませんでした。
振り返って確認してみても、「なんて可哀想なことをしたのか」と善良な農民たちを憂うばかりです。
みんなが権威の言う事を信じ、真面目に頑張った結果が今なのだとよくわかります。
国家のため、他国に勝つため、最終的には皆の為だから…という理由で、一般的理想を用いては「日本国民ならばこうあるべき」と繰り返し調教したのです。
明治以降「日本男児ならば」「日本女性ならば」などと言われるようになり、「恥ずかしい日本人、または男女になりたくない」と思った人達は真面目にその教えに従いました。
そこだけ見ていると特に疑問がわかないのですが、ふと、それは関係なく江戸の世のことを思い出すと不思議なことに気づきます。
「そんなこと、昔は言われていなかった」
それぞれが住み分けしていました。そもそも藩は国と同じように別々の法律で動いていましたから、他藩がどうなのかは知る由もない部分もあります。
「各自やっている」地方自治の時代でした。
確かに後半は江戸の世も段々と堕落してきたのですが、それでも全体が「こうあるべき」なんて理想の姿になるよう教育されていたことはありません。
そんなことは全く気にしていない時代でした。
「この時期から、初めて「正しい日本人」なる偶像が作られたのだな」と思いました。
僕はたまたま、大多数の人とは全く違う教育を受ける家に生まれました。
なんにも偉くはないのですが、偉い人にもビビりません。
外から見ればうちも昔は「偉い人の家」でしたから。
しかし、ほとんどの人は「想像がつかない」ので、それっぽく言われたことは素直に信じてしまいました。
今や自分たちでもよく分かっていないのに、権威に許可してもらえたから自分は正しいとか、偉いのだとか思い込んで生きている人たちがエリート層に沢山いることになりました。
本当に弱者の立場にある人たちに優越感を持ち、見下しているのです。
しかし、大多数の庶民の皆さんはそんなことを気にすることはありません。傷ついてバカにする必要もありません。
自分で考えて好きにしていいのだと知り、おかしな呪縛から解放されることです。
社会的に正しいと言われることはあります。昔と違い「農民だからこれが普通」なんて違いを考慮する寛容な目も無くなり、「日本国民なら誰もが」なんて馬鹿げたことを言うようになりました。
別に犯罪を犯したわけでもないし、寧ろ公務員や政治家や、医師や弁護士、果ては警察官までもが犯罪を犯して捕まっているくらいです。
国のために悪事を犯すことが「立派なことだ」と勘違いしている人がいると最近になり知りました。精神的に向上することなく、権力だけ持った人間は欲望のままに生きる他ありません。
覚えたこと、与えれた力はなんでも欲のために使います。
しかし、どんな立派な説明をつけようが、悪事は悪事です。
日本人はすっかり洗脳されて騙されている!と声高に叫ぶ人たちが、「本当に正しいことは私が教える方だからね!」とまた新たに洗脳しようとしてくる。
その人たちも、子供の頃からカルト教団じみた教育を受けて育ってきたのです。
しかし、善悪がひっくり返って相手を敵視したのではまだまだ同じ土俵です。
今までのことは今までのこととして正しく現実を認識する。そして同じ過ちを繰り返すことのないよう、一旦ゼロから「争いのない道とは何か」を考えねばなりません。
争いの無い道は、一歩目から争いがない道なのです。
勝ち組側になればいいという話ではなく、どちらが正しくなって争っても、争いの中にいることには変わりないのです。
写真週報は国会図書館にデータがあるので、興味がある方は確認可能です。昔の印刷物なのでデータ化してもよく読めない部分がありますが、ざっと確認するだけでも新たな発見があるかもしれませんよ。
知識や経験が増えないうちに、新しいことを確信して判断はできません。
そして何もかもを確認していたら、必要なことをする時間が無くなってしまいます。
こうして僕が説明していることを聞いても、少なくとも考えることなく鵜呑みにすることなく、一旦自分の頭でも想像してみて、道理が通ったならば納得するという過程を決して飛ばさないようにしてください。
しかし、少なくとも自分自身の中にあるものは確認可能ですから、最低限「自分の中にあるものをしっかり確認する能力」だけは持つように鍛えておきましょう。
自分の中でもよく考えて結論を出さなくては、あっちで言われたことを鵜呑みにし、今度はこっちで言われたことを鵜呑みにし、最初から最後まで人の言葉に翻弄されて、欲を満たすため苦から逃れるため、右往左往しているような人生になってしまいます。
どうしても人間は、言葉が作り出した「脳内の概念」を存在だと勘違いして生きてしまいます。
それが事実なのか、脳内に作っただけの幻なのか、思うより遥かに区別なく生きているものですから、やたら争いの種を生まぬよう、冷静に我に返り考えることが必要です。
あなたが自分の頭の中で考え判断することは自分自身のためであり、自分のために考えてあげる手間暇は惜しまないことです。