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愛されずに育っても問題はない~無料記事~

 結論が出たので、断言しておきます。

 愛されずに育ったとしても、自分の人生を生きられないわけでも、不幸な道を行くわけでもないです。

 全く関係ないので、大丈夫です。

 誰でも大丈夫です。

 これから有料会員向けに少し説明したものを配信しますが、全部説明していると時間がかかるのでそれは後日になります。

 でもとにかく大丈夫です。

 皆さん気にならないようなのですが、愛されずに育った自分、という人間の未来は、永遠に来ないゴールを求めて彷徨うだけのものになります。

 仕方ないのでこれも断言しておきますが、加藤諦三先生も彷徨っておられます。

 愛されずに育った人が本当に救われたら、もう自分を好きになって幸せとは何か知っているでしょう。

 全然そうなっていないのは、方法が間違っているからです。

 不幸な人は救いを求めるし、救い主になりたがります。

 だからセットになって存在しているだけで、そのセットは固定されているので変わることはありません。

 しかし、固定されたセットから単独で個人の人生を生きる道に進みたいなら方法はあります。

 僕は最終的にどうすればいいのか明確にわかって説明できるようになるまで、考え続けなくてはならないと思っています。

 なので、考え終わって原因もわかって、どうすればいいのかもわかったので早めに答えだけは書いておきます。

 まったく心配いらないことなので、もし「今までの人生はなんだったのか」と思うほど平和で「普通」な道を行きたい人は、安心してください。

 心理学では自己不在なんて言いますが、その原因もわかりました。

 大丈夫です。

 やろうと思えば、誰でもできる方法でなんとかなります。

 私は愛されていない、と思った人は、子供から見た親、親の行動や発言など形あるものだけで愛されていない気の毒な人間だと思ったでしょう。

 親の胸の内や、誰にも言えずにいること、親の思い描く想像など、まだ知らないこと沢山あるでしょう。

 それらを合わせたら、納得できるようになっていますから大丈夫です。

 僕が子供は親が好きなもの、と決めつけてしまい、「親を見捨てていないか」と疑うのも失礼な気がしていたので、気づくのが遅くなりましたね。

 優しい子、という表現を加藤諦三先生がよく使うのです。

 優しい子なら、親を謀ることも疑うこともないです。我慢して従ったりしないです。

 あと、自分で自分のこと優しい子なんて言わないです。

 本当に優しかったら、親のことを心配して親に恥をかかせたくないと思っています。

 優しさは心です。

 相手の心を大事にするのが優しさです。

 だから優しい子は親の心を大事にしています。

 ご機嫌を取るのは親を疑っている子供なので優しくありません。

 親を恐れて信じない子は優しい子ではありません。

 その辺の誤解もあると思いますが、とにかくそういったことはどうでもいいのです。

 本当に、今まで悩んでいたことがなんなのかってくらい、全然違う方向性でなんとかなります。

 新しい世界が生まれるだけなので、苦しんで何かを変えていく必要はありません。

 とりあえずそれだけは先に皆さんに伝えておきます。

 僕はわかるにはわかりますが、もう現代社会に昔のようなやり方も職業もないので、説明の仕方を考えることにします。

 ブッダの説いた通りなので、本当に気づくだけ、心配無用です。

難易度が高いと思われる事実の認識~無料記事~

 理解の難易度が高いと思われる内容を書きます。

 殆どの人はこれを読んでも理解できない可能性が高いと思われますが、理解できる人もいるかもしれないので考察を書いておきます。

 「親子」の存在についての認識、自分の存在についての認識です。

 昔から親は自分の前世と言われていました。

 それは、無自覚に行動している部分は親の模倣をしているからです。

 それ自体は心理学方面でも確認されていますが、感情面も同時にそっくりになっています。

 他人に言われなくても、自分が誰かの子である限り自力で確認可能なことです。

 しかし、どうやら殆どの人は「自分」の存在を自分で創作しているようです。

 親と子の繋がりにおいて、肉体は遺伝子レベルで同一の存在です。

 無意識部分についてはそのほとんどが模倣です。

 同じ行動をとることにより、内面も同じになっていきます。

 自分がやられて嫌だったことを、いつの間にか無自覚に自分もやっている、といった行動にそれは現れます。

 内面が同じになっているのです。つまり中身が同じなのです。

 異なる部分は「意識の部分」です。

 意識の部分は人間の行動を操るたった5%前後程度です。

 つまりほんの僅かなのです。

 その程度しかないのに、「傲慢」な人は5%で全てわかっているつもりなのです。

 小さな行動としては、「人のせいにする」の積み重ねで意識の自分はより思い込みを強くしていきます。

 無自覚にやったことも自分がやったと自覚していく人は、「気づく」ことでより多くを自分の意識で変えていきます。

 無意識にやっていたことに気づく。そして自分で意識して変えていく。

 これで、自分が納得いく部分がひとつ増えた、となる。

 自己啓発的なこと、心理学を使ってやっていく改善的なことは殆どこれです。

 何かを習慣化することも、意識して改善していくためのものです。

 「こうするといい」と言われていることを意識して行う。それにより自分の変化を期待する。

 これは殆どの人が理解できるところでしょう。

 しかし、より深く考える場合は更に「こうするといい」と言われていることを実行して何かを改善し、自分を「良くしよう」としているのは何を目的にしているためなのか、を自覚します。

 無意識の動機は、他人にはわかりません。自覚するしかありません。

 それが難易度の高い方です。

 「なぜ、自分は自分を変えようとしているのだろうか?」

 こうした点は、自問自答でしか解決していけません。自分で気づきたくないことを避けていると、気づけません。

 「意識している自分」だけが自分だと思っていると、自分がどんなに頑張ってもうまくいかない人生になっていきます。

 「こんなに自分はちゃんとできてるんだ!他の人は褒めてくれるんだ!」

 そんな風に威張りながら、しかし結果望んだようにはなっていない、ということになっていくでしょう。

 うまくいかない癖に、威張っている。自分は正しい、間違いない、と言っている。

 誰が正しいと言ってくれたとか、褒めてくれるとか、自分のせいじゃないとみんなが言うとか、他人の「せい」にしながら自分を肯定して威張る。

 この時点で、厳しい言い方をするならバカ丸出しです。

 目的は「期待していた未来の結果」で、「誰が正しいか優劣を競うこと」ではなかったはずなのに、最終的には「期待した結果になったかどうか」はどうでも良くなっているのです。

 結婚を失敗した友人が、「あの人は本当に酷い人だった、あの人はこういうところがダメだった」と十年経ってもまだ言っています。うちの母と同じことをしています。

 「どっちがより良い伴侶役を演じられるかの勝負」をしていたのです。

 「こんなに素敵な妻ですよ」をやり遂げると、愛されて幸せになれると思っていたのです。

 結婚も恋愛も、勘違いしているのです。

 自分をバカにした親を恨み、自分が「こんなに立派にできるんだぞ!」と見せびらかしたくなっているだけなのだと、気づかないのです。

 これは、人生そのものが始まっていない時の人間です。

 自分は親の来世、親は自分の前世。

 自分は親の子として生まれてきた。

 これを自覚するのは、難しいようです。

 この親の子だ、となれば、親を評価などできません。

 「もっとこうであってくれれば」

 と思う視点自体が、今の自分に対する自己執着の強さであり、個人的欲求から来る感情を基に生み出した発想です。

 その視点を離れ、今の自分の「我」を捨てて物を見ることができていません。

 例えば、僕の場合は母に事実でもないことを決めつけられ、常に罵られ続けましたが、その時に「母が言ったこと」を軸に考え、それに対して生まれた自分の感情面から物事を見ると嘆くことになります。

 これは母の言動を発端として生まれたものなので、僕自身の考えから生み出したものではありません。
 母親主体に考えた場合の結果です。

 親を親として考えた場合、同じ流れになりません。

 母が罵声を浴びせ続けていることを客観視して考えます。

 なぜ、我が子にこんなことを言うのだろうか?と考えます。

 子供の中から憎しみや悲しみが生まれてきます。子供とは、自分のことですが、客観的に見るので「自分」とは考えません。

 子供の中から怒りや憎しみが生まれ、親を恨むようになれば親にとって利がありません。

 また、感情が生み出されたことにより子供が親と同じ行動を他人を相手に実行するようになります。

 親と子は、そっくり同じ行動をとるようになり、相手に対してもやられた側の時に生まれた感情を生み出させるようになります。

 細かい状況が同じであるわけがありませんから、本質的には同じことを繰り返しているという点で同一であると確認できます。

 意識の上では親と自分は違う存在だと思っているので、同じことをしている気はありません。

 実際には同じ行動を取っていても、「中身は違う」と思いたがる自分が意識の自分です。

 その自分は「誰ともつながりのない存在」です。

 自分だけが特別だと思っている自分であり、誰の子でもありません。

 その誰の子でもない意識の自分が、「この人の子として生まれたのだ」と自覚して、自分が親の子として生きていく人生を「始める意思があるかどうか」がこの世に生まれてくる気があるかどうかです。

 嫌でもなんでも、その親の子としての人生しか始められません。

 「あんな親」と親を憎み拒否して救いを求める人は、誰の子でもないこの世とつながりのない存在として生きていくことになります。

 死ぬまで頑張っても、「あの親」としか繋がりはない存在です。

 親がいないと生まれてこなかったので、その親の子としての人生しか生きていけません。

 そうなると、「親を違う親に変える」を試みるようになります。

 生まれてきてもいい、人生を始める気になれる親になってくれれば、人生を始めてもいいのです。

 「あの親の子として人生を始めるくらいなら、遊んでいた方がいいや」

 そんな感じになってしまう人が大多数です。

 社会には楽しいことも沢山ありますから、「人生」などどうでも良くなります。

 そうなると、なんの経緯もない、繋がりもない、ただ単独でこの世に存在している自分として生きていくことになります。

 存在そのものが、誰ともつながりの無い存在なのです。

 親そっくりな行動をとっていると気づいても、内面的に「同じだ」と自覚して親になれる人はなかなかいないようです。

 難易度が高いどころか理解できないとは思いますが、僕はその経緯を理解して親が自分の前世であると理解しているので、自分の行動を生み出す内面的なものが「どこから来たのか」と考え母の過去やご先祖様の過去まで遡って考えられます。

 だから「これは自分がやりたいことではない」と自覚して、やめることもできます。

 親子の繋がりを自覚していると、解決方法もわかります。

 親が過去にしていたことの理由、当時の内面を自分が体験することによって知ることができます。

 親子だから成せることです。

 自分が自分ではない者の意思で行動していると、これからどうなるかもわかります。

 自分のものがわかるようになると、他人のものもわかるようになります。

 人は人の模倣をするだけ。

 それは、加藤諦三先生の本を読んだ人がそっくり同じように精神分析を使って「気に入らない人」を変えるために説明したがるのと同じです。

 皆さん加藤諦三になっていくのです。

 自分を捨て、加藤諦三になっていくのです。

 彼が自覚したくないことを、他の人も自覚せずに済むようになります。

 同じ行動をとり続ける人は、中身が同じなのです。似たような人たちが群がるのはそのせいです。

 独立した意思がある人は違います。考えあって自分が生きているからです。

 僕が「フランケンシュタイン」と呼んでいる人たちは、親のみならず、そのように権威ある何者かなど、自分が強いと思う人間の模倣をし、同化を試みて生きている人です。

 自分はどこにもないのです。

 自分の意識が自分を操れているかどうかが重要なのに、行動のすべてが「他人の模倣」なのです。

 それで自分の人生を生きていけるわけがありません。

 たった5%程度、意識して操れても、意識してすぐに変えられるものは「言葉」しかないのですから、それでは何も変わらないでしょう。

 頭の中でどんなに理解していても、行動が伴わないと意味がありません。

 どうしようもない結果しか出てこない時、たとえば僕が子供の頃のように「お友達と仲良くなりたい」という願望を持ちながら、やろうとしていることは「自分が目立って注目され、尊敬されたがる行動」になっていた時のようになります。

 この場合は、「友達と仲良くなりたいなんて思っていない」と気付けばいいのです。

 無意識と意識の時間がズレたのです。

 いつも言う通り、過去の未練が自分の時間をズラしていきます。

 絶対にうまくいくことがありません。

 だから時間のズレは修正した方がいいのです。

 意識と無意識の両方を正しく理解できないと、意識の方が「そんなことない、自分はみんなと仲良くなりたいと本当に思ってる!」と無意識の自分を見捨てていくのです。

 無意識の自分を見捨てると自分を嫌いになります。自分を嫌いになると他人にも嫌われるような気がしてきます。

 だから、意識の上でどんなに友達と仲良くなろうとしている「つもり」で頑張っても、人を疑い、憎み、そして実際に取っている行動も「より目立って尊敬されようとする行為」になっていくのです。

 そもそも、意識の自分が「この自分しか自分がいない」と思い込んでいるからそうなるのです。

 傲慢ですね。

 正直、大したことではないです。

 人生そのものはなんにもいいことがない人生になるかもしれませんが、大したことではないです。

 ただ自分の人生が自分で意識しているものとは全く違うものになっていくだけのことであり、仕組みを考えれば「普通」なので特に騒ぐことでもなく、気にするほどのことでもありません。

 大それたことに思えるのは、自分のことを特別な存在だと思っているからであり、そんな人はごまんといるので気にするほどのことではありません。

 どんなに不幸に嘆いて生きることになっても、親も似たような人生ですから一人ではないのです。

 世の中にも沢山いるのだから、寂しくもないことです。

 皆と同じであるという、「最大の目的」が叶っているので平気です。

 幸せになりたい人もいれば、「皆と同じ」になりたい人もいます。

 みんなが不幸なら自分も不幸な人生がいいのです。

 親を拒否して人の子として生まれてこない場合、「自分だけがみんなと違う」と思うしかないので、どうしても他人と同化することで繋がりを持とうとするのです。

 それでも、どうしても「あの親の子だけは拒否」であるのだから、自分で選んだ道です。

 どんだけ嫌な親だとそんなことになるのか、と思いますが、どうしようもない親なのかどうかは、子供自身しか知る由もないのです。

 難易度が高い理解のようですね。

 わかるようになると大変便利だと思いますが、難しいようです。

 親子の場合、親の内面を知ることは可能です。

 他人の場合は確実に知るなんてことは無理なのですが、親の場合だけはわかります。

 見えないものを確認できる、たったひとつの存在が親です。

 そのつながりを持って確信を得るしかないのですが、どうしても「親が嫌」ならそれもまた致し方ないことです。

 その拒否もまた、親とそっくりになっているはずですから。

 ただ繰り返されるだけ。ただずっと代々同じことをしているだけなのです。

殆どの人は母親なんてどうでもよかった ~無料記事~

 僕の一番の誤算はこれしかない。

 「親に愛されていない」という事実が、僕にとっては重大なことで、その事実は一生を左右するほどの一大事だった。

 だからこそ、僕は親を信じて生きてきたし、最終的には親に感謝することもできた。

 親に愛されなかった。

 それを簡単に受け入れて、ただ嘆いて「他にいいことないかなー」なんて諦めて生きる気になれなかったからだ。

 ところが

 殆どの人は違った。親に愛されなかったことを受け入れ、ただ恨み憎しみを持って生きていた。

 憎いだけ。

 その事実の方に僕は絶望した。

 親に愛されていないという事実は、そんなに軽いものだったのか。

 親に捨てられたとか、母に虐げられているとか、それを重大に思えたのは僕が愛情に飢えすぎていたからなのだろうか。

 僕はてっきり、自分と同じように親に愛されていない事実を到底受け入れられない人たちが苦しんでいるのだと思っていたから、少なくとも子供の方は親が好きなのだと思っていたから、親を信じて生きる道を示していけばいいと思っていた。

 そんなことはなかった。

 そんなものは必要なかった。

 多くの人が必要としているものは、許せない親を見返すために、自分が如何に偉大な存在なのか見せつける手段だった。

 親は自分の子がただの自分の子だと思っている。

 ところが子供の方は違った。

 親の子ではなく、特別な存在が生まれてきたのだと、親とは関係のない人類にとって特別な存在なのだと思っている。

 親と同じ人間ではなく、自分だけが特別なのだと。

 傲慢もここに極まれりといった感じだが、そんな人に僕がしてきたことが必要なわけがない。

 僕は母の子として生まれ、そして生きてきた。

 母の子なのだということは子供の頃に自覚したし、自分は特別でもなんでもないただの人間だとわかっていた。

 特別な存在でありたいという願望はあったが、事実違うから違うとわかっていた。

 だからこそ、母に愛されていないことは重大な事実だと考えたし、「そんなわけがない」と信じる道を選んだ。

 何を信じるかなど、人の自由だ。

 信じているもの自体を「変えろ」とは言えない。本人が信じる道を行くのは当然だから。

 どんな道を信じて生きるも本人の自由。

 どんな道を行くか決めるのは本人でしかない。

 「決める」なんて頭の中で行うことは、本人にしかできない。

 だから、僕にできることはないと最近は思えてきたのだ。

家庭独自の教育が人生を変える

 日記。これは僕が恐らくそうだろうと思っていること。

 僕の家の人間は、社会では全員そこそこ優秀になっている。
 成績や学歴の話ではなく、能力的な話だ。

 悩んでいる人々を見てきて、特に技を体得させようとして気づいたのだが、ひょっとして基本教育を受けていないのかもしれない。

 マニュアル化されて世間で全員に行うことではなく、家庭内での教育のことだ。

 礼儀作法のことでもなく、決まった何かではない。

 そのひとつが、集中力を養うための教育だ。

 名前は知らないし、最近になり自分が受けていた教育の内容を考えてわかったことだ。

 家の中で行うお手伝いのような内容なのだが、それは意図的に行われる教育、修行だ。

 残念なことに、思い出そうとしてもよく思い出せずにいる。

 同じものを沢山用意されて、只管同じ作業をさせられたりしたのだが、一体何をしたのだったか。

 
 覚えているもののひとつは、食器洗いだ。

 ただ洗い物をして終わるのではなく、何度でも繰り返す。

 横で親が見張っている。

 見る。やる。を繰り返す。

 「お前は今、手だけ動かしている。見たままただ手を真似して動かしているだけだ。意識しろ。」

 こんな風に指摘されながら、違う、違う、と何度もやり直しさせられ、集中して行えるようになるまで繰り返す。

 意識を使う、という技を体得する。集中力を養う。

 五歳か六歳か、そのくらいから始める。

 僕はかなり手遅れレベルの年で始められたので、もう七歳にはなっていた。

 因果関係は、もっと幼い頃に教わる。

 してもらったら、してあげる。

 お返しをするという意味ではない。

 「してくれた人の苦労を自分が体験するため」

 自分の目の前にやってきたものが、どうやってやってきたのか。

 幼いうちは体験がなく、想像がつかない。だから実際に全て行って想像可能にさせる。

 そうすることにより、何かをもらった時に「これはどこからきたのか」と自然に考えるようになる。

 そのような幼児教育を、悩んでいる人たちが受けていないようだったのだ。

 だったら、人の気持ちなんて想像しなくても不思議はない、と思った。

 なんでもやらせてみないとわからない。

 そして思考は行動から生まれる癖となるので、繰り返すことで自然と目の前にあるものがどこから来たのか考えるようになる。

 全てのものが何かと繋がっていて、ここにひとつなにとも無関係に存在しているわけではないのだ、と段々理解していく。

 様々な「考えもしないこと」を考えさせるためには、このような教育が必要だ。

 ただ、この手のことは社会で義務化されていない。

 よって、親の教育、家の教育に全てがかかっていると言っても過言ではない。

 学校では勉強を教えるし、集団生活の中で必要なことは教える。

 しかし、友達との付き合い方については、親のサポートが不可欠だ。

 友達と喧嘩して怒っていること、傷ついていること、必ず起きる事態だ。

 そんな時に友達を悪者にしたり、どっちが正しい、悪いと言い出したら子供は他人と仲良くしていけない子になる。

 どちらかが悪者になるような判断を親が下してしまえば、わかり合うという付き合い方ができなくなる。

 親は勝手に判断してはいけない。思うことがあっても、言わずに子供に解決させなくてはならない。

 自力で乗り越えさせるためのサポーターなのだから、親は代わりに問題を解決などできない。

 最近は自分が教育しないのに学校に責任を押し付ける真似をする親がいるから、先生たちも大変なのだ。

 自分の子がいじめで自殺したのに、学校の先生が気付いてあげなかった、と責められる。

 自殺するほど悩んでいるなら予兆は必ずある。生まれた時から毎日一緒に生活している親が気付かないのに、先生の責任にするのはお門違いだ。

 まず「自分が気付いてあげられなかったこと」についてショックを受けるのが普通の親だろう。

 自分の苦労に気づいてくれない、と恨むのは子供だけでいい。

 親がそんなことをしたら、子供は誰からも気づいてもらえない。

 まして何十人もの生徒をいっぺんに見ている先生に、ひとりひとりの日々の細かい変化に完璧に気づけという方が難しい。

 先生たちも人間だ。自分の生活、家族のことで悩んでいることだってある。

 いつだって変化なく存在している人間はいないのだから、周りにいた人たちそれぞれが自分の責任を感じたとしても、最も重要な存在は親であることは間違いない。

 しかし、そんなおかしな話が社会的に当たり前のように受け入れられていて、学校側を批判している人たちも殆ど疑問を持っていない。

 なんとなく適当にやっている。

 しかし、なんとなく適当にやっていればいいわけではない。

 思考するにも、集中力は必要だ。

 自然と発達することもあるが、訓練することで誰でも育てることはできる。

 自己教育しか大人になったらやることはないが、子供のうちは他人が育てることもできる。

 見せびらかすための努力をしている人の場合は、これが終わっても誰も褒めてはくれない、という行いに全く興味がない。

 だから自分自身の能力は開花させられない。

 または非常に難しいと言える。

 教育について疑問が湧いたのは、僕が「当たり前にできる」と思い込んでいたことを誰もできなかったからだ。

 体得してしまえば人格だってまるっきり変えることはできる。

 新しい人格を体得すればいいからだ。

 だが、集中力がなくなってしまったらどうにもならない。

 この場合は、ふたつのケースが考えられる。

 ・実際には集中力を持っているのに、ノイローゼ状態等で一時的に集中できない人

 ・元々養ってきておらず、集中力がない人

 どちらにせよ、ノイローゼ状態の人はそこから快復する方が先だろう。

 僕はうつ病になったことがあるが、その時はどうにもこうにも集中できず、ノイローゼ状態でもそれはあるのだが、とにかく「今までできたはずのことができない」という状態になる。

 何をしてもすごく疲れる。意欲が維持できない。

 そんな状態になる。

 そのような状態の人は、あくまでも一時的なものなので、精神的に快復すれば元々の力が発揮できるようになるだろう。

 様々なケースがあるので、どのやり方が正しいとは言えないが、少なくとも自分が特別だと思っているナルシシストの場合は、現実に直面するしかない。

 そして教育については、行った場合とそうでない場合は明確に違いが現れる。

 それは僕自身が、自分と姉の違いで確認してそう思っている。

 僕は一族の武家修行らしきものを行ってきた。

 姉は一族と離れ、父と母の新婚ごっこの中で育った。

 だから父にそっくりで、教育を受けずに幼児期を過ごしてきたのでその後の教育も素直に受けることなく、今も傍若無人で人の気持ちがまったくわからない人になった。

 ただ怒鳴ったり責めたりすることで他人を動かして喜んでいるが、友達はいない。

 慕われる、ということがないために、代わりに怒鳴りつけて命令している、と言える。

 うちの人間でありながら、賢さがない。

 誰が、どのように、どんな環境で教育してきたか。

 これは生涯を通じて変わることはない部分なので、後からどうにもできない。

 そうした意味では、僕のように完全に割を食って生きてきた人の方が、自力で克服したり修正したりする可能性があるだけマシだと言えるだろう。

 人生を通じて人をバカにして威張っていられる「優越感」を幸せと呼ぶか、謙虚に人を尊敬し、感謝して感じられる「一体感」を幸せと呼ぶか。

 これは違いの問題ではなく、一体感の方が本物の幸福と呼ばれるものだ。

 同一感ではなく、違う存在でありながら、見えない繋がりを持っていることを実感し、感じる感覚。

 「自分は愛されている」

 これが感じられる人は、想像力があるし、人の身になって考えられる。

 「いま、ここにあるものは一体どこからやってきたのか」

 そんな想像をする思考が癖のように身についていることは、幸福な人生を送る上では非常に重要なこととなるだろう。

 しかし、現代社会では、ことそのような能力を身に着けさせる教育をしていないのが現状だ。

 他人に勝つため、人より多く得るため、自分だけが特別な存在だと認めさせるため、と、欲深く生きている現代社会人は、多くのものを得ながら今日も憂いている。

優しさの強要、わかりにくい虐め

 今回は末子が最もうけやすい虐待についてです

 優しい子であることを強要されてきて、犠牲を払うのが当たり前になってきた人

 僕もその立場で生きてきましたが、健全な世界に行くためには自分では我儘だと思えてもやらなくてはならないことがあります

 「当たり前の主張をする」

 なんとなく、自分の意思を主張すること自体が「わがままだ」と思えているので、「やらないと迷惑」な場面であっても控えていようとしてしまいます

 自分を本当に受け入れて尊重している人たちは、「仲間になりたくないんだ」とがっかりしてしまいます

 願望を平気で口に出している人はもちろんこのタイプではありません

動画はYouTubeより